ひとつめのかたり 「余神も すなるという 異世界転移というものを 我もしてみんとて するなり」

 九月も半ば。

 大学生の夏休みももう少しで終わりかけというのに、アスファルトの上に降り注ぐ太陽の光はぎらぎらときつく、赤い目をした蝉のけたたましい鳴き声はいつまでもやむ事は無かった。

 クーラーを効かせたアパートの自室で一日中だらだらするのも魅力的ではあったが、かと言って一日中狭い部屋で閉じこもりっきりになるのも息苦しかった。

 朋彦は何となく気分転換をしたいと思い立ち、夕方のまだ日も傾き掛けたばかりの時間に、アパートから少し離れた高台の公園へと散歩にやって来た。

「・・・やっぱり暑い・・・。」

 自分の気紛れを早くも後悔しながら、朋彦は高台から街を一望できる木陰のフェンスにもたれかかった。

 フェンス越しに高台から眺める街並は時刻だけは夕方だったが、まだきつい太陽の光に焙られてぎらぎらとした照り返しを放っていた。

 小さな公園には誰の姿も無く、花壇に植えられた花々も少し萎れており、青々と茂る木々だけが暑さに堪えた様子も無く微風に葉を揺らしていた。

 朋彦は指に嵌めた携帯端末を起動させるとネットに接続した。

 ニュースサイトや普段見ているドラマの番組サイト――ブックマークに登録していたサイトを適当に辿っていき、いつもの男性同性愛者の掲示板やソーシャルネットワークサービスの自分のページへと入った。

 朋彦の眼前には一枚の画面が浮かび上がり、数十人の顔写真やアイコン、呟きや日記の冒頭が次々に表示されていった。

 無人の公園では誰も覗き見る事は無かったが、光学的なブロックを施されている為、使用者以外の方向からは画面は見えないようになっていた。

 画面をスクロールしながら朋彦は公園に来る途中で寄ったコンビニで買ってきた麦茶に口をつけた。

「――!」

 不意に地面が何度かゆっくりと大きく揺れ、ペットボトルの中の麦茶が朋彦の顔を直撃した。

「うえ~・・・。地震か・・・。最近多いなー。」

 手で顔の麦茶を拭い取り、朋彦は独り言を漏らした。

 先刻の揺れで驚いた公園の緑色の羽根をした鳩や淡い黄色と黒の斑模様の雀がピーピーと騒がしく鳴きながら飛び交っていた。



 読者の世界に近い様な、近くない様な――現代の様な世界。

 パイライフがその手を伸ばしたのはそんな世界の一人の青年だった。

 無限の数の宇宙の中に無限の数の人間の住む星があり、無限の数の人間が居る中では、パイライフにとってはどれもこれも似た様な世界であり、多少の差異は気にする事も無かった。

 立ち並ぶガシャポン販売機――大して興味の無い者がふと思い立ってその一つの販売機を選び、お金を入れて回した。

 その程度の巡り合わせで、彼は選ばれた。

 室地朋彦(むろじ・ともひこ)、十九歳。大学生。一七〇センチ、七十二キロ、中肉中背、黒髪やや短髪。やや童顔。ウケ寄りリバ。

 パイライフにとっては人間の名前もその外見もその性質も、全くどうでもいいものではあった。

「おっ! メッセージ来た来た!!」

 空中に開きっぱなしにしていた画面の一部が光り、メッセージの受信があった事を朋彦に知らせてきた。

 ソーシャルネットワークサービスの朋彦のページを見て、誰かがメッセージを送ってきた様だった。

 朋彦は嬉しそうに受信メールへと指先を伸ばした。

「――!!!!!!」

 そこに、先刻の揺れとは比べ物にならない激しい揺れが辺りを襲い、朋彦の平衡感覚を一瞬だが完全に奪った。

 地震のせいで何か不具合でも起こしたのか、画面が乱れてフリーズを起こしたのが朋彦の目に入った。

 ああクソ!受信メールのアイコンの顔写真、結構イモ系兄ちゃんで良さそうだったのに!しばらくぶりの好みのヤツだったのに!

 地面の揺れで背後に激しく体を倒されながら朋彦は内心、欲にまみれた叫び声を上げていた。

 激しい揺れは公園の敷地のあちこちに大きな地割れを起こし、朋彦の倒れたフェンスの周囲にも深い亀裂を生み出した。

「――あっ・・・。」

 やべっ。朋彦は頭をふらふらさせながらも何とか慌てて起き上がろうとしたが、亀裂はそのままどんどんと広がっていった。

 身動きも出来ず朋彦の体は崩されたコンクリートの土台ごとフェンスに乗ったまま、高台から空中へと投げ出されてしまった。

 あ・・・死んだな。

 落下する中、現実逃避気味に朋彦は呟いた。

 こんな風に突然死んでしまうのか。

 すぐそこまで物凄い勢いで迫り来る激突死の瞬間を想像してしまい、朋彦は何も考えないようにした。

 高台の公園のすぐ下は駐車場になっていて、そこにも地震で出来た大きな亀裂が広がっていた。

 それらを意識する間も無く、あっと言う間に駐車場のコンクリートの上に頭から落ちたゴギリッという重く鈍い音が、朋彦の耳に届いた様な気がした。

 だが、その一瞬後には朋彦の意識と命は無かった。



 明るいのか暗いのか。

 薄明るいとも薄暗いとも言い難い光が辺りに満ちていた。

 そんな薄く茫洋とした茜色の空の下に、朋彦は横たわっていた。 

「・・・?」

 転落死したという自覚が漠然と朋彦にはあったが、目を覚まし上半身を起こすと特に痛みも怪我も無かった。

 辺りを見回すと、何処までも広がっている夕暮れの空を薄紫色の雲がゆっくりと絶え間無く流れ去っていた。

 それ以外は何も無く、固い感触のする地面にも何も無い――いや、何があるのか判らなかった。

 土が剥き出しなのか、草むらなのか、舗装されているのか、見えている筈なのに何も判らず、ただ地面が固いと言う事しか朋彦の知覚には捉えられなかった。

 ただ、何処までも続いている夕暮れの様な空だけが、そこにあった。

 朋彦は不思議に思いながらゆっくりと立ち上がった。

(お前でよいか・・・)

 そこに突然、何処からかそんな声が聞こえてきた。

 男の様な女の様な、若者の様な老人の様な・・・記憶に留めようとすると忽ちの内にどんな声質だったのかも曖昧になってしまう、不思議な声だった。

 何処からかははっきりとは判らなかったが、朋彦は反射的に声のすると思われる方を向いた。

「・・・・・・は?」

 僅かな無言の後、思わず眉をひそめ、朋彦は言葉も出せずにその声の主を見た。

 半分に割った楕円球状の円盤を二つ重ね合わせた様な頭部には、ピンポン玉の様な眼球。

 その黒目は互いに上下反対を向き焦点が合っていない様だった。

 そんな頭部を支える、同じく楕円のラグビーボールの様な胴体からは針金の様な細い手足が伸び、それぞれの先端には三本の指が生えていた。

 朋彦と同じぐらいの背の高さの、趣味の悪いデフォルメをされた蛙の様なマスコット人形――その人形が声の主の様だった。

 朋彦は目の前の不思議な存在を呆然と眺めた。

 そんな朋彦の様子を気にした様子も無く、蛙のマスコット人形は一方的に話し始めた。

(我が名はパイライフ。早速本題に入るが、お前は先刻の地震で死んだ。たまたま我の目に留まったお前を生き返らせたので、これから異世界転移させようと思う。)

 余り抑揚の感じられない平坦な口調で、焦点の合っていない様なピンポン玉の目玉が朋彦の姿を映していた。

「――何かいきなりだな!! おい!!」

 その滑稽な姿と突然の一方的な話とで、朋彦は事態が今一つ飲み込めない苛立ちから思わず声を上げ、パイライフと名乗る蛙人形の首根っこを乱暴に掴み上げた。

 得体の知れない存在ではあったが、その滑稽な姿に朋彦の警戒心も薄れてしまっていたらしかった。

(まあまあ落ち着け。お前もこのまま死にたくは無かろう?)

 揺さぶられるに任せ、パイライフは無抵抗のまま朋彦に言葉を続けた。

 朋彦はしばらく蛙人形の首を締め上げていたが、やがて少しは落ち着いたのか手の力を緩めた。

「・・・まあ、いきなりあんな死に方は・・・なあ・・・。無いよなあ・・・。」

 朋彦は少し溜息をついた。

 大体、折角好みの奴とこれから楽しく会おうとした所で死んでしまっただなんて後悔が残りまくりで死んでも死に切れなかった。

 あわよくばあれで実際に会ってから、色々とお楽しみもしたかった。

 蛙の人形――パイライフは相変わらず何の感情も読み取れない、上下互い違いのピンポン玉の目玉を朋彦に向けていた。

(お前の元居た世界の文化にもライトノベルという物があり、異世界転移という物語の様式がある。)

 パイライフの言葉に朋彦も頷いた。

「ああ。たまに読んだ事がある。」

(我は異世界転移という物をしてみようと思ったので、たまたま目に付いたお前が、たまたま死んでしまったので、ここへと拾い上げたのだ。)

 神だか何だかよく判らないこの目の前の存在がどうやってライトノベル等を読んだのか、朋彦には全く想像が付かなかったが、パイライフの説明に一度は死んだ筈の自分が何故生きているのかは一応は納得した。

(物語には古来より色々と様式が存在する。貴種流離譚、異類婚姻譚、現代では異世界転移、異世界転生という要素も立派な一つの物語の様式であろう。)

 古来とか現代とか言う言葉を使いながらも、時間も空間も次元も関係無いであろうパイライフは、何処か芝居かかった口調と手振りで朋彦へと説明を続けた。

「――で、俺はどんな異世界に飛ばされるんだ?」

 朋彦の問い掛けに、蛙の人形の楕円球の頭部が頷く様に揺れた。

(お前に解り易く説明すると、異世界の転移先の様子は幕末から明治初期の日本の様な世界観。イモカワイイ兄さんから小汚い腕白ショタを経由して、坊主後輩男子、はたまたガッシリキリッとした男前まで松茸食べ放題でチート満載、この世の天国以下略)

「貴方が神か!!!!!! 是非ともその世界にお願いするッス!!!!!!」

 パイライフの説明が終わらない内に朋彦は即座に土下座した。

 勢い余って地面に頭を叩きつけてしまったが、松茸食べ放題の向こうに広がるこの世の天国を想像し頭の痛みは欠片も感じる事は無かった。

(了承した様で良かったよ。成る程、これが――面白い、という概念か。)

 何処までも続く夕暮れの空を流れる薄紫色の雲が、何故か一瞬、灰色に翳って停止した様な錯覚を朋彦は感じてしまった。

 一人で納得し楕円球状の頭を再び頷かせる蛙人形の姿に、朋彦の背中には何とも言えない暗く怖ましい寒気の様な物が走った。

 しかし、何故か喉は緊張と怖気とに凍り付いた様に強張り、朋彦は何も言えずにただ蛙の人形を眺めるだけだった。

(何も不安がる必要は無い。これは、お前に解り易く説明すると、・・・・そうだな。学校のグラウンドの片隅で蟻が死んでいた。蟻を生き返らせて近くの茂みに放し、その行方を観察する――その様な所か。)

「人間が蟻って・・・。また大きく出ましたね・・・。」

 土下座の姿勢のまま、パイライフから感じられる暗い寒気にいつの間にか敬語になっていた朋彦は軽く苦笑した。

 頭から落ちて死んだ人間を生き返らせ、異世界に転移させる存在からすれば人間も蟻の様なものなのだろう。

 ただ、姿形が胡散臭い蛙のマスコット人形では有り難味も説得力も無かったが。

(さて。そろそろ異世界転移というものをしてもらおうか。どうせ元の世界では死んでしまったのだ。転移先ではせいぜい好きな様に生きて我を楽しませるがいい。)

 その言葉が終わると同時に茜色の空は茜色のまま、不意に黒く曇った様に朋彦には感じられた。

 目の前の蛙人形は白目を剥いたまま硬直し、その上空には巨大な・・・しかし朋彦の目には見えない質量が漲った。

 ただ、巨大としか言い様が無かった。

 一瞬視界の端に映ったのは巨大なパイ皮に包まれた球状の物体の様でもあった。

 薄いパイ皮の一枚下に出鱈目に浮き出た目玉や胃腸、ばらばらの骨、髪の毛、ばらばらの歯。

 それらを包み込むパイ皮のほつれ目から覗く、蠢いている何か。

 本能的に朋彦はそこから目を逸らし俯いた。 

 あれは、決して見てはいけないし――見えようのないものだった。

 見えたとしても、何が見えたのか決して判らないものだった。

 意図せず、そのものの前で朋彦は土下座を続ける様な形になっていた。

 神の前に額づく人間の様に。

 そこに、ぺっ、と、何かが何処かから吐き出された。

 その音に思わず朋彦が少しだけ頭を上げると、人間の体ほどの大きさのパイ皮が飛来するのが見え――瞬く間に朋彦を包み込んだのだった。



 何処からか飛んで来たパイ皮に包まれ朋彦が視界と意識を失くしてから、一瞬だったのかそれともしばらく経ったのか。

 朋彦が再び目を覚ますと、そこは何処かの山の中だった。

 深い藪と言う程には木々は茂ってはおらず、時々は人の手が入っているらしく幾つかの竹や木の切り株が朋彦の目に留まった。

「異世界・・・なんだよな?」

 辺りを見回しながら立ち上がり、朋彦は体にまとわり付いていた枯葉を払いのけた。

 朋彦は植物に詳しい訳ではなかったが、椎の木やモミジ、藪椿、下生えには石蕗や万両・・・だと思われる日本で見慣れた植物ばかりだった。

 日本の様な世界観の異世界だとあの蛙人形――パイライフが言っていたのを思い出したものの、まだ何と無く朋彦には異世界転移が現実感を伴って理解出来てはいなかった。

(問題無く転移出来たな。)

「――ぅおぉう!」

 不意に頭の中に響いて来たパイライフの声に朋彦は思わず飛び上がった。

「何処からだよッ!?」

 驚いた勢いで激しく頭を振り回す様にして周囲を素早く朋彦は見回したが、あの趣味の悪い蛙人形も得体の知れない巨大なパイ皮の球らしい物も見つからなかった。

(落ち着かん奴だのう。・・・まあ丁度良い。その世界に我が力を及ぼすに当たっては端末機があった方が色々と都合が良いか。)

 その声が響くと同時に、朋彦のズボンの左ポケットの辺りに何か軽い物が引っ掛かった感触があった。

 見ると、あの茜色の夕暮れの空の世界で見たパイライフの蛙人形が、白目を剥いて縮んだ姿でベルトの辺りに引っ掛かっていた。

 見ようによっては人形が首吊りをしている様にも見える体勢だった。

(端末機としてその人形は機能する。我との意思疎通や、お前に与えたチート能力とやらを振るう際に握って使え。)

 頭の中に響いてくる説明を聞きながら、朋彦は蛙人形を手に取ってみた。

 丁度手の平に納まる大きさの蛙人形は、何処となく生温かく、硬い様な軟らかい様な何とも言い難い中途半端な手触りだった。

「あ! そう言えばチート満載って言ってたけど、どんな能力が使えるんだ? やっぱ魔力MAXで魔法使いたい放題とか、常時相手を魅了状態ONとか不老不――。」

 一気にまくし立てる朋彦の言葉を、パイライフは途中で一言の下に遮った。

(何でも。)

 ――何でも出来る。

 何の感情もこもっていない、平坦な口調でパイライフの言葉は続けられた。

(お前が空想し、考え付く限りのどんな事でも出来る。)

「・・・何でもって・・・。」

 白目を剥いて首を垂れる蛙人形を握り締めたまま、朋彦はあの茜色の空の世界で感じた得体の知れない、怖ましい寒気を思い出していた。

 よく昔話等で出て来るどんな願いも叶えてくれる精霊やら宝物やらに願った場合、大抵は碌な目に遭わないというオチが待っていた。

 大学の講義で居眠りしながら聞いた昔話概論の内容を朋彦は思い返していた。

 こういう場合、どんな風に願い事を組み立てれば自分に害が及ばなかったか――朋彦は冷や汗をかきながら蛙人形に願う事の内容を考え始めていた。

(よきかなよきかな。それぐらいの用心深さと小心さが観察するのに面白い。)

 そんな朋彦の様子を笑ったのだろうか。

 蛙人形の体が少しの間小刻みに震えた。

「よきかなって・・・あんまし誉められてる気はしねえけど。」

 朋彦はイラッとしながら蛙人形をぐにぐにと握った。

(お前が心配する様なしっぺ返しや裏の条件等というケチ臭い要素は付けていない。言葉通り、お前が空想し、考え付く限りのどんな事でも出来る。御伽噺の魔法使いの様な事も、テレビのヒーローの様な事も、ライトノベルの俺強ぇぇ無双タグの付いた物語の様な事も、何でも出来る。)

 パイライフの説明を聞きながら、少しずつ自分に与えられた能力が楽しみにはなりつつはあるものの、やはりまだ朋彦は警戒心を抱きながら手の中の蛙人形を見つめていた。

(何でも出来ると言うが、所詮は生身の人間。その想像力には限界がある。――その世界に転移して早々に危険を切り抜けられずに死なれても興醒めだから、一番最初の説明だけはしてやろう。観察の楽しみの為、後は極力お前には我からは関わらんからな。)

 パイライフがそう言い終ると、白目を剥いて項垂れていた蛙人形の体が大きく震えた。

 驚いて思わず朋彦が人形を手放すと、枯葉の積もる地面の上に人形が立ち上がり――夕暮れの世界で見た時の様に朋彦と同じ位の背丈へと大きくなった。

 白かった目の中には黒目が現われ、だらんと垂れていた頭にも力が入った。

 相変わらず黒目は互い違いの方を向いて焦点が合っていない様だったが、一応は朋彦の方を見た様だった。

 朋彦がその様子に呆気に取られていると、蛙人形は三本の指の生えた針金の様な手を朋彦の額へと軽く叩き付けた。

「――何しやがる!」

 痛みは無かったが、針金の様な手が触れた途端、蛙人形から能力の説明に関する情報が瞬く間に流れ込んで来たのだった。

 この力は朋彦の想像力に依存しているという事。想像できる事ならばどんな事でも現実に出来る力だが、生身の人間の想像力には限界があり、更に今迄生きてきた中で培われてきた常識がその想像力を縛る為、意外と力を使いこなす事が難しいという事等等――。

 一度に大量の情報が頭の中に流れ込んで来た為、朋彦は頭痛と眩暈に襲われ思わずその場に蹲った。

(以上、説明終わり。ついでにこの世界の地理や社会情勢、風俗習慣、各国の歴史学に文学、生物学に地質学、方言その他諸々の予備知識も詰め込んでおいた。知りたい事に意識を集中すれば検索出来る。この先はせいぜい好きな様に長生きしてその生き様を我に見せて楽しませるがよい)

 一方的に言い終ると、蛙人形は再び白目を剥いて朋彦の手の中に戻ってがっくりと頭を垂らした。

「くそ! 頭痛ぇなあ、もう!!」

 まだずきずきと痛み続ける頭を押さえながら、朋彦は何とか気を取り直し再び立ち上がった。

 ついでにと言いながらどれだけの量の知識を詰め込んだのか。

 朋彦の頭の中ではまだずっと火花を放つ様に様々な知識が断片的に浮かび上がっては流れ去っており、朋彦の脳内に定着している最中の様だった。

 立ち上がったものの目の前の山の中の景色と、脳内の知識によって浮かび上がる写真や音や匂い等の感覚が出鱈目に朋彦の脳内で混ざり合い、長い時間朋彦は呆然と立ち尽くしていた。

 しばらく経ってからやっと大きな頭痛が治まり、今居る山の中の景色や物事がきちんと感じ取れる様になったが、既にパイライフの声も気配も何処にも感じられなかった。

 元の手の平サイズに戻った蛙人形に朋彦が呼び掛けてみたものの、何の反応も無かった。



「――さて、どうしたもんかな~。」

 これから一体どうしたものか。

 好きな様に朋彦が長生きして、その様子をパイライフが観察して楽しむと言う事らしいが、いざ好きな様にと言われてもすぐには何も思い付かなかった。

 まだ疼く様に痛む頭を押さえながら、朋彦は取り敢えずこの近辺で一般的な服を頭の中で検索し、着替える事にした。

 パイライフの説明通り、この辺りで着られている衣服の様子――と意識を向けると、忽ちの内に頭の中に映像や手触り、簡単な説明までが浮かび上がった。

 もっと集中するともっと詳細な情報が出てきそうではあったが、まだ朋彦の脳に馴染んでいないらしく、また激しい頭痛が起こってしまいこれ以上の検索は出来なかった。

「・・・・痛ぇぇぇぇ!」

 頭を抱えて蹲り、朋彦はしばらくそのままで頭痛が治まるのを待った。

 頭痛が治まると、今度は服の実体化を念じる事にした。

 この辺りの地域の一般的な服装は、幕末から明治の辺りの世界観に似ていると言うパイライフの言葉の通り、時代劇等で見た様な丈の短い浴衣の様な着物に、下半身は短いズボンの様な筒裾の下穿きだった。下着は褌で、この地域では六尺褌が多く穿かれている様だった。

 蛙人形を握り締めて初めての想像した物体の実体化は・・・やはり激しい頭痛と引き換えに行なわれた。

 朋彦の体の大きさにぴったりの着物と下穿き、褌が地面の上に出現したが、頭痛が治まるまで朋彦がそれを手にする事は出来なかったのだった。

「・・・慣れてきたらこの頭痛も無くなるのかね・・・。」

 何とか頭痛の治まった朋彦は、溜息をつきながらも作り出した着物を手に取った。

 着物を着替え終わると、今まで着ていた服と蛙人形をどうしたものかと朋彦は迷った。

 服を捨ててしまうのも勿体無いし、蛙人形を引っ掛けるような箇所も着物には無かった。

 仕方が無いので朋彦は昔読んだ青い狸の漫画に出て来る様な、万能の収納力を持つ道具袋を作り出す事にした。

 手の平程の大きさの白い木綿のポケットの様な形の道具袋――その中にどんな大きさの物でも幾らでも収納出来る。

 そんな能力を持つ袋が朋彦の想像通りに実体化した。

 勿論、また激しい頭痛を引き起こしながら。

「・・・・・・!!・・・・」

 また朋彦はしばらくの間両手で頭を押さえながら地面の上に蹲り、頭痛が治まるのを待たなければならなかった。

 何か知識を参照したり物を作り出したりする度に頭痛が起きるとうっとおしいので、朋彦は今まで着ていた服と蛙人形を袋の中にしまうと、しばらくの間――せめて脳に知識が馴染むまでは、この辺りに居て時間を潰そうと思った。

 道具袋は着物の懐の中にしまい込み、失くしてしまわない様にと自分の腹部にくっつく様にと念じた。

 ますます漫画の青い狸を思わせる状態になってしまったが、失くしてしまうよりはましだと朋彦は開き直った。 

 大分頭痛は治まり始めたが、これ以上は能力を試してみる気にはなれず、気分転換も兼ねて周囲を散策がてら探検してみる事にした。

 頭痛の名残で多少まだ足がふらつきながらも、朋彦は人が踏み固めたらしい小さな山道を当ても無く歩き始めた。

 途中で目に付いた蕾の付いた下草や、まだ未熟な青い小さな木の実等――朋彦自身はそれらの名前や性質等を知らなかったが、半ば反射的に行なわれるパイライフから与えられた知識の参照によって、そうした草木の名前等の情報だけでなく果実のなる時期等も判り、今がおおよそこの世界の・・・この地方の夏の終わりの時期だと言う事が判った。

 朋彦の目に入る山の木々はまだどれも青々としており、木漏れ日も明るく降り注いでいた。

 ちょっと郊外の小さな山にピクニックに来た――そんな長閑な錯覚すらあった。

 だが、途中で何度も休みながら歩いている内に、いつの間にか山の小道は更に幅の狭く、草に覆われがちな物へと変わり、朋彦は何処を歩いているのか判らなくなってしまっていた。

「・・・これは・・・道に迷ったか・・・?」

 そもそも最初の時点で自分が何処に居るのか判っていなかったのだから、改めて、道に迷ったと言うのは表現として正しくない――等と、内心で見苦しい言い訳を誰にするでもなく行ないながら、朋彦は一旦立ち止まって休む事にした。

「全く・・・。これじゃあ、いつまで経ってもイモカワイイ兄ちゃんや坊主男子なんかに出会えないじゃねぇかよ。」

 少し歩きつかれた事もあり、ぶつぶつと文句を言ってみるものの、誰も居ない山の中では朋彦の不満を聞いてくれる者は無かった。

 もういい加減頭痛も起こらないだろうと楽観的な予測を立て、朋彦は何か便利な道具を実体化させる事にした。

 自分の腹に貼り付けた道具袋から蛙人形を取り出すと、朋彦はそれを高々と掲げて叫んだ。

「ドの付く青狸のロングセラーマンガを読んで育った子供を舐めんな!! 出でよ、偵察衛星!!」

 朋彦の叫びに応え、蛙人形はぶるぶると振動を始めると、その口から白くてぶよぶよした塊を吐き出した。

「うわっ汚ねええ!!」

 ゲロでも吐いたのかと朋彦は慌てて身を躱した。

 蛙人形から吐き出された白い塊は即座に形を成し始め、僅かの時間の内に朋彦の想像通りの道具へと変化した。

 偵察衛星――先端に目玉の様な球状のカメラの付いた小さなミサイルと、それをモニターする薄い板状の液晶画面。多少の差異はあったが、子供の頃に朋彦が読んだ漫画の機械装置だった。

「・・・・!!」

 自分の想像通りの道具が実体化したものの、また頭痛が起こり朋彦はまたしばらくその場に頭を押さえて蹲る事になった。

 一番最初の時よりは頭痛の程度もましにはなりつつあったので、少しずつではあるがパイライフから与えられた能力を使いこなせるようになっているのだと、朋彦は無理矢理前向きに考える事にした。

 五分程して幾らかは頭痛も退いた所で、朋彦は偵察衛星のスイッチを入れて発射した。

 しばらく経ってからモニターからピピッと電子音が鳴り、朋彦の居る周辺の地形図が映し出された。衛星と言う名前の通り、どうやらさっき発射した物は衛星軌道上まで飛んで行った様だった。

 朋彦がモニター画面の隅に表示された切り替えボタンに触れると、飛行機から見下ろしているかの様な写真へと地形図は切り替わった。

「ん?」

 幾らかもう少し倍率を上げて自分のいる周囲に村か何か無いものかとスクロールしていると、画面の片隅を鳥らしき群れが飛び去るのが映った。

 どうやら偵察衛星はリアルタイムで地上の様子を映し出している様だった。

 適当に倍率を変えたりスクロールすると、二百キロ、三百キロの範囲には町や村らしき建物の集まりや道筋が幾つか見つかったが、朋彦が何とか歩いて行けそうな五~六キロの範囲には小さく貧しそうな村がやっと一つ見つかっただけだった。

 慣れない山道を迷いながら歩いてきた疲れが今頃になって出て来てしまい、朋彦は急に歩くのが面倒になってしまっていた。

 喉も渇いたし少し空腹にもなっていた。

 恐らく蛙人形に念じれば何か飲み物や食べ物は実体化するだろうが、また頭痛に襲われる事を考えると余り気は進まなかった。

 もうしばらく時間が経てば能力も自分に馴染んで頭痛も無くなるだろう・・・と、ひとまずは空腹をそのままにして少しだけこの場を移動する事にした。

 偵察衛星のモニターに村までの案内を頼み、画面に浮かび上がった矢印に従って朋彦はのろのろと歩き始めた。

「村に俺好みのイモカワイイ兄ちゃんとか居たらいいんだけどな~。」

 ぼんやりと歩きながら朋彦は呟いた。

「ラノベの定番のパターンだと貧しい村を現代知識やチート能力で豊かにしたり、村を襲う魔物とか盗賊とかを退治というんだろうけどな~。」

 朋彦はまだ見ぬ村の事を色々と想像した。

 そうした物語の主人公の様に人々に恵みを与え、ちやほやされる事に興味が無い訳ではなかったが、朋彦は別に自分から積極的にそれらを行ないたいと言う訳でもなかった。

 定番の物語の流れとしては大勢の美少女や美女が登場して、主人公に憧れて群がったりしてモテモテ・・・という事になるのだろうが、朋彦の価値観にとってはそんな事は激しくどうでもいい展開でしかなかった。

 女なんかにモテても朋彦は何一つ嬉しくなどなかった。

「やっぱオレ的には!! 筋肉質で素朴なイモカワイイ兄ちゃん達とかにちやほやされてぇ訳ッスよっ!!」

 誰に言うでもなくブツブツと呟き続け、一人で盛り上がって来たのか朋彦は自分の想像に目をぎらぎらさせながら山の細い道を歩き続けた。

 村に筋肉質の素朴なイモカワイイ兄ちゃんが居たらあの村に関わる事にしよう。そうしよう。

 朋彦は期待に満ちたニヤニヤした目で遠くを見つめ、うっとりと息を吐いた。

「嗚呼、まだ見ぬイモカワイイ兄ちゃん達・・・。早く会いたいぜ!!」

 そんな妄想溢れる希望に胸をときめかせる内に頭痛や疲れは何処かに消えてしまった様だった。

 そんな風に足元を碌に見ないまま歩き続けていたせいか――気付きにくい程緩やかな斜面に差し掛かった時に、朋彦はおかしな角度で木の根を踏んでしまい、姿勢を大きく崩して藪の中へと転がり落ちて行った。

「痛っっえええええええ!!!!」

 右足首を捻った上に、腰や背中も転がり落ちる時にかなりぶつけてしまったらしく、朋彦は藪の中で倒れたまましばらく起き上がる事が出来なかった。

 しかも、何かの小さな木箱が転がり落ちた場所にあり、朋彦がぶつかった時の衝撃のせいで潰れて壊れてしまっていた。

 右手の痛みに気付いて朋彦が見ると、木の破片が右腕に刺さり、少し血も出てしまっていた。

 体の痛みに呼吸が詰まりそうになりながらもよろよろと上半身を起こし、朋彦は刺さっていた木の破片を抜いたり木屑や落ち葉を払い落としたりした。

 しなくてもいいのに知識の参照は、体の下敷きになっていた木箱の破片に少し意識を集中しただけでその用途を説明してきた。

 ――箱状の罠。野生の鶉等を捕らえる際に使用されている。主に山間の集落で・・・。

 まだ知識の参照を行なう時には頭痛が強く起こってしまうので、朋彦は頭の中に次々に浮かび上がる説明から無理矢理に意識を逸らして打ち切った。

 とにかく怪我を治す様に蛙人形に――と気が焦るものの、頭痛だけでなく打撲や傷の痛みの為にうまく精神集中が出来ず、朋彦の願いを蛙人形は叶えてはくれなかった。

「・・・くそぉぉ・・・。」

 どのくらい時間が経ったのか、少しずつ辺りは暮れ始め、山の木々の間に差す日の光は薄い赤紫色へと変わっていった。

 怪我や打撲の痛みはちっとも治まらず、朋彦は藪の中に蹲ったまま唸り続ける事しか出来ないでいた。

 そこに、遠くから藪を掻き分けて近付いてくる音と気配があった。

 狼とか熊とかの山の危険な動物じゃないだろうな?

 朋彦は思わず身構えたものの、痛みの為に身動きが取れずどうする事も出来なかった。

 しかし、朋彦が緊張しつつもがさがさと草木に引っ掛かる音に集中していると、音についても知識の参照が行なわれた様で――この近辺の山に住む動物の分布や、その移動時に立てる物音等が頭の中にまた頭痛と共に浮かび上がり、今朋彦の居る方に向かっている者は人間の立てる物音だと知る事が出来た。

 頭痛にふらふらしながらも、誰だか知らないがこれで助かったと、朋彦は安堵の息を吐いた。

「・・・お・・・い!! 助け・・・て・・・!」

 頭、腕、腰、足等、体のあちこちが痛み続ける中で、何とか朋彦は掠れ掛ける声を振り絞って呼び掛けた。

「――誰か居るのか?」

 藪の向こうから驚いた様な若い男の声が上がった。

「・・・怪我を・・・して・・・動けない・・・んだ・・・!!」

 大声を出そうとすると胸や腰に響いて大きな痛みが走ってしまい、朋彦はゆっくりと途切れ途切れに再び声を上げた。

「――怪我?」

 藪の向こうの声の主は、朋彦の言葉にまた驚き、少し足を速めて近付いて来た様だった。

 しばらく朋彦が待っていると、藪を掻き分けて大柄な若い男の影が朋彦の前へと現れた。

 年の頃は十六~十七歳ぐらいで、背は百八十~百九十センチくらいだろうか。朋彦は蹲ったまま上半身を少し起こして見上げていた為か、彼の姿が余計に大柄に見えてしまっていた。

 坊主をそのまま2~3センチ伸ばしただけの頭髪に、やや垂れ目気味の人の良さそうな団子鼻の若い男が、呆然と朋彦を見つめていた。

 見た感じ素朴で朴訥な雰囲気の人の良さそうな若い兄ちゃん――ドストライクです! 田舎臭い大柄な兄ちゃんは大好物です!

 彼が着ている物もチョッキの様な粗末な袖無しの着物で、その大きさは体に合っておらず丈が短かった。滑らかな腹筋の浮かぶヘソの上迄は辛うじて上着の裾が覆ってはいたが、前をとじる紐はほつれてボロボロになっており、彼が体を動かすたびに前をはだけがちになっていた。

 朋彦の方は一応ズボンの様な筒裾の下穿きをはいていたが、彼の方は下半身は薄汚れた褌を締めているだけで、後はボロボロの草鞋を履いているだけだった。

 この辺りの貧しい暮らしをしている者達は大部分がこの彼の様な衣装だと、知識の参照によって朋彦は知った。

 一瞬だけ朋彦は体中の痛みを忘れて、その若い男の様子を舐め回す様に見つめてしまった。

 ――裸チョッキ褌状態、スバラシイっすわ!!!! しかも汚れオプション!! マニアにはたまらんっすわ!! 幸か不幸か、彼は朋彦の好みに大変適合していたのだった。

「・・・あ・・・。ええと・・・。怪我してんのか?」

 朋彦の内心の興奮に気付いた様子も無く、見慣れない人物に警戒や困惑の感情を顔に浮かべながら、彼は少しずつ近付いて来た。

「あ・・・ええと。・・・ここの上の道から・・・滑り落ちて・・・。」

 言葉を発する度に胸や腰等に痛みが起こるのを我慢しながら、朋彦は藪の隙間から見える山の斜面を指差した。

「あー・・・。」

 転がり落ちる痛みを想像したのか、彼は朋彦の指差した先を見ながら痛ましそうに顔をしかめた。

「怪我は大丈夫か?」

 朋彦の側まで近付くと、彼は朋彦の前に屈んで朋彦の足や腕を覗き込んできた。

 間近に迫る大柄な体と朋彦にとっては露出の多い衣装に、朋彦は思わず凝視してしまった。

「あ・・・! オレの罠が・・・。」

 怪我をしている朋彦の体の下敷きになっていた罠の木箱を彼は見つけ、がっくりと肩を落とした。

 どうやらこの辺りに住む鳥等を獲る為に設置していた罠の中身を確認しに来た様だった。

「・・・ゴメン。お前・・・いや、あなたの持ち物だったんですか・・・。」

 朋彦は痛む体に力を何とか入れて、下敷きにしてしまっていた罠の木箱から体をどかした。

 粗末な造りの木の箱は、朋彦が転がり落ちた時の衝撃であっさりと潰れて壊れてしまっていた。

「・・・あぁ・・・。」

 木箱の罠が壊れていた事と何よりも獲物が中に掛かっていなかった事に、彼はまた大きな溜息をついて項垂れてしまった。

「・・・何か・・・ゴメン・・・。」

 朋彦は彼の曇った表情に申し訳無くなり、また謝った。

「あ、いや! 仕方ねぇよ・・・。それに、命があっただけでも儲け物だよ。」

 彼は朋彦の様子に慌てて人の良さそうな丸顔を大きく横に振った。

「それより立てるか?」

 彼は心配そうに朋彦の怪我をしていないと思われる左腕の方に手を伸ばした。

 朋彦も出血は止まったものの大きく切り傷が出来ていた右腕を庇いながら、彼から差し出される手を左腕でそっと握ったが、腰や足の痛みになかなか立つ事が出来なかった。

「とにかく薬草を採って来るから、ここを動かねぇでくれ。」

 彼は痛みに顔をしかめる朋彦にそう言うと、急いで藪の中へと入っていった。

「・・・まあ、動くなといわれても、そもそも動けないんだけどね・・・。」

 すぐに藪の中に入って姿が見えなくなった彼の方を眺めながら、朋彦は呑気に呟いた。

 見ず知らずの人間にも親切な彼の様子に、朋彦は下心抜きで感謝した。

 何とか蛙人形の力で治療をしたいと思いながらも、体の痛みでなかなか精神集中が出来ないまま朋彦はその場に蹲り続けた。

 余り時間を置かずにまた藪の中から先程の彼が、何かの薬草の束と幾つかの軟らかそうな赤い木の実を片手に戻って来た。

 朋彦が一瞥すると、半ば自動的に知識の参照がまた行なわれ、打ち身と切り傷に効く薬草であると判った。木の実の方は水分が多く含まれており、飲み水代わりに利用されているらしかった。

 当然また頭痛が起こったのだが、打ち身の痛みの方が強く今回は余り頭痛は気にならなかった。

「少し染みるけど我慢してくれよ・・・。」

 彼は朋彦の体に付いた落ち葉や枯葉等をそっと払いのけ、右腕の方に木の実を潰した果汁を振りかけた。

 小さな木の実の割に含まれている果汁は多く、薄く透明な水に近い様な汁が朋彦の左腕の傷口を洗い流していった。

 傷口は染みたが頭痛や体中の打ち身等の痛みに比べれば、今更少々の痛みが増えた所で余り変わりは無かった。

 朋彦の価値観では余り傷口が綺麗になったとは感じられなかったものの、一応は土や血で汚れていた右腕は洗い清められた。

 そうする内にも辺りはどんどんと薄暗くなっていき、手元も少しずつ見えにくくなってきていた。

 彼は慣れた手付きで急いで薬草を手で揉んだ。

 薬草から少しずつ汁が滲み出てくると、彼は朋彦の腕や足等にその汁を丁寧に塗り込んでいった。

 ミントの様な成分が含まれているのか、ひんやりとした感触が朋彦の手足に染み込み、爽やかな香りが辺りに広がった。

「・・・うわっ・・・寒みぃぃ。」

 朋彦は思わず声を上げて体を震わせた。

 打ち身で熱を持っていた体が冷えるのは有り難かったが、夏の終わりとは言え山の中は日が暮れ始めるとどんどんと気温が下がり始めていた。

 このままここで夜を明かすのはまずいと、知識の参照をしなくても判る事だった。

 それは目の前の彼も同じ事を心配していた様で、村から誰か助けを呼ばなければ・・・と独り言を呟いていた。

「やっぱり・・・駄目だ・・・。オレの言う事なんかきっと、取り合ってくれねぇ・・・。」

 少しの間一生懸命に何か考えを巡らせていた様だったが、悲しそうに唇を噛んで俯いてしまった。

 そんな彼の様子に朋彦は首を傾げ、問い掛けてみた。

「何か訳でもあるのか・・・?」

 朋彦の問いに、彼は気まずそうに俯いたまま答えた。

「オレ・・・親無しで村の厄介者だから・・・。皆に食わせてもらってるから。ただ黙って働いてりゃそれでいいって・・・。」

「何だそれ!」

 彼の境遇に同情して朋彦は思わず声を荒げたが、彼はどうやら自分が村に助けも呼びに行けない役立たずだと怒られたと勘違いし、泣き出しそうな表情でますます俯いてしまった。

「あ、いやお前・・・あなたを怒ったんじゃなくて・・・。」

 朋彦が慌てて言葉を掛けようとするが、彼は頭を上げると急いで立ち上がった。

「駄目かも知れねぇけど、村に行って助けを呼んで来る!」

 朋彦が見た地図ではあの小さな村までここから少なくとも四~五キロは離れている筈だった。暗くなり始めた今からどんなに走っても、こんな山の中ではかなりの時間が掛かると思われた。

「あ、いや、ちっょと待って!」

 素人考えでも、幾ら地元の山に慣れているだろう彼でも夜の暗い山道を走るのは危険だと朋彦は思った。

 それに、暗い山の中に一人で取り残される寂しさや怖さもあり、朋彦は慌てて打開策を考え始めた。頭痛や体の痛みを気にしている場合ではなかった。

「でも・・・。」

 彼は戸惑いながら朋彦を見下ろした。

「えーと・・・・あ、そうだ! さっきの薬草、もうちょっと無いかな? もうちょっとだけ。もう暗いし、この近くに無かったら仕方無いけど。」

 朋彦は蛙人形に精神集中する時間を作る為に、適当な用事を彼に言い付ける事にした。

「ああ・・・いいけど・・・。この近くにまだ生えてるから採ってくるよ。」

 朋彦の要求に不思議そうに首をかしげながらも、人の良さそうな彼は言われた通りに先程の薬草を採りに藪の中へと入っていった。

 彼が姿を消すとすぐ、朋彦は急いで懐の道具袋から蛙人形を取り出して握り締めた。

「ええと・・・・・何だっけ・・・。荷物・・・箱・・・寒さよけの布団・・・じゃない、災害用ブランケット・・・!!」

 慌てていたのと頭痛や体の痛みに思考が邪魔されがちだった事もあり、朋彦は完全に蛙人形に念じる事柄の優先順位を間違えてしまっていた。

 まず目の前に実体化したのは時代劇で見掛ける様な、背負い紐の付いた籐編みの行李箱と、その中に入っていたという設定の大判の銀色の災害用ブランケットだった。

「あ・・・治療薬・・・。」

 行李箱とブランケットが出現した後で、肝心の怪我の治療薬や綺麗な水の入ったペットボトルの実体化をすべきだったと今更ながら気付いたが、また激しい頭痛に苛まれるのと同時に、彼が薬草を手に戻って来たのだった。

「大丈夫か・・・?」

 頭痛に頭を押さえている朋彦を心配げに覗き込み、彼は摘んで来た薬草を差し出した。あの果汁の多い木の実も追加で採ってきていた。

「あ・・・。何とか。」

 朋彦は心配させないようにと無理矢理笑顔を作って答えた。 

「あれは・・・?」

 暗くなりかけた中に銀色の光を仄かに反射するブランケットに彼が気付いた。

「あ、ああ。一緒に転がり落ちた荷物の中にあった・・・。」

 朋彦は咄嗟にでまかせを言い、怪我に痛む腕を伸ばしてブランケットを広げた。

 シート状に伸ばした断熱材を包み込むアルミ加工のそれはかなり大きく広がった。これで何とか夏山の冷え込みにも対応出来るだろう。

「すげぇ・・・! オレ、こんなの初めて見た!」

 朋彦がブランケットで体を包み込むのを見ながら、彼は呆然と目を見開いた。

 彼は朋彦の近くにあった行李箱にも気付き、物珍しさに目を輝かせた。

「もしかしてあんた、行商人様か? 」

「・・・え・・・と、ああ!! そうそう。旅の行商人!! ちょっと道に迷ってさ・・・。」

 朋彦は彼の勘違いに乗る事にして適当な思い付きを口にした。

「すげぇなぁ~。オレ、こんな近くで行商人様を見たの初めてだよ!」

 彼の村にもどうやら旅の行商人は時折訪れる様だったが、彼自身は行商から物を買う様な事は無い様だった。

 村の厄介者だからと言う先程の彼の言葉が朋彦の心に引っ掛かったものの、それには一先ず触れない事にした。 

 何かの有名人を見る様なきらきらとした目で見つめてくる彼の様子に、朋彦はくすぐったい様な気持ちを感じたが、自分好みの男子からの賞賛の視線は決して悪くはなかった。

「あ、えーと・・・。」

 朋彦が彼に呼び掛けようとして、そういえばまだ名前を聞いていなかった事に気が付いた。

「ゴメン、そういやまだ名前聞いてなかった。」

 朋彦がごまかす様に笑いを浮かべると、彼も笑い出した。

「そういやそうだったな~。オレの名前はナオヨシって言うんだ。」

「俺は朋彦。――室地朋彦。」

 朋彦がフルネームで自己紹介すると、ナオヨシはますます尊敬の様な目で朋彦を見つめてきた。

「行商人様、苗字があるのか~! すげぇなあ!! 大商人様だ!!」

 ナオヨシの驚く様子に朋彦が知識の参照を行なうと――この世界では大部分の地域で人名は名前のみで、苗字は公家や大名等の支配階級や役人、大商人等の金持ち、或いは何かの功績を立てて帝等から賜った者しか名乗る事は出来なかった。

「えーと・・・取り敢えず、もう日も暮れたし、俺はこのままここで一晩過ごすけど・・・。出来たら一緒に居てくれると有り難いなぁ・・・なんて・・・。」

 しきりに感心を続けるナオヨシへと朋彦は下心半分、夜の山への恐怖感半分で尋ねてみた。

 朋彦の問いにナオヨシは今更の様に笑いながら頷いた。

「いいよ! 心配する親も居ねぇしな! それに怪我人を一人で放っておく訳にもいかねぇし!」

 怪我をしてしまったものの、異世界に来て第一日目でこんな好みの男子に出会えた事に朋彦は内心躍り上がる程に喜んだ。

 こうして朋彦の異世界での初めての日は暮れていった。

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