はたちあまり よっつめのかたり「相撲取りのおのこ 己が身の上を 身に染むばかり思へり」
室地様ではなく朋彦と名前呼びをしてしまった事を大失態だとタリョウゴはまだ思っている様で、食後の茶だと朋彦から受け取った湯呑を両手で持ったまま飲まずに俯いていた。
多分、気にしないでと何度言ったとしても、礼儀正しく真面目な性分であろうタリョウゴはきっと納得しないだろう。朋彦は短い付き合いではあったがタリョウゴの性格を察し、これ以上しつこく言うのはやめる事にした。
「あ、朋彦さん、オレまた相撲の神様や精霊様の昔話聞きたいな。」
食後の茶をお代わりしながらナオヨシが朋彦の方を向いた。
「ああ、うん・・・。いいけど・・・。」
知識の参照でヨモアシナラ国の相撲に関する話は幾らでも出て来る。
朋彦がナオヨシに頷くと、視界の端でタリョウゴの表情が微かに嬉しそうに綻ぶのが見えた。
二つか三つ相撲の神の昔話をすれば、きっとタリョウゴの落ち込んでいた気持ちも復活するだろう。
朋彦はタリョウゴに喜んでもらおうと、相撲の神々の話の内でなるべく明るく楽しそうなものを選ぶ事にした。
◆
「――と言う訳で懲らしめられた鰻の精霊は、力師となったシンタのマワシから抜け出すと、悪戯した事を謝り・・・。」
三つ目の物語がもう少しで終わろうとしたところで朋彦はつい欠伸をしてしまい、語りが中途半端に途切れてしまった。
「あー、ごめん。・・・悪戯した事を謝り・・・だっけか。」
朋彦が話を続けようとナオヨシの方を見ると、ナオヨシも座ったままうつらうつらと頭を揺らしながら眠りかけていた。
「あ! えっと・・・何処まで聞いたっけ。」
朋彦の視線を感じたのかどうか、ナオヨシは目を覚まして顔を慌てて上げた。
「はは・・・。続きはまた今度にしようか。」
自分の居眠りを誤魔化す様に笑い、朋彦はナオヨシの肩を叩いた。
「うん・・・。ごめんねタリョウゴさん・・・。」
自分の居眠りのせいで昔話が中断したと思ったナオヨシは、タリョウゴに申し訳無さそうに頭を下げた。
「あ、いや、そンな事は・・・。」
ナオヨシの申し訳無さそうな様子にタリョウゴは慌てて頭を振った。
「いや、俺も寝かけてたし気にすんなって。」
朋彦も正直にナオヨシに告げると、また欠伸をしながら、まだ片付けていなかった夕食の空き容器のゴミを手に取った。
「――それで、えーと、取り敢えず交代で夜の見張りだっけ・・・?」
空いた荷箱の中にゴミを放り込みながら尋ねる朋彦にタリョウゴは頷いた。
「あ、はい。最初は自分が番をします。夜中にナオヨシさンを起こして。最後は室・・・朋彦さンで。」
室地様と言い掛けて律儀に言い直したタリョウゴを、朋彦とナオヨシは微笑ましく見ながらタリョウゴの指示に従う事にした。
「眠いけど何とか頑張って起きるよ・・・!」
ナオヨシは初めての夜の番に少し緊張しながらも応えた。
ナオヨシの前向きな返事を横で聞きながら、朋彦は正直な所夜中に起きる自信が全く無かった。
携帯端末の時計に目覚まし機能が付いていた筈だからそれを使おう。異国から輸入した便利な道具と言う事で押し通そう。チヅコとツルオを救出した時にナオヨシに貸し出していたのをタリョウゴも見ていたのだし、そう不審がられる事もないだろう・・・。
そんな楽天的な事を考えつつ、朋彦は荷箱から事前に作り出していた三人分の寝袋を引っ張り出した。
「あ、焚火とは違いますけどこの提灯、ずっと付けっ放しにしときたいですけどいいですかね? 途中で消えたら焚火に切り替えますから。」
自分の分の寝袋を朋彦から受け取りながら、タリョウゴは地面に置きっ放しの電気ランタンを指差した。
「あ、うん。いいよ。付けっ放しでも朝まで電池・・・いや、燃料?余裕でもつし。」
「朝まで! ほンとに凄い提灯ですね・・・。」
朋彦の答えにタリョウゴは驚きと感心に声を上げた。
タリョウゴの豪商室地家への尊敬と関心がまた高まりそうだったので、朋彦は照れ隠しにさっさと寝袋に潜り込む事にした。
「明日はいよいよカミイシダだね。」
朋彦の隣に寝袋を並べ、ナオヨシは楽しそうにそう言いながら寝袋のファスナーを開いた。
「そうだなー。ホント楽しみ(特に相撲大会が)」
ナオヨシにそう答え朋彦は寝袋に入り横たわった。
朋彦の( )内の言葉も聞こえずともナオヨシは察した様で、
「そうだね・・・楽しみだね・・・。」
軽い苦笑を浮かべ、自分の寝袋の中に潜り込んだ。
「じゃあタリョウゴさん、時間になったら起こしてね。」
「あ、はい。」
荷車の横に腰を下ろしていたタリョウゴは、ナオヨシの言葉に軽く頷いた。
「おやすみ~。」
「おやすみなさい室地様。」
やはり礼儀正しい呼び方が抜けず、タリョウゴは室地様呼びで返事をしてしまっていた。
「あー、やり直し~。室地様は禁止~。」
頭だけ軽く起こすと、朋彦はタリョウゴへと軽く笑いながら駄目出しを告げた。
「え? ・・・えぇぇ・・・?」
まさかやり直しを要求されるとは思わず、タリョウゴは一瞬戸惑い、困った様に太い眉を顰めた。
「お・・・オヤスミナサイ・・・トモヒコサン・・・。」
ぎこちなく明らかに棒読みの片言になってしまったが、困惑しながらも真面目に名前呼びをしようとするタリョウゴの様子に却って朋彦とナオヨシはときめいてしまった。
「おー! 何かイイネ!」
慣れない名前呼びが恥ずかしかったのか、困惑しながら少し顔を赤らめたタリョウゴの表情に満足し、朋彦は起こしていた頭を横にした。
タリョウゴは横になる朋彦とナオヨシの様子を見ながら、からかわれた恥ずかしさにまだ少し赤い頬へと軽く手を当てた。
それはともかくとして――朋彦もナオヨシも今迄の呑気な様子からして、旅の道中の夜番はどうも経験が無さそうだと思えた。
きっと起こそうとしても起きられないだろう。朝まで自分が頑張らねば――と、タリョウゴは何処までも生真面目に考えた。
それからすぐに朋彦とナオヨシからは寝息や小さないびきが聞こえ、大した時間も経たない内に二人は寝入ってしまっていた。
◆
幸い山賊や化生の襲撃も無く、何事も無く時間が過ぎていった。
タリョウゴは時計を持っている訳ではなかったのでおおよその見当ではあったが、もう一刻か一刻半もすればナオヨシを起こす交代の時間になる筈だった。
タリョウゴはふと、電気ランタンの薄白い光に照らされたまま眠っている朋彦とナオヨシの方を見た。
室地朋彦――一見ごく普通の、いい所の坊ちゃんとか苦労知らずの若旦那といった雰囲気の青年だとタリョウゴやシモアサダ村の村人達の目には映っていた。
質の良い塩や金属の農機具、諸々の生活用品を大量に村人達に安く売っていたのだから、良心的ではあっても儲けは殆ど無かった筈で、商売人としては余り出来は良くないのだろう。
旅をしている行商人という話ではあったが、いい所の坊ちゃんがお店屋さんごっこをしているという雰囲気が抜けなかった。
ナオヨシの方は辺境の田舎の村ではよく見掛ける素朴な村人といった印象だった。
けれども共にチヅコとツルオを助ける為に化生と戦った中で、背の高い大きな図体の割には頼り無く弱々しい性格ではあったけれども、芯の部分では決して臆病ではなかったと判った・・・。
短い関わりではあったけれども、タリョウゴはいつの間にか二人の事を好ましく思う様になっていたのだった。
それに何より――相撲そのものではなくても、相撲に関する事柄に詳しい人間に悪い人間はいないとタリョウゴは思いたかった。
――朋彦が聞いたら、やはりちょろい、と言われそうな事を思いながら、タリョウゴはナオヨシを起こす時間を待った。
◆
それから更に時間が過ぎ、もう少しで――時計があったとしたら後十五分程でナオヨシを起こす時刻になろうとしていた。
流石にタリョウゴも少し疲れや眠気を感じ始めたので、眠気覚ましに軽い体操をしようと立ち上がった。
まだぐっすりと眠っている様子の二人から少し離れると、腕や足を伸ばしたりして柔軟体操を始めた。
軽く体を動かしたお蔭で眠気も少なくなっていった。
それから肩や首を回す体操に移り、ゆっくり大きく首を回していると自分の荷車に積んだ荷箱がタリョウゴの目に入った。
それはシモアサダで朋彦から売ってもらった物が入っていた箱だった。
朋彦は全く意識していなかったが、荷箱の箱そのものの作りも近隣の村で作られた箱と比べて軽くて頑丈な木材が使われており、見た目もきれいでしっかりしたものだった。
箱自体も売り物になる様な品質だったのにそれに頓着する様子も無く、駐在所の備品として石木にタダであげていた。
やっぱり豪商の苦労知らず、世間知らずの若旦那だ――と、タリョウゴは改めて朋彦の評価を行なった。
肩を上げ下げし、肩甲骨を解す体操をしながら、タリョウゴは荷箱の中に入っている様々な酒や干物を思い出し、少し空腹を覚えてしまった。
シモアサダの駐在所や今日の道中で食べさせてもらった「れとるとぱっく」とかいう密封容器の保存食も美味かった。在庫がどれ程残っているのかは知らないが、また朋彦が仕入れた時にはカミイシダ村でも売ってもらおう。
保存が利いて便利で美味いからきっと村の皆にも喜んでもらえるだろう――。
そう、思い掛けて。
――お前は黙っておりなさい。次男なのだから、余計な気を回さなくてもよい。
――父様や兄様が決める事に従っておればよいのですよ。
そんな、父母からの幼い頃から繰り返されてきた言い付けを思い出してしまい、タリョウゴの気持ちは一遍に委縮してしまっていた。
柔軟体操で上げていた肩を落とし、タリョウゴはそのまま、知らず小さな溜息をついて立ち尽くしてしまった。
タリョウゴの家は朋彦達に軽く説明した通り、カミイシダ村に祀られている相撲の精霊に仕える神官の一族だった。
祖父母や親戚も勿論居るが、神社の敷地内に居を構えて日々の祭祀の仕事を行なうのは基本的にはタリョウゴの両親と兄、一応タリョウゴ、の四人の家族だった。
いずれは長男である兄が家を継ぐと決まってはいたが、父もまだ三十代後半に入ったばかりと現役である為、家業の継承はまだ少し先の事になっていた。
タリョウゴの家や、ヨモアシナラの国の神官に限らず、武家や公家、帝に認められた様な大商家等では長男の相続が一般的で、長男が継ぐ迄は次男三男は長男の急死や大病に備えての予備の部品として家に留め置かれる事が当たり前だった。
タリョウゴの家は二人兄弟で、次男であるタリョウゴは一応は相撲取りの端くれとして神社の祭祀に関する仕事を手伝わされるものの、家や村で明確な役割を持って生活している訳ではなかった・・・。
「・・・。」
いつも胸の中でわだかまっているもやもやとして息苦しい気持ちを思い出してしまい、タリョウゴはそれ以上体操を続ける気にはなれず、眠っている朋彦達の近くへと戻ってきた。
――家や村での明確な役割や仕事がある訳ではなかったので、今回の様に村の外に買い出しに出掛けたり、村の日々の雑用こなしながらの何処か居心地の悪い宙ぶらりんの立場での生活・・・。
それでいて、相撲の精霊に仕える相撲取りの家の者として体面や外聞には気を付けなければならない。
身を慎み、言動に注意し、精霊に仕えるに相応しい相撲取りとしての品格を保たなければならない。
「――。」
タリョウゴは朋彦達の近くに戻るとゆっくりと腰を下ろした。
朋彦の荷車の棒の先に取り付けられていた電気ランタンの周囲を、小さな羽虫が何匹か飛び交い、一匹がタリョウゴの頬を掠めていった。
――長男の予備の部品でしかない次男であっても、相撲取りに相応しい品格を保たなければならず。
そして――その様な相撲取りの家の次男が、「産めぬ民」である等と家族にも、村人達にも絶対に知られてはならない・・・。
無意識に握り締めていた拳をタリョウゴは開き、ゆっくりと息を吐いた。
もう後少しでナオヨシを起こす時間になる。
タリョウゴはナオヨシや朋彦の眠っている姿へとそっと目を向けた。
沢山の品物を売っていた行商の時の様子よりも、シモアサダ村の子供達と即席相撲大会をした時の朋彦の事を何故かタリョウゴは強く思い出していた。
子供達相手に手加減せずに相撲をしていたりして、割と自由気儘に振舞っていて――楽しそうな様子だった。子供相手に大人気無いとは思ったけれども。
今迄タリョウゴの周囲には居なかった自由な気質に、何となく心惹かれるものをタリョウゴは感じ始めていた。
何日村に滞在するかはまだきちんと聞いてはいなかったが、朋彦達が村で過ごしてくれる事で少しは自分の息苦しさも誤魔化されるといいのに――。
タリョウゴは漠然とそんな希望や期待を抱いてしまうのだった。
◆
時間になり、そろそろナオヨシを一応起こそうとタリョウゴは立ち上がった。
多分起きないんじゃないかと思いながらも、ナオヨシの肩に手を掛けた所で、
「――――ッッ!!!!」
不意に山奥から、何かの獣らしき鳴き声が響いてきた。
雄叫びの様な声が長く続いた後、辺りで今迄聞こえていた夜行性の山鳥達の鳴き声がぴたっと止まり、山の中が一瞬だけ不自然な位に静まり返った。
そのすぐ後にケタケタと何処か人間が笑う様な甲高い声が響き、それは次第にタリョウゴ達の所へと迫って来た。
乱暴にがさがさと茂みを掻き分ける音や、勢い余ったのか木の枝がへし折られる音が聞こえてくる中で、甲高い叫び声はタリョウゴ達の方へとどんどん近付いて来た。
熊や狼といった危険な野生動物もこの近辺の山には居ない訳ではなかったが、それらが木々の間を夜中に叫びながら人間の所に飛び跳ねてやって来る筈はなかった。
だが・・・そんな存在には、つい先日シモアサダ村で出会ったばかりだった。
「――室地様!ナオヨシ殿! 化生だ!! 起きて下さい!!」
咄嗟の時にはやはり染み付いた礼儀正しさで呼び掛けてしまい、タリョウゴは二人の体を慌てて揺さぶった。
「・・・ん? 交代の時間?」
一応は心構えをしていたのかナオヨシは何とか目を覚まし、少しふらつきながらも体を起こした。
「眠いいいい・・・。何ナニ? 化生?え?ええ?」
朋彦の方は瞼もろくに開かないままよろよろと頭を上げ、タリョウゴの声のした方向へと顔を向けた。
「化生が近付いて来てる!! 」
焦るタリョウゴの言葉に二人は何とか無理矢理目を覚まし、ふらつきながらも寝袋から慌てて抜け出した。
朋彦とナオヨシがやっと立ち上がったり辺りを見回したりしている内にも、化生が木々を飛び移って枝葉を掻き分ける音はどんどん近付いていた。
防御の腕輪は自分とナオヨシは装着済みで、刀は――。
まだ目覚め切っていない頭で考えながら、朋彦は慌てて枕元に置いていた刀を手に取り、一つをナオヨシの手に押し付けた。
タリョウゴの分の腕輪や刀を用意していなかった――!
今更ながら朋彦が気付いた所で新しく作り出す余裕も無く、とうとう三つの化生らしき生き物の影が朋彦達のすぐ近くの大木の上に現れた。
電気ランタンの光が辛うじて届き、白々とした電光と木々の太い枝の影が入り混じる中に――赤く血走った化生達の眼が爛々と輝いていた。
朋彦達が警戒し身を強張らせて大木を見上げた一瞬の内にも、化生達は枝を蹴って空中へと躍り出た。
跳躍の勢いで蹴散らされた木々の枝葉が辺りに舞い上がり、そしてすぐにその内の幾片かの木屑が朋彦達へと降りかかった。
「――っっ!!」
朋彦やナオヨシが刀を抜いて身構える暇も無く、化生達の鋭い爪が喉や目を狙って突き進んできた。
「――!!!!」
キィ・・・ン・・・と、何処か金属のぶつかる音を思わせる高い音が響き、腕輪の作り出した防御壁が化生達の爪を弾き返した。
「タ、タリョウゴさんは!?」
自分の身が取り敢えず助かった事に安堵の息を吐いてすぐ、ナオヨシは近くに居たタリョウゴへと目を向けた。
「・・・ふんッッ・・・っっ!!」
タリョウゴの方は流石と言うべきなのか、優れた反射神経で咄嗟に化生の突進を受け止め、そのまま両腕を掴んだまま息を詰めて睨み合っていた。
電気ランタンの明かりに照らされ露わになった化生達の姿は、猿二匹と狼一匹だった。
通常の野生の獣ではありえない程に鋭く長くなった爪や牙を振り立てて、頭部の四つの眼はぎょろぎょろと互い違いにせわしなく動き、それぞれの獲物である朋彦達を睨み付けていた。
朋彦は狼の化生、ナオヨシとタリョウゴは猿の化生に獲物と認められた様だった。
化生達には分担して獲物を襲うという程の知恵は無かったものの、それぞれが生き物を傷付けいたぶって殺したいという本能に基づいて、結果的に一対一になった様だった。
朋彦とナオヨシが刀を構える僅かな時間も許さないかの様に、猿と狼の化生達はそれぞれ素早い動きで二人に殴りかかってきた。
当然の事ながら防御壁の力で、化生達の爪や牙は一切朋彦達には届く事は無かった。
しかし血走った眼を剥き、涎を垂らしながら牙を剥いてすぐ目の前に迫り来る化生達の姿は恐ろしく、戦闘に不慣れな朋彦とナオヨシの心と体を強張らせた。
「・・・ッ!! このっ!」
朋彦とナオヨシはそれでも何とか気持ちを奮い立たせ、刀を化生へと斬り付けるが、素早い動きに翻弄されてしまいうまく捉える事が出来ないでいた。
丸腰で化生と対峙しているタリョウゴを何とか助けなければ、と、二人は焦りながら刀を構え直した。
「っ!!」
タリョウゴの方は力比べには何とか勝っており、猿の化生の両腕を掴んで捻ると背後を取ってそのまま体を抑え込んでいた。
だがそれ以上はなかなか状況は変わらず、激しい勢いで暴れる化生の爪がタリョウゴの腕や頬を掠めて切り傷を幾つも負わせていた。
「タ、タリョウゴさん・・・!!」
少し血の滴が散るのが見え、ナオヨシがタリョウゴの怪我の様子に思わず注意を向けた。
その隙を突いてナオヨシを襲っていた化生は、ナオヨシの目玉を狙ってその鋭く尖った爪を勢いよく突き刺してきた。
「――ッッッッッ!!!!!!」
しかし悲鳴を上げ、痛みの為に地面に転がったのは化生の方だった。
通常の獲物ならば目を潰されて苦痛にのたうち回るのだろうが、腕輪の作り出す防御壁はあっさりと爪を弾き返しナオヨシを守り通していた。
手加減無く振り立てた爪に込められた力は、そっくりそのまま弾き返され化生の手は半ば潰れてしまっていた。
本当の生き物ではない仮初の物ではあっても、潰れた手から覗く肉片も、だらだらと流れ落ちる鮮血も本物と変わらない様子だった。
「・・・げぇ・・・。ちょーグロ画像だよ・・・。」
自分に向けて唸り続ける狼の化生の方への警戒をしながらも、無理矢理軽口を叩き、朋彦は挫けそうになる自らの気持ちを何とか立ち直らせようとした。
「朋彦さん・・・。」
ナオヨシはそんな少し青褪めた朋彦の様子を心配そうに見ながらも、自分に向けて憎しみの目を向けて来る猿の化生へと刀を向け直した。
潰れた手から滴り落ちた血は、しばらくすると黒い煙になって消え去っていた。
ナオヨシの刀を持つ手は、やはり緊張の汗にじっとりと湿り、かたかたと小刻みに震えていた。
山の中の湖でトヅコとタカキを襲った水の化生や、シモアサダ村でチヅコとツルオを攫った猿の化生をこの刀で斬って斃した時の光景を思い出してしまい、ナオヨシは無意識に恐ろしさに顔を顰めてしまった。
――でも大丈夫。きっと大丈夫。腕輪の防御壁がきちんと働いて守ってくれている。化生は自分に傷一つ付ける事も出来ない。
ナオヨシは自分に何度も言い聞かせて無理矢理に気持ちを落ち着けた。
「ひ・・・・ひゃああッッ!!」
掛け声にもならない様な、悲鳴にも似た様な掛け声を上げ、ナオヨシは思い切り刀を振り上げて目の前で牙を剥いて吠える猿の化生へと斬り掛かった。
潰れた手の痛みによる憎しみによってナオヨシを睨み続けていたせいで猿の化生は動作が遅れてしまい、あっさりと頭から両断されたのだった。
「おーっ!! やっべぇ、ナオヨシ、すっげすっげ!」
頭から真っ二つになって血と内臓を撒き散らしながら崩れ落ちた猿の化生の姿を、朋彦はなるべく直視しない様にしながらナオヨシを褒め称えた。
化生への恐怖や緊張を無理矢理鎮めようとする反動からか、朋彦の口調は「産めぬ民」が発展して遊戯に耽る場所で使う様なオラついたものになってしまっていたが。
「あ、朋彦さん!!」
朋彦がナオヨシの方へ少し顔を向けた隙に、朋彦を狙っていた狼の化生が朋彦の足元を目掛けて飛び掛かって来た。
その様子にナオヨシは思わず声を上げるが、朋彦は隙だらけであっても腕輪の防御壁に阻まれて化生の突撃は阻止された。
壁に頭からぶつかった狼の化生は痛みに唸りながら、一旦朋彦から距離を置こうと後ろに跳び退いたが、むしろナオヨシの居る方へと近付いてしまっていた。
「!!」
朋彦と二人がかりならばもう少し有利になるだろうと、ナオヨシは近くに来た化生へとその背後から刀を振り下ろした。
「あ!」
狼の尻尾を少し切っただけでナオヨシの刀は躱されてしまい、躱した勢いのまま狼の化生は朋彦へと再び飛び掛かって来た。
「――この!! こっち来んなっ!!」
涎を撒き散らしながら鋭い牙を剥き出しにして襲い掛かって来る化生に、朋彦は恐ろしさに思わず目をつむったまま刀を出鱈目に振り回した。
「朋彦さんっっ!!」
その様子にナオヨシは助太刀に入ろうと駆け出すが――何でも切るという能力を与えられていた刀は、朋彦の振り回した出鱈目な斬撃をそのまま化生に浴びせ、あっさりと幾つもの肉の塊へと切り裂いたのだった。
「あー・・・。」
「・・・と、朋彦さん・・・。」
張り詰めていた緊張感と恐怖感の大きさと、何の手応えも無く化生の体が切断された呆気無さの落差に、朋彦とナオヨシは僅かの間気が抜けた様に立ち尽くしてしまった。
出力を最大にしたらどんな物体も分子レベルでその繋がりを切り離す事が出来る――確か、そんな厨二の喜ぶ様な設定にしていたんだっけか。
朋彦は手の中で刃毀れ一つ無く輝く刀を見ながら、そっと溜息を洩らした。
「あ、いっけね!! タリョウゴ殿!!」
朋彦とナオヨシはまだ化生を押さえ付けているタリョウゴの事を思い出し、慌てて駆け出した。
◆
駆け出すと言ってもそもそもが山道の途中に寝床を構えていた訳で。
朋彦達が化生と戦っている場所はそれ程広いという訳ではなく、すぐに朋彦とナオヨシはタリョウゴと猿の化生が戦っている所へと駆け付けた。
タリョウゴは猿の化生の背中から圧し掛かる様にして地面に押さえ付けたまま、身動きが取れずに居た。
「タリョウゴ殿!」
「タリョウゴさん!」
朋彦とナオヨシが思わず声を掛けると、タリョウゴは少し顔を上げて二人を見た。
二人の無事を知り安堵の表情を一瞬だけ浮かべ、またすぐに俯いて化生を睨み付けていた。
戦いのド素人である朋彦とナオヨシは下手に手を出す事もすぐには出来ず、どうしたものかと刀を手にしたままタリョウゴと化生の側で成り行きを見守り続けた。
朋彦達の様に防御の腕輪がある訳ではなく、生身の上に素手で猿の化生と取っ組み合ったせいでタリョウゴの着ていた着物は土だらけになり、右袖は肩から先が破れてしまっていた。
筋肉質で浅黒いタリョウゴの腕が露わになっている事に朋彦もナオヨシも一瞬ときめいてしまったが、その腕に一文字に走る裂傷からはまだ血が流れていた。
「!!」
傷の痛みを想像し、朋彦とナオヨシは思わず顔を顰めた。
「タ・・・タリョウゴさん・・・。」
シモアサダ村で化生を斃した時の様に、タリョウゴが押さえ付けている内に横から助太刀をするべくナオヨシは刀を構え直した。
「―ッッ!!」
化生からはナオヨシの様子は見えていなかったが、刀の構えられる気配を感じたのか――突然化生はタリョウゴの腕から逃れようと再び強くもがき始めた。
激しくもがいている為に狙いが定まらず、ナオヨシは刀を構えたまま動けずに居た。
ナオヨシの助太刀も難しくなってしまった事にタリョウゴは腹を括ったのか、強く歯を食いしばると腕の中で暴れ続ける化生を睨み付け、必死の形相で化生の首を締め上げ始めた。
「おぉぉぉぉッッッッ!!!!」
気合の雄叫びを上げ、タリョウゴは化生の首を締め上げた体勢のまま立ち上がるとそのまま手近な杉の大木へと突進していった。
「ええ!?」
「タ、タリョウゴさんっ!?」
朋彦とナオヨシが戸惑いの声を上げる間にも、タリョウゴは化生と共に杉の幹へとぶつかった。
「――っっづっ・・・。」
猿の化生のくぐもった悲鳴の様な声と、ゴギッと言う重い物が折れる音が聞こえ――すぐに化生の動きが止まった。
「・・・・・・。」
ふうーっと大きく息を吐き、タリョウゴは動かなくなった化生を手放してその場に座り込んだ。
「うわー・・・。」
朋彦は化生の死骸の様子に思わず声を漏らした。
タリョウゴの腕から離れ、杉の大木の前で横たわる猿の化生の死骸の首は真後ろを向いて折れ曲がっていた。
細かい所まで覚えている訳ではなかったが、朋彦は元の世界での自分の死に様を思い出してしまった。
地震で崩れた高台の公園から空中に放り出されて、頭から地面に激突した――ごく微かに覚えている記憶に、朋彦は少し複雑な気持ちを抱きながら首の折れた化生の死骸を眺めていた。
「と、朋彦さん、タリョウゴさんの手当てしなきゃ!!」
「・・・お、おう!」
傍らでナオヨシの慌てた声が聞こえ、朋彦は顔を上げた。
化生の死骸の横で、タリョウゴはまだぜいぜいと息を切らしながら座り込んでいた。
頬や両腕は大小の切り傷だらけで、左袖は何とか残っていた着物もあちこち土に汚れ穴だらけになってしまっていた。
朋彦と、多分ナオヨシにとっても、土と血で汚れたボロボロのタリョウゴの格好は煽情的でたまらないものではあったが――兎も角怪我の手当てをすべく、朋彦は荷車に積んでいた荷箱から取り出したと装って道具袋から手拭いを二枚と大き目の竹筒の水筒を作り出した。
「き、着物を脱いで、これで傷をあ、洗って・・・。」
下心があったせいで少しどもりながらも水筒を差し出し、朋彦はタリョウゴの着物を脱がす手伝いをしようと手を伸ばした。
しかしタリョウゴは大きく頭を横に振り、疲労にふらふらとしながらも慌てた様子で立ち上がった。
「け・・・結構です!! じ、自分で出来ますから!! だ、大丈夫です。」
朋彦達に気を使っているのか恥ずかしがり屋なのか、タリョウゴは顔を真っ赤にして頑なに断り続けた。
「そんなに遠慮しなくても・・・。それに早く手当てした方が・・・。」
朋彦の後ろで二人の遣り取りを見守っていたナオヨシが困惑しながら、タリョウゴへと声を掛けた。
「だ、大丈夫です。大した怪我じゃないですし・・・。」
タリョウゴは半ば奪い取る様に朋彦の手から水筒と手拭いを受け取ると、身を隠す様に自分の荷車の後ろに回り込んだ。
ごそごそと破れ汚れた着物を脱ぎ、褌だけの姿になると水筒の水で手拭いを濡らし始めた。
タリョウゴの牽いていた荷車も決して大きい物ではないので、大した目隠しにはなっていなかったが、それでもタリョウゴの気分的には違う様ではあった。
ちらちらと見える切り傷だらけの裸に心配する気持ちと下心が入り混じりながら、朋彦とナオヨシはそっと見守り続けた。
近くに泉や川が無いので水の節約なのだろうか、少しだけ湿らせた手拭いで傷口を拭き取るだけなので、大して体の汚れが取れていない様にも朋彦には見えた。
「・・・あの水筒も、ホントは沢山水が出る様になってるんだよね?」
傍らに立つナオヨシが、タリョウゴに聞こえない様に小声で朋彦にそっと尋ねた。
「まあな・・・。でもマジナイで作ったコトとか何処まで説明していいのか・・・。」
滝を浴びる様にざぶざぶと垂れ流しで使ってくれても問題無いのだが、そうすると何故そんな不思議な品物を持っているか疑問に思われてしまうだろう。
タリョウゴなら朋彦の身の上を説明しても受け入れてくれそうな気がしないでもなかったが、その判断は今夜はまだするべきではないと朋彦は思い留まった。
「もし傷が悪化しても大丈夫な様に万能薬でも作っとくか・・・。」
「そうだね・・・。」
朋彦の呟きにナオヨシが応えた。
万能薬もだが、まずはタリョウゴの着替えも必要だろう。シモアサダ村で何日か共に過ごした中では、同じ着物をいつも着ていた様子だったので念の為に作り出しておこう。
タリョウゴの裸をもう少し見ていたい気持ちはあったが、朋彦はもう一度自分達の荷車の方へと足を向けた。
途中、朋彦とナオヨシにそれぞれ斃された化生の死骸が目に入ってしまったが、時間の経過によりどんどん輪郭は崩れ、黒煙と化して消滅し始めていた――。
マジナヒ神の異語部~ことかたりべ~ 邪部そとみち @yokoshimabe
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