とおとよっつめのかたり 「朋彦とナオヨシ、シモアサダでも商う羽目になりけり」

 駐在所の方から浴衣をからげて駆けて来るタリョウゴの後ろに、ぜえぜえと息を切らしながら老人が続いて走っていた。

「あれは・・・村長さん・・・だっけ?」

 さっきチヅコ達がお爺と言っていた老人――確か、外では村長様と呼びなさいと窘められていたのを朋彦は思い出した。

「行商人殿!」

 程無くしてタリョウゴは朋彦とナオヨシの所にやって来た。

「まだ近くに居てくれて良かった!」

 そう言って笑うタリョウゴの言葉に、朋彦とナオヨシも内心喜びながら互いにちらっと目を合わせた。

「――年寄を置いて先に行ってしまうヤツがあるか!!」

 そこにやっと、村長がふらふらとした足取りで朋彦達の所へと辿り着いた。

「すンませン・・・。」

 村長の言葉にタリョウゴは苦笑しながら頭を下げた。

「えーと。何か御用ですか?」

 むしろこちらから用があるのはタリョウゴの以下略・・・等と内心の下心を押し隠し、朋彦は主にタリョウゴの方を見ながら村長に問い掛けた。

 村長は少しの間息を切らしていたが、何とか持ち直すと、

「行商人殿にお願いがありましてな。この村にも何か売ってもらいたいと思いまして。」

 村長が言うには、このシモアサダ村もナギシダ村と似た様な辺境の村である為、行商人が来る事は少なかった。

 食料やちょっとした生活用品は何とか自給自足をしているものの、それだけでは不便な事も多かった。

「何でもサダロウが言うには、名字持ちの立派な商人様だとか。さぞやご実家は大層な豪商なのでしょう?」

 村長は朋彦の事を、何処かの裕福な豪商の息子とでも完全に誤解していた様だった。

 村長の言葉を聞きながら、朋彦とナオヨシの脳裡にサダロウが村人達に得意気に朋彦達の事を喋っている様子が浮かんでいた。

 気絶から目が覚めたら、あいつはまたピイピイと余計な事を喋りそうな気がする――。

「サダロウの奴に後でちゃんと釘刺しとかないとな・・・。」

 朋彦は小さく呟き、ナオヨシもその横でうんうんと頷いた。

「・・・まあ、盗賊やらチヅコ達の事やら無かったら、普通にシモアサダに寄ってからカミイシダに行くつもりだったしな・・・。」

「そうだね。」

 朋彦とナオヨシの話に、タリョウゴが声を上げた。

「え! 行商人様、カミイシダにも行かれるンですか?」

「そうだけど・・・。」

 朋彦が答えると、タリョウゴは嬉しそうに、

「是非カミイシダでも商売して行って下さい。カミイシダの皆も喜びます。」

 カミイシダに縁のある人なのかなと朋彦とナオヨシは軽く首をかしげた。

「ああ、このタリョウゴはカミイシダ村の相撲取りの家の次男坊なんじゃ。村祭りが近いんで、準備の為にこの時期は近くの村に米やら酒やらを買ったり物々交換したりするのに出掛けるんじゃ。」

 シモアサダ村には米以外にも特産の薬草も買いにやって来ているのだと、タリョウゴの言葉に付け足す様に村長が説明してくれた。

 相撲取りという言葉に朋彦の眼が一瞬だけ鋭い光を発したが、幸い誰にも気付かれる事は無かった。

「ほほう!! 相撲取りですか!! 成程、大変に立派なお体をしていらっしゃる! 実にスバラシイ!!」

 下心からではあったが、心からの笑顔を湛えて朋彦はタリョウゴを誉めた。

 相撲取りではありながら、腹の出た丸い体型ではなく、縦横がっしりとした筋肉質の体に程良く脂肪が乗った滑らかで弾力のある肉体。

 顔立ちは既に言うまでも無く男らしい太い眉にまだ幼さの残るくりっとした丸い瞳。キリッと凛々しい面差しは実に昭和の童顔系男前。

 たまらん。

 実にたまらん。

 田舎臭い朴訥なナオヨシも好みのど真ん中直撃だったが、タリョウゴもまた朋彦の好み直撃だった。

 心の中に溢れて――いやむしろ渦巻いて滾りまくっているタリョウゴへの称賛や好意や欲望を朋彦は無理矢理押し隠し、愛想の良い行商人を装った。

「・・・朋彦さん? 何かすげぇ怖ぇよ・・・?」

 何かしら雰囲気の変化を感じ取ったナオヨシが、不審そうに朋彦を見た。

「あ、いやいやいや。大丈夫大丈夫。」

 誤魔化す様にナオヨシへと笑いながら、朋彦は村長にこの村で商売をして行く事を快く承諾した。

「村長様。お役に立てるかは判りませんが、是非、商売をさせて下さい。」

 朋彦の言葉に、村長もタリョウゴも嬉しそうにほっと息を吐いた。

「それでは駐在所に戻りましょう。盗賊達は荷車から下ろしましたから。」

 村長に促され、朋彦とナオヨシは一旦駐在所に戻る事にした。

 そういえば忘れかけていたが、荷車に積んでいた商品は盗賊を運ぶのに山の中に置いて来たのだと、村人達に取り繕っていた事を朋彦は思い出した。

 駐在所まで皆で連れ立って歩きながら、村長は朋彦に村の事を色々と教えてくれた。

 米や秋の野菜の収穫と並行して、近くの山でアキノヒラガ草を採取する作業があり、この時期は村はとても忙しい事は朋彦とナオヨシも既に知っていた。

 薬草は村の共同作業所に集められ、そこで干したり、乾燥し終えた物を擦り潰したりして出荷用に袋詰めにされるのだという。

 村に残っている殆どの村人達は作業所に集まっているから、明日にでも作業所の庭先に売り物を広げようという事で話はまとまった。

「荷物を取って戻って来たら、今夜は駐在所に泊まって下され。石木殿にはワシから既に頼んでおりますので。チヅコ達の恩人ですから出来れば我が家に泊まってもらって盛大にもてなしたいのですが、何しろ本当に狭い家で、寝てもらう部屋も布団も無い有様でして・・・。」

 本当に申し訳無さそうに悲しそうに頭を下げて来る村長に、朋彦は大きく頭を横に振った。

「いやいやいやいや!! そんな、全然気にしないで下さい!! 大丈夫です! それに駐在所に泊めてもらうのも悪いですし!」

 年上の、しかも老人にこんなに気を使われて申し訳無さそうにされてしまい、朋彦の方が却って申し訳無く居心地が悪かった。

 村長ですら貧しい暮らし振りだというのは、ナギシダ村の村長の家に泊めてもらった時の様子を思えば容易に想像出来た。

「タリョウゴもこの村に滞在中は駐在所の空き部屋に泊まる事が多いですから、そこは気にせんで下さい。」

 という事は今夜はタリョウゴも駐在所泊りという事なのだろう。

 村長の言葉に朋彦は瞬時に了承した。

「はい! 気にせず泊まらせていただきます!!」

 朋彦の後ろを歩きながら、何となく朋彦の下心を感じ取りナオヨシは苦笑いをしていた。

 勿論ナオヨシも、タリョウゴに仄かなときめきを感じてはいたので朋彦の事を笑う事は出来なかったが。

 そうする内に、朋彦達は駐在所へと戻って来た。

「あ、村長殿。行商人殿の荷車は空けてありますよ。」

 朋彦達が戻ってきた事にすぐに気付き、奥の方から石木が姿を現した。  

 土間の中には朋彦達が曳いて来た大小一つずつの荷車が置かれていた。

「あれ・・・? キヨミさん達は・・・?」

 荷車だけで、キヨミ達の姿が土間に無かったので少し心配そうにナオヨシが石木に尋ねた。

「ああ、彼等なら奥の牢屋に移したよ。」

 石木はそう答えながら後ろを向いて土間の奥の方を示した。

 土間の一番奥には頑丈そうな厚い木の引き戸があり、それが牢屋への入り口の様だった。

「そ・・・そうですか・・・。」

 朋彦の真後ろでナオヨシはほっとした様に小さな声で呟いた。ナオヨシなりにキヨミ達の処遇がどうなってしまうのか気になっていた様だった。

「じゃあ、まあ、取り敢えず荷物取ってきますね。」

 朋彦は石木達にそう言うと、ナオヨシを促して荷車の引手に手を掛けた。

 軽量化のマジナイを解除していなかったので、殆ど手応えらしいものも無くするすると荷車は駐在所の外へと運び出された。

「あ、えーと、今更ですけど、村で特に欲しい品物とかって何かありますかね・・・?」

 シモアサダへと今日来た道を引き返そうとして、朋彦は今更ながら売り物の内容を決めていなかった事を思い出した。

 旅先で商品の補充もしていないであろう朋彦の質問に、村長達はほんの少しだけ不思議そうに首をかしげたが、

「そうですのう・・・。やはり塩やら衣類やら・・・。」

「あ・・・! 行商人殿、紙とか墨汁があればお願いします。石木様や村長様が最近、足りなくなったと困ってたンで・・・。」

 村長の横でタリョウゴが声を上げた。

 タリョウゴの言葉に石木も村長も頷いたが、

「タリョウゴ、気持ちは嬉しいが紙も墨汁も山奥の村ではそうそう売れる物ではない。わざわざ行商に持って来てはおらんじゃろ・・・。」

 苦笑しながらもタリョウゴの気遣いに村長は嬉しそうだった。

「大丈夫だよ、朋彦さんは何でも売ってるすげぇ商人様だし! どんな品物でもマジナ」

「はいはいはい!! 承りましたよ!! 紙と墨汁ですね! 後、塩と布と金属の農機具と針と糸と酒と干し魚と。すぐに取ってきます!!」

 得意気にうっかりと口を滑らせかけたナオヨシの口へと手を当て、朋彦は慌てて誤魔化した。

「あ、ごめん・・・。」

 ナオヨシは小さな声で慌てて朋彦に謝った。

「では、荷物を取ってきますね!」

 村長達に頭を下げると、朋彦は荷車を曳きながらナオヨシと共に駐在所を出て行った。

「ご、ごめんね朋彦さん・・・。うっかりしてた。」

 大きい方の荷車を曳きながらナオヨシは改めて謝った。

「あ、いや、いいよ。気にすんな。」

 朋彦は笑いながらナオヨシの肩を軽く叩いた。

 「産めぬ民」だと言う事や、何でも出来るマジナイ師だと言う事とか、色々と隠し事をしながら暮らしていくのもなかなかに煩わしくて面倒な事だと、朋彦もナオヨシも今更ながらに感じていた。

 ――だからこそ、一カ所に定住せず旅をする行商人というのは丁度いい隠れ蓑なのかもしれない。

「あ、カミイシダで行商する時はマワシでも作って売るかな・・・。」

「へっ?」

 突然思い付いた事をぶつぶつと呟き始めた朋彦の言葉に、隣を歩いていたナオヨシは思わず声を上げた。 



 シモアサダの村境から、今朝来た道を三十分程引き返した所で朋彦とナオヨシは荷車を曳く足を止めた。

「まあ、大体この辺りでいいか。」

 朋彦は腹に貼り付けていた道具袋の中から携帯端末を取り出した。

 時刻は午後三時三十四分と表示されていた。

 山の中は少しずつ日の光が弱くなり、何処となく肌寒くなり始めていた。

「少し時間を潰さないとな・・・。」

 傍らに停めた荷車にもたれかかりながら、朋彦は軽く溜息をついた。

 大して時間を置かずに大量の商品を積んで村に戻ると怪しまれるだろうから、小一時間程は時間を潰すつもりだった。

「じゃあさ、「俺達の家」で少し休もうよ。」

 朋彦の向かい側にもたれていたナオヨシが、にこにことしながら朋彦に提案してきた。

 一応は山奥の不便な環境に慣れつつあった朋彦は、当然の様にこのまま荷車に座るか寝転がるかして時間を潰すつもりだった。 

「えー、一時間ぐらいだぜ?」

「それはまあ、そうだけどさ・・・。」

 朋彦の言葉に少し困った様にナオヨシは頭を掻いた。

「何という引き籠り体質。」

 朋彦のからかいの言葉にナオヨシは、思わず身を乗り出し、

「いや、そんなんじゃなくて・・・。「家」って、ホントにすげぇお屋敷でさ、寒くも暑くもないし、風呂も飯も寝床も立派だし・・・。そんなすげぇお屋敷で誰のコトも気にせず居られるって、すげぇ落ち着くって言うか・・・。」

 今迄ナギシダ村で誰からも見下され、縮こまって生きてきたナオヨシにとって、誰にも気兼ね無く寛ぐ事の出来る場所というのは、何物にも代え難いものだった。

 そんなナオヨシの気持ちは朋彦にも覚えがあった。

「あー。ごめんごめん。」

 一生懸命「俺達の家」の凄さを訴え掛けて来るナオヨシを宥め、朋彦は小さな山道から外れた藪の中に分け入った。

 懐の道具袋から「俺達の家」を取り出し、いつもの様に地面に挿すとミニチュアの中古住宅はすぐに大きくなっていった。

 家の中に戻るとナオヨシは早速台所に入り、テーブルの横の椅子に上機嫌でどっかと腰を下ろした。

「すっかりこの家が我が家になっちまってるなあ~。」

 機嫌良く笑顔で座っているナオヨシを見ながら、朋彦も台所へと入った。

 朋彦がお茶でも淹れようと懐の道具袋から竹筒の水筒を取り出した所で、ナオヨシはテーブルの上に両手で四角い枠を作る仕草をし、

「ねえ朋彦さん、時間が来るまで何か見せて。物知りになれるやつ。」

「あー、テレビか。ナオヨシどんは勉強熱心だな~。感心感心。」

 朋彦はふざけた口調で言いながら、テーブルの前のナオヨシの頭を撫でた。    

 携帯端末をいじって空中に画面を作り出すと、教養番組の一覧表を映し出した。

「もうだいぶ字は読める様になっただろ? 好きなの選べよ。」

 タイトル画像と題名、簡単な内容の説明が、平仮名と小学校低学年程度の漢字交じりの文章で書かれていた。

 山のいきもの、川のいきもの、食べられる野草――。

 そんな題名の並ぶ画面をナオヨシは一生懸命な眼差しで覗き込んでいた。

「右端の棒を触ると画面が動かせるからな。」

 画面の右端にあるスクロールバーの立体映像を朋彦は指し示し、手本として実際に指先で触って動かしてみせた。

「うん。――あ!」

 移り変わる画面の一隅にある全裸の青年の画像が目に留まり、ナオヨシは思わず声を上げてしまった。

 朋彦がその声に手を手めると、「ほけんたいいく・男性のからだのしくみ」と題された番組が画面の上部に表示された。

「あー・・・。」

 この世界に来る前の生活でも出会い系でそれなりに何人かの男性と交流を持っていたし、毎晩の様にナオヨシと交わっている今の生活のせいもあり、朋彦にとっては今更の様な番組ではあった。

 しかし朋彦との交わりで断片的にしか性的な事を知らないナオヨシにとっては、ひどく興味を惹かれる物の様だった。

「・・・あー、男の体の勉強はまた次回にしような・・・。」

 真面目な意味でもイヤらしい意味でも男性の体の仕組みについての勉強は、長い時間が掛かる予感があったので、朋彦はすぐに画面を切り替えて他の分野の一覧表を映し出した。

「う、うん。」

 顔を赤らめたまま少し残念そうにナオヨシは朋彦の顔を見上げたが、画面に視線を戻すと算数の番組を選んだ。

 今から保健体育(イヤらしい意味も有り)なんて始めてしまうと一時間では絶対に終わらない確信が朋彦にはあった。いやむしろ終わらせたくない。じっくりしっかり丁寧にナオヨシに教えたい。

 そんな事を考えながら、朋彦は茶でも飲もうと道具袋からいつもの竹筒と、湯呑を二つ取り出した。

「――蜜柑が五個ありました。そこに二個加え・・・。」

 進行役のモンペ姿のお姉さんと、可愛らしい男の子の口調で喋る烏の精霊が足し算を教える番組を、ナオヨシは食い入る様に見入っていた。

 そんなナオヨシの様子を微笑ましく眺めながら椅子に深く腰を下ろすと、朋彦もまた慣れた「俺達の家」に戻って気が緩んだのか、いつの間にかうつらうつらと寝入ってしまったのだった。



 朋彦が目を覚ますと、テーブルの上に突っ伏しているナオヨシの姿が目に入った。

 ナオヨシの方も番組を見ている内に寝入ってしまった様だった。

 再生もとっくに終わり、メニュー画面に戻ってしまっている立体映像を消し、朋彦は携帯端末の時刻を見た。

 丁度午後五時半。予定よりも遅くなっており窓の外も暗くなっていた。辛うじて空の端が薄ぼんやりと赤紫色の陰を留めていたが、それももうすぐ掻き消えてしまうだろう。 

 凝ってしまった首を摩りながら朋彦は立ち上がると、ナオヨシの肩を揺さぶった。

「起きろ! ちょっと寝過ごした。」

「・・・ん・・・?」

 欠伸をしながらナオヨシは頭を起こした。

 少しの間寝惚けていた様でぼんやりと朋彦を見ていたが、すぐに目が覚めて立ち上がった。

「いけねー! 村に荷物を持ってかなきゃ! 朋彦さん、荷車荷車。」

 ナオヨシに押される様にして朋彦は外に出ると、置きっ放しにしていた荷車の上に急いで商品を作り出していった。

 塩に酒、金属の農具や布地・・・と、大体はナギシダ村の時と同じ様な品揃えだった。それと、タリョウゴが言っていた石木や村長の為の紙と墨汁も少量作り出して積み込んだ。

 そうする内にも辺りはどんどんと暗くなり、足元も碌に見えない程になっていた。

「あ、ちょっと待って。」

 朋彦は荷車を曳いて出発しようとしたナオヨシを呼び止め、懐に手を突っ込み蛙人形を掴んだ。

「!」

 すぐに蛙人形の力を受け、荷車の角に細長い棒が伸び、その先に明るく輝く電気ランタンが現れた。

「これなら安心だなー。」

 ナオヨシはランタンの明かりを見上げ、再び荷車を曳き始めた。



シモアサダ村へと戻っている内に日も沈みきってしまい、真っ暗な山道にはランタンの明かりだけが浮かび上がっていた。

 時々その光におびき寄せられる大小の蛾や羽虫の姿に、朋彦は声にならない悲鳴を上げて体を竦ませた。

「朋彦さんって意外と臆病だなー。」

 ナオヨシはのんびりと笑いながら、時折顔を掠める大きな蛾を無造作に払いのけた。

「っ・・・! そうは言うけどさ・・・!」

 朋彦は荷車の後ろを押しながら、怖々とランタンの周囲を飛び続ける虫達を見上げた。

 こんな山奥での生活が当たり前のナオヨシや村人達にすれば、身の回りを虫が飛び交う事等何でもない事なのだろう。

 恐れ過ぎる朋彦の方がおかしいのだろうが――、しかし恐い物は恐い訳で、朋彦は身を縮めたまま荷車を押し続けた。

 一度、両手の平程の大きさの蛾が頭上を掠め、本気で泣きそうになる等、朋彦にとっては半ば苦行の様な道行きが暫くの間続き、後少しでシモアサダ村という所迄戻って来た。

 見覚えのある村境の苔むした石碑が少し離れた場所に立っており、朋彦は安堵に大きな息を吐いた。

「お疲れだったね。」

 そんな朋彦の様子に、ナオヨシは荷車を曳きながら苦笑した。

「――おーい!」

 そこに、ゆらゆらと揺れる薄赤い提灯らしき光と、縦横に大柄な人影が見えた。

 石碑の側には小さな提灯を持ったタリョウゴが立っていた。

「そろそろ戻るンじゃないかと迎えに来たンですよ。」

 朋彦とナオヨシが荷車を曳きながら近付いていくと、タリョウゴの姿が電気ランタンの光に照らされてはっきりと現れた。

「もう少し早めに戻るつもりだったけど、ちょっと手間取って・・・。」

 朋彦はタリョウゴの出迎えに内心ニヤニヤと下心的に喜びつつ平静を取り繕った。

「あ、えーと朋彦さんと寝過ごしちまって・・・。へへ・・・。」

 頬を掻きながら誤魔化す様に笑い、ナオヨシもほんのり顔を赤らめて言い訳めいた事を口にしていた。

 どうやらナオヨシにとってもタリョウゴは好みのど真ん中の様だった。

「しかしすごい明るい提灯ですね。暗くなったから心配してたンですけど、これなら夜道も安心だ。」

 自分の持ってきた提灯の蝋燭を吹き消すと、タリョウゴは文字通り眩しそうに荷車の電気ランタンを見上げた。

「カミイシダ村でもこんなに明るいのは見た事無いですよ。小さなお日様みたいだ。サダロウが言ってた通り、本当にすごい商人様だ・・・!」

「いや・・・ハハハ・・・それほどでも・・・。」

 蝋燭や油で明かりを灯す様な生活をしているタリョウゴ達にとって、夜の闇を煌々と白く照らす電灯の光を太陽に例える事は決して大袈裟な事ではないのだろう。

 しかしそんなにも手放しに称賛されてしまうと、朋彦はどうにも照れ臭くくすぐったい気持ちになってしまうのだった。

 タリョウゴのくりっとした目が眩しそうに見ているのが、ランタンの光だけでなく朋彦やナオヨシでもある事に気付き、朋彦は恥ずかしさに思わず俯いた。

「いやいやいや、そんな大層な商人じゃないし! ――ナオヨシ、ほら出発出発。品物運ばないとな。」

 照れ隠しにナオヨシへと声を掛け、朋彦は荷車の後ろを押し始めた。

 しかし、前方で持ち手を押さえているナオヨシがゆっくりとしか歩いていないので、朋彦が強く押しても荷車は殆ど動いてはいなかった。

「恥ずかしがらなくてもいいのに。朋彦さん、ホントにすげえ商人様なのにな。」

 俯いたまま荷車を押す朋彦を振り返り、ナオヨシは朋彦が褒められた事を無邪気に喜んでいた。

 朋彦の照れる姿を微笑ましくタリョウゴは眺め、

「じゃあ駐在所に戻りましょうか。」

 そう朋彦とナオヨシに声を掛けると、先導する形で歩き出した。

 昼間通った田畑を横切り、少し歩くと小さな家々が寄り集まる一角へとすぐに朋彦達は戻って来た。

 時刻自体は午後七時を過ぎた位ではあったが、既に日は暮れて村は暗がりの中に沈んでいた。

「ナギシダ村でも皆、夜は早かったな・・・。」

 窓も戸も閉めて静まり返っている家々の様子に朋彦は独り言を漏らした。

 このシモアサダ村でも、提灯等の照明器具や、明かり用の燃料は充分ではないのだろう。

 戸を閉め切って何の明かりも漏れて来ない家々は、誰も住人が居ないかの様な錯覚を朋彦に感じさせた。

 だが、小石だらけの道の上を回る、荷車の車輪の立てるがらがらという大きな音が近付き、住人達は何事かとそっと戸や窓を開け始めた。

 朋彦の元の世界の様な街灯等は何一つ無い、村の暗い往来に突然やって来た明る過ぎるランタンの光は、村人達にある種の恐れを抱かせた様だった。

 ほんの僅かに木戸を開けると、夜の暗闇を照らす見た事も無い――タリョウゴの例えた「小さなお日様」が村人達の目に入り、彼等は半ば反射的に驚きと怯えと共に木戸を閉めた。

「恐ろしいぐらい明るかった!」

「化生のマジナイか!?」

「でもタリョウゴが居ったみたいだが・・・。」

 外からのランタンの光が微かに木戸や窓の隙間から入り、薄ぼんやりと人影が判る様になった家の中で、一瞬だけ見た外の様子を彼等は口々に言い合った。

 一瞬の光景の中に、彼等の慣れ親しんだカミイシダ村の相撲取りの青年の姿があった事が、辛うじて彼等の無知からくる恐怖感を和らげた。

「うーん・・・。完全に不審者扱いだよな・・・。」

 朋彦は荷車を押しながら溜息をついた。

 ナギシダ村の時も感じる事があったが、やはり閉鎖的な生活をしている上に、生活水準がパイライフ言う所の幕末から明治初期ぐらいの状態では、余り掛け離れた水準の品物は驚きや恐れが先に立ってしまう様だった。

 村人達からのそうした視線や雰囲気に荷車を曳くナオヨシは落ち込み、ナギシダ村で受け入れられなかった事を思い出したのか、不安げに泣きそうな表情で時々朋彦を振り返っていた。

「――たっ・・・タ、タリョウゴさん・・・かね!?」

 通り掛かった一軒の家からかなりの勇気を振り絞ったのか、中年の女性が少しだけ開けられた戸口から声を掛けてきた。

「あ、ああ! 今から駐在所に戻るところだ。」

 タリョウゴはそう答え、

「あ、こっちは昼間チヅコ達を助けてくれた行商人様達だ。明日、村で売る品物を取りに行ってたンだ。」

 村人達の警戒心を和らげようと、なるべくはっきりとした口調を意図してタリョウゴは朋彦とナオヨシを紹介した。

 幸い、静まり返っていたせいもありタリョウゴの返事は近隣の家々にもしっかりと伝わった。

 暗い夜の様子はそのままだったが、その返事が伝わるとすぐに村の空気が明るく変わった様だった。 

「えーと、明日、駐在所の前で店を開くんでよろしく・・・。」

 出来るだけ愛想よく笑い、朋彦は木戸の隙間から覗いてくる女性へと頭を下げた。

「ほら、ナオヨシ、挨拶。」

「よ、よろしく・・・。」

 朋彦に促され、ナオヨシはまだ泣きそうな表情のまま深々と頭を下げた。

 それからまた朋彦達は歩き始め、駐在所へと向かった。

 


 朋彦達が再び歩き始めてごく僅かな時間しか経っていなかったが、安心した村人達は先刻迄よりは大きく戸や窓を開けて朋彦達の行く様子を覗く様になっていた。

 驚きや恐れの感情は消え、今度は期待と好奇心に満ちた視線が注がれるのを朋彦達は感じていた。

「何か・・・すげープレッシャーを感じる・・・。」

 朋彦がふと顔を上げると、通りすがりの民家の窓から親子孫と揃って顔を出している家族の、期待にきらきらと輝く表情が目に入って来た。

 何かとてつもなく面白い、素晴らしい物を売ってくれるに違いない。

 村人達のそんな強い期待を感じ取り、朋彦は溜息をついた。

 そんな期待に満ちた視線は、最後に通り掛かった村長やその親戚達の家の住人達からも浴びせられた。

「室地殿!!」

 聞き覚えのある何処か偉そうなピイピイと言う鳴き声と共に、小さな羽ばたく影が朋彦の頭の上にやって来た。

「ぴかぴか!お日様!」

 サダロウを追い掛ける様にしてツルオもまた村長の家の中から出て来た。

 村長から明日の行商の話を聞いていたその家族や親戚達は、流石に他の村人達よりは落ち着いた様子だった。

「室地様、この度は本当に有難うございました。その上、この村でもお商売をして下さると・・・。」

 チヅコとツルオの母カメヨが戸口に立ち、改めて朋彦達へと頭を下げた。

 だが話は聞いてはいても、自分達が今迄見た事も無い様な明るい光を放つランタンや、山の様な大荷物を積んだ荷車を実際に目にして、カメヨや他の親戚達も少しだけ怖じ気付いている様だった。

「いえ、お礼を言われる程では・・・。」

 先手を曳くナオヨシを立ち止まらせると、朋彦は頭上のサダロウを払いのけて村長達の所へとやって来た。

「タリョウゴを迎えにやりましたが、無事戻られた様で良かったですわい。」

 村長が戸口の奥からチヅコの手を引きながら現れた。

 村長もまた親戚達や他の村人達と同じ様に、感嘆と恐れの入り交じった表情でランタンと荷車を眺めていた。

「村長様は心配症でござる。室地殿はマジナ・・・。」

 再び朋彦の頭上に着地し、偉そうにピイピイと囀りかけたサダロウへと朋彦は瞬時に手を伸ばした。

「ア・キ・ナ・イ、な!商い! ――やっぱ、鳥の嘴だと人間の言葉は発音しにくいんですかねえ?」

 握り潰しかねない勢いで両手でサダロウを包み込み、朋彦はサダロウに強く言い聞かせた。

「そそそ・・・そうでござった! 商い。商売に優れた御仁でござる故、夜道も心配するには及ばぬでござるものな!」

 朋彦の指の隙間から必死に頭を出して、サダロウはがくがくと頭を何度も頷かせた。

 そんな遣り取りにチヅコとツルオは小さく笑った。

 朋彦が凄いマジナイ師で、それを村の者達には隠している事を、サダロウとは違い子供達は漠然と察していた。

「言い間違えちゃ駄目よ。」

 くすくす笑いながら、チヅコは助けを出す様に朋彦へと小さな手を差し出した。

 朋彦の手から解放されたサダロウはチヅコの掌へと、ぱたぱたと小さな翼を羽ばたかせて飛び移った。 

「――そういや、コイツ、いや精霊様は村長様の家で暮らしてるんですか?」

 頭も口も軽そうな小雀を指差し、朋彦は何となく尋ねてみた。

 またついうっかりと自分達の事をぺらぺらと喋られてはたまったものではなかった。

「まあ似た様なものですが、隣のワシの妹の方の家族の所でお預かりしておるのです。」

 カミイシダ村では、生まれて数年の幼い精霊については近隣の村の人間達の間で生活をさせて見聞を広める等して修行をさせる習わしがあった。

 村長の話では、チヅコとツルオは村長の妹夫婦の孫で、特に精霊の子供との相性が良かった為にサダロウを預かる事になったのだという。 

 相性が良い――と言っても定義は今一つ曖昧で、精霊の喋る言葉がはっきり聞き取れるとか、精霊の使うマジナイの力が少しだけ増幅するとか、個人差が大きいものの様だった。

 サダロウの場合はまだ修行中の子供の身でもある為、何を以って相性が良いのかははっきりはしていなかったが・・・。

「へえ~。チヅコとツルオは村長様の親戚の子供なんだ! すげえなあ。」

 横で聞いていたナオヨシが感心した様にチヅコとツルオを見た。

 先刻迄の村人達からの恐れや好奇心の視線に泣きそうになっていた表情も、何とか和らいできていた。

「まあ、親戚と言っても狭い村の事ですから、村中が遠縁の親戚の様なものですがね。」

 ナオヨシの言葉に村長が笑いながらチヅコとツルオの頭を撫でた。

 そんなチヅコ達の様子を微笑ましく眺めつつ、村長達の家を後にすると朋彦達は再びタリョウゴに先導されながら駐在所へと向かった。

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