第19話

 換気扇の下で、メンソールの煙を吐き出した。時刻は二十二時。明かりを消したリビングでは、今日も椿が静かに寝息を立てている。


 ひまわり畑を回ったあとは、三島のこともあって、祭りの会場には長居できなかった。そのかわり、乗り換えの駅にあるショッピングモールで、服屋を見たりカフェに立ち寄ったりしながら、簡単なデートをした。その間の椿は、どこかぎこちないけれども、楽しそうな笑顔だった。



 諦めきれず、その笑顔の中に何度も真由子の面影を探した。

 それでも、彼女の面影は、結局どこにも見つからなかった。

 今朝まではいくらかき消そうとしても、こびりついていたのに。

 ……いや、かき消そうとなんて、もうしていなかったか。


 再び、白い煙が口からこぼれた。


 タバコをもみ消して、リビングへ移動し、椿の寝顔を覗き込んだ。


 やっぱり、真由子には、似ても似つかない。

 何度もまばたきをして、目を擦っても、状況は全く変化しない。


 ……きっと、これでいいんだ。


 顔を上げると、視界の端に骨壺が映った。 


 棚の前まで移動して手を添えると、冷たい感触が伝わった。真由子の手は、温かく柔らかい感触だったはずなのに。


 目を閉じると、彼女の笑顔、怒った顔、泣き顔、愚痴をこぼすときの不服そうな顔が浮かび上がった。まるで目の前にいるかのように、鮮明に。

 そのどれもが、椿とは似ても似つかなかった。


「当たり前だけど、椿は君じゃないんだね」


 目を開くと同時に、自然と言葉が口からこぼれた。当然、返事はない。


 そのかわり、ソファーの方から、衣擦れの音が聞こえた。


「ん……」


 眠たげな声を上げながら、椿がゆっくりと身を起こした。


「ごめん、起こしちゃったかな?」


「いえ……、川上さんのせいじゃ、ないです……。ただ……、なんだか嫌な夢を見ていたみたいので」


「そう」


 昼間にあれだけのことがあったんだから、夢見が悪くなったんだろう。


「上手く寝付けないようなら、ベッドで寝る?」


「いえ、大丈夫で……、あ」


 不意に、眠たげだった目が、大きく見開かれた。


「あ、あの……、川上さんが、そう、おっしゃるのなら……」


 視線が泳いで、声がかすかにうわずっている。これは、確実に勘違いをしているんだろう。


「そんなに、身構えなくても、そういうお誘いじゃないよ」


「そう、ですか……」


「うん。ホッとした?」


「い、いえ! そういうわけではなく……」


「はははは、そんなに取り乱さなくてもいいよ。椿はもともと、私とそういう関係になることを、望んでたわけじゃないんでしょ?」


「……」


 返事のかわりに、長い睫毛が伏せられた。


 少しだけ名残惜しい気もするけれど、当然の答えだ。

 この子が私に求めていたのは、恋人としての愛情なんかじゃない。


「……ごめんなさい」


「べつに、かまわないよ。私だって、結局は椿のことを見ていたわけじゃなかったんだし」


 華奢な肩が、小さく震えた。


「あの、それだと……、恋人関係は……」


「まあ、解消した方が、無難だろうね」


「そう、ですね……」


 椿はタオルケットを握りしめてうな垂れた。

 うな垂れる原因は、一つしかないか。

 それなら、変にこじれる前に、解消をしておこう。


「それで、この先のことだけど、もしも……」


 ――ピンポーン。


 突然、玄関からチャイムの音が鳴った。

 こんな時間に、いったい……?


「お客さん、ですか?」


「いや……、分からないけれど……、ちょっと見てくる。椿はここで待ってて」


「はい……、お気をつけて」


 不安げな声にうなずいて、リビングを後にした。


 玄関に移動してドアスコープを覗いたけれど、見える範囲には誰の姿もなかった。


 ……イタズラ、だったのかな?

 さすがに、こんな夏場に放火ってことはないだろうけれど……、念のため外を見ておこうか。


 扉を開けて外に出ても、焦げ臭さや薬品臭さは感じなかった。

 やっぱり、ただのイタズラか。

 それにしても、今どきピンポンダッシュなんて古風な……



「カワカミぃぃぃっ!!」


「っ!?」



 いきなり何かに突き飛ばされ、背中が床に叩きつけられた。

 ぐらつく視界の中、その何かが身体の上にのしかかってくる。


「全部、あんたたちのせいで……、っ本っ当に、どうしてくれるのよ!?」



 金切り声が耳をつんざく。

 ああ……、この声は三島、か。


 いつもはセンターで分けられている前髪はほつれ……


「あんたが、あんな女を連れてきてくれたおかげで……」


 汗と皮脂で厚塗りのファンデーションが崩れ……


「あの女が悲劇のヒロインぶってくれたおかげで……」


 マスカラと目元のメイクも流れ落ち……


「……彼氏に誤解されて、別れることになったんだから!」


 ……紅の滲んだ口が、わけの分からないことを喚く。


 言動はともかく、身だしなみにはうるさい三島にしては、異様すぎる風貌だ。

 どう考えても、まともに話ができる状況じゃない。


 なんとかして、抜け出さないと……


「ぼさっとしてないで、ちゃんと謝りなさいよ!」


 ――ダンッ。


「がっ!?」


 胸ぐらを掴まれ、後頭部が床に叩きつけられた。


「全部」


 ――ダンッ。


「カワカミが」


 ――ダンッ。


「あんな女に」


 ――ダンッ。


「騙されたのが」


 ――ダンッ。


「いけないんでしょ!」


 ――ダンッ。


 金切り声の叫びと、一段と強い衝撃のあと、ようやく三島の動きが止まった。


 それでも、脈に合わせて後頭部が鈍く痛むし、耳鳴りがうるさいぐらいに響くし、視界は上下左右にぐらついている。


 あー……、抜け出すのは無理っぽいな……。


 ひとまず扉は……、閉まってるか。


 これなら、椿に被害が加わることはないはず。ここ、オートロックだし。


「……どう? 少しは反省する気になった?」


 化粧の崩れた顔が、得意げな笑みを浮かべた。


「ふざけんな……。さっさと……、降りろ」


「わ、こわーい。長年恋してる相手に、そんな言葉使いしないでよ。今どき、そういうのはやらないよ?」


「……は?」


 恋してる……、相手?


「まあ、気を引きたいって気持ちは、分かってあげるけど? だって……」


 本当に……、なんの話……?






「カワカミが本当に好きだったのは私だって、ちゃんと知ってるんだから」





  

 酷い有様の顔の中で深まっていく笑みに、吐き気が込み上げてくるのを感じた。

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