別視点 知らなくても良い事

ある夏の思い出、少女と天狗の邂逅

 住吉家は、代々この国を守ってきた一族だ。古くは平安時代の武家が住吉家の始まりで、現代では親戚一同が警察官、検事、裁判官、自衛官と、国家安全に携わる職に就いている。そんな家で育った私は、世間から正義であらねばならない職種の裏側、大を生かすために小を殺す部分を見てきた。国という巨大な生き物を生かすには、時に非情な手段を下す必要がある。常識で考えれば、それは完全なる悪だ。しかし必要悪でもある。その悪をなさねば、多くの人民の命が失われる。であるなら、下される非情の決断とは、国を生かすためのトリアージと言えるかもしれない。

 もちろん、神ならぬ身、命に優劣をつけるなどおこがましい話だ。住吉家の人間は、誰もが自分はいずれ地獄に落ちると思っている。

 幼いころからそんな環境に身を置けば、なるほど、正義などというものは立場でコロコロと変わる浮気者であるから、フィクションのように絶対的に正しい物はこの世に存在しないと理解した。友人たちが騒ぐドラマやアニメ、漫画や小説は、必ず正義と悪が存在するから、住吉家の私が興味を持てなくなるのは必然だった。

 悪は存在する。小さな悪か、大きな悪かはさておき。そして、それらを食らう悪の総本山こそが自分たち。正義など、存在しない。幼い私は、一種の諦めのようなものを抱えて生きていた。

 あの時までは。


 最高気温を塗り替えた、ある夏の日。私は住吉家に恨みを抱く者たちによって誘拐された。

 その日は家族皆で墓参りの為、奥州の山奥に来ていた。墓参りや住職のお経は、どれほどありがたい物であれ、十歳の私にとっては退屈極まりない物だった。そんな事よりもやらねばならない事がいっぱいあった。京都の科捜研にいる叔母に出された課題をクリアせねばならないのだ。

 警察官になることが義務付けられている私だが、その実、向いていないことを早々に理解していた。運動能力もさほど高いとは言えないし、そもそも痛いのは嫌だし、争い事も苦手だった。自分の苦手な物三つが必須の警察官になれるわけがない。

 そんな時、叔母の存在が私に希望を与えてくれた。科捜研は警察組織の一部ではあるが、その仕事は科学を用いた真実の解明で、警察学校に行く必要もないし体力がなくても良い。叔母に連絡を取り、どうすれば科捜研に入れるのかと尋ねた。

 大学卒業と高度な知識。それがスタートラインだと叔母は答えた。その日から、私の戦いは始まった。叔母も自分に続く科捜研の職員候補が嬉しかったのか私の決断を歓迎し、喜んで課題を出してくれた。それこそ山のように出してくれた。

 望むところだった。どうせ私には他にやることはない。趣味もないし遊ぶ相手もいないのだから。

 そうして夏休みのほとんどの時間を課題に割り振っていたのだが、墓参りの時間のせいで今日予定していた分よりも課題が進んでいない。

 私はトイレと偽り、お参りを抜け出して駐車場に向かった。車の中に、課題が入ったタブレット端末がある。それさえあればどこでも課題ができる。鍵は母の鞄から拝借しておいた。小走りに駆けていくと、何者かが車を取り囲んでいた。寺院関係者、には見えない。そもそも寺院関係者が人の車を覗き込むような真似をしない。

 当然、住吉家の人間でもない。家族全員が墓参りに参列しているのだから。では、彼らは一体何者なのか。

 車を囲んでいたうちの一人が、こちらの気配に気づいた。目が合う。反射的に逃げ出した。

 血走った目だった。私に向けた目は、憎しみに満ちていた。

「待て!」

 声と足音が追ってくる。十歳の、それも運動が得意ではない私が追いつかれるのに一分もかからなかった。

 口を塞がれ、身動きを封じられ、荷物のように担がれた私は、連中によって誘拐された。道中の車の中で、彼らの話を聞きたくもないが聞き、子どもにもわかるよう要約すると、彼らは住吉家に恨みを持つ者たち。唯一の救いと言っていいかはわからないが、反社会的な人間の集まりだった。これが、住吉家の大義である、大のために小を殺した、その小の遺族だったらなんともやるせない話だが、きちんとした悪党どもなので、まっとうに恨むことが出来る。

 彼らの当初の予定では、車に爆薬を仕掛けて爆発させるつもりだったが、私に見つかったことで焦り、急遽予定を変更し、誘拐に変更したようだ。そんなグダグダな計画しか立てられないなら計画しないで欲しい。結局爆弾もセットできなかったようだし。

 狂った計画の相談と怒声が充満する車は山奥へと進んでいく。顔を見られたからには私を生かしてはおけない、とりあえずそこは一致したらしい。

「降りろ」

 男の一人が、私を車から引きずり下ろした。地べたに這いつくばる。直接土に触れた手やひざがひんやりした。

「もったいねえな。あと十年もすりゃあ、店でナンバーワンになれただろうに」

 顎をぐいと持ち上げられ、力づくで左右に振られる。

「ふん、その店もこいつの一族に潰されたんだろうが」

「ちげえねえ」

 顎を掴んでいた手が、首にかかる。

「恨むんなら、父親を恨め」

 徐々に力が籠められ、反比例するように空気が取り込めなくなってくる。いくら足掻いても、男の手は緩まない。意識が薄れていく。もうだめだ、と諦めた。その時だ。

「おい」

 手の力が急に緩んだ。欠乏している酸素を一気に吸い込んで、むせる。目に涙があふれた。

 涙でぼやける視界が、影を捉えた。

「お前ら、犯罪者だろう」

 影が、こちらを指さした。正確には、私の後ろにいる連中に向けて。

「そん女の子離せや、なあ!」

「何だ、こいつ。何を言ってやがる」

「正義感気取りのガキが。妙な方言使いやがって」

「こいつも、殺すか」

「ああ。顔、見られちまったしな」

 連中が、影を取り囲む。ぼやけた視界が、ようやく実像を結ぶ。影は、少年だった。真っ黒に日焼けした、薩摩十字がプリントされたシャツを着ている。奥州なのに。伊達家の竹に雀とか、九曜じゃないのか。

 大の大人四人に囲まれて、しかし少年は笑った。

「おいの手柄ちなってくりゃ」

 そして、消えた。本当に消えたようにしか見えなかった。

「よ?」

 右端にいた男が、突然上を向いたままジャンプした。違う。男の足元に、少年が腕を天に向けて存在した。殴ったのだ。見えないほど素早く動き、男の懐に潜り込んで、その顎をかち上げたのだ。

「なっ」

 驚いた仲間の男は、驚いた顔のままくの字に折れ曲がって吹き飛んだ。みぞおちに少年の蹴りを食らって。少年は蹴った回転そのままに、隣にいたもう一人の足を払い、男が地面と綺麗に平行になったところで腹に踵を落とした。唾液を吐きながら、男は白目をむいた。

 十秒にも満たない、あっという間の出来事だった。少年の目が最後の獲物、私の首を絞めていた男に向く。途端、恐怖に駆られた男は私の首に手をかけ、ナイフを取り出して首筋に突きつけた。

「く、来るな!」

 少年が止まる。猛禽を彷彿させる、らんらんとした丸い目を鋭く細める。

「近づくなよ、こいつがどうなっても良いのか?」

 私を人質にしたまま、男が逃げようとする。

「お前のような奴は、いらん」

 少年が吐き出すように言った。

「あ? 何だ? 妙な事は」

「か弱い女、子どもを傷つけ、盾にするような卑劣な奴は、倒したところで手柄にも自慢にもならん」

 少年の腕がかすむ。同時

「痛っ!」

 男の手からナイフが弾かれる。石を投げつけたのだと、遅れて気づく。

「てめ」

 男が手から顔を正面に戻した時、その真ん前に少年はいた。少年は私を拘束していた手を引きはがして言った。男の掴まれた腕がミシミシと悲鳴を上げている。

「命だけ、置いていけ」

「ひ」

 自由になった私に見えたのは、男の引きつった顔だった。どれほど恐ろしいものを見たのかわからないほど、怯え切った顔だった。

 気づけば、男は地面に倒れ伏していた。腰がありえないほど捻じれ、顔と踵が同じ方向を向いている。

「やべ、やり過ぎたかな。まあ、生きてるからいいか」

 普通の、標準語のイントネーションだった。なぜわざと口調を変えていたのだろうか。思わず素が出た感じだ。少年が私の方を振り向いた。

「おう、ぬしゃ無事…もういいか。大丈夫か?」

 また変な方言のイントネーションを使おうとして、喋りづらいことに気づいた少年は普通の話し方にまた戻した。

「どこの子だ? この辺の子じゃないよな。だったら俺が知らないわけないし」

「う」

「う?」

「うわぁあああああああああっ!」

「ちょ、おい、泣くなよ」

 ようやく、恐怖が駐車場から追いついたらしい。泣きわめく私を、先ほど見事な立ち回りをした少年が、わたわたしながら慰めてくれた。

 一時間後、私は無事家族に保護された。少年が泣きながら話す私の言葉を何とか拾って、携帯で寺に連絡を取ってくれたからだ。誘拐犯たちは御用となり連行、される前に全員救急車で病院に搬送されていった。

 物凄い数の警察車両が山の中に溢れ、その中心で私は両親からひどく叱られ、そして強く抱きしめられた。また私は泣いた。

 少年はいつの間にか姿を消していた。改めてお礼を言いたかったのに。私は、その少年の活躍を興奮気味に家族に語った。母や兄は見えない速度で動ける人間なんているわけない、とか、流石に誇張し過ぎだ、と信じてくれなかったが、父は青い顔をしてその話を聞いていた。

 寺に残っていた曾祖母たちにその時の話を語ると、曾祖母は大笑いして、涙を流した。

「大ばあ様も、信じてくれないのですか?」

「違う違う。逆よ。あなたも天狗に会ったのね?」

「天狗?」

「そう。大昔、それこそ私たち一族が生まれた頃から、山には天狗が住んでいるの」

「大ばあ様も、会ったことが?」

「ええ。あるわ。一度だけね。危ないところを助けてもらったことがあるの」

「私と一緒だ」

「じゃあ、お揃いね」

 ふふふ、と一緒に笑った。

「天狗はね、その拳で岩を砕き、その足で山野を飛び回り、世の悪を討つの」

 楽し気に天狗の事を曾祖母が語る。では天狗とは私たち一族と同じ大きな悪なのかと問う。

「いいえ。そうね。もし、天狗の教えがきちんと守られているのならば。その少年は真の正義を持っているでしょう」

「正義? 立ち位置でコロコロと都合よく変わる、あの?」

「あっはっは! ズバッと言うわね。違う違う。それとは別よ。本当は、誰もが持っている普通の心なんだけどね。優しさとか、良心とか、当たり前の、でも現在では誰もがそんなものを持ち出せば理想だのなんだのと馬鹿にされ、騙されてしまうからと見なくなってしまったもの。見て見ぬふりをしているもの」

 そんなものを失って久しい私が言うのもなんだけどね、と曾祖母はとぼけた。

「そんな人が瑞樹の旦那様になってくれたら、大ばあは安心なんだけどね」

「私の旦那様?」

 初めて、意識をした。差し出された彼の手を。泣いている私に向けられた、困ったような笑顔を。慰めようと必死なのがわかる、優しい声を。

「おやおや、まさか瑞樹」

 曾祖母がにやにやした顔で私の顔を覗いていた。きっと、私は真っ赤な顔をしていたのだろう。私は一つ頷くと、曾祖母に顔を向けて、誓いを立てる。全てを語らなくても、曾祖母は理解し、納得してくれた。

「決めました。大ばあ様」

「そうかい。ではうまくおやり。協力は惜しまないよ」

 曾祖母と小指を絡める。


 後に父から真実を教えられる。古くから伝わる武術が存在する事。その力が人智を凌駕するため、人ならざる者『天狗』と呼ばれるようになった事。

 そして、武術を継承した男が山を下り、都市部にある大学に入学した事、公安の監視対象になっている事などだ。

 これまでそんなことは一度もなかった。奥州の山奥でひっそりと暮らしていた人間が、いや、もはや怪物と呼ぶべき者が、一体何の目的で。まさか殺人の狂気に侵されたのか。力を持つ者が陥る、その力を試してみたいという欲求に駆られたのか。

 住吉家は厳戒態勢を敷き、男を監視していた。しかし、私は確信していた。きっと父が考えているような最悪な事態は起きない。なぜなら、天狗の教えを受けた少年は正義の味方だからだ。

 父の勘違いは好都合だ。曾祖母との誓いを、ここで果たす。同時に家族の協力もできる。

「ではお父様。私が彼と同じ大学に入り、彼を監視します」

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