第16話

 彼女が着替え終わるのを待ちながら、換気扇の下でメンソール味の煙を吐き出した。


 今週は久しぶりの出社があったけれども、仕事にトラブルが発生することなく週末を迎えることができた。

 ……発生しなかった、というより、させなかった、といった方が正しいのかもしれない。今回こそは、約束を果たしたかったから。


 仕事以外も、おおむね平穏だった。

 彼女の口数はそれまでどおり少ないままだったけれども、表情の硬さがなくなってきたし、笑顔を見せてくれることも多くなった。


 それに、肩を震わせてうなされていることも、引きつった笑顔で関係を迫ってくることも、今のところない。


 このままの状況が続けば、恋人としてずっと一緒に暮らしていくことも、難しくはないはず。


「川上さん、お待たせしました」


 タバコをもみ消して顔を向けると、この間買ったワンピースを着た彼女が立っていた。いつもは制服や古着ばかりだから、真新しい服を着ているのは新鮮だな。


「あの……、どこか変、ですか?」


「いや、そんなことないよ。すごく、似合ってて、可愛い」


「……ありがとう、ございます」


 ……意外な反応だ。彼女のことだから、あたりまえでしょ、なんてふざけるのかと思ったのに。

 まあ、それでも、頬を染めて頭を下げる仕草も、初々しくて可愛らしいからいいか。


 それに、多少期待と違うところがあったとしても――


「あの、もう一服されますか?」


「……いや、大丈夫だよ。もう出かけようか」


「はい!」


 ――この笑顔は、間違いなく彼女のものだから。





 家出てから約一時間。

 本来なら、あと数分で目的地の最寄り駅に到着するはずだったけれども……。


「……すみません」


「君が謝ることじゃないよ。急な車両点検が原因なんだし」


 タイミングが悪く、三十分ほど乗換駅のベンチで待つことになってしまった。

 ホームからは、田園風景の中にとってつけたように建てられた、巨大なショッピングモールが見える。高校のころと比べて、随分と景色が変わったものだな……。


「でも、私がもっと早く着替えていれば……」


 彼女は表情を堅くし、徐々にうつむいていった。

 

「別に、急ぎの予定じゃないんだし、ゆっくり行けばいいよ」


「そう、ですか」

 

 表情は少し和らいだけれど、顔は下を向いたままだ。

 ……全てを自分のせいにされるような環境に、ずっといたんだ。自責の念が強くなりすぎるのも、仕方がないのかもしれない。


 それでも、彼女は、こんな表情を浮かべるべきじゃない。


「ところで、なんでひまわり畑を選んだの?」


「す、みません」


 彼女は肩を震わせて、詰まった声を出した。

 気を紛らわせるための質問のつもりだったのに、余計に怯えさせてしまったみたいだ。


「ごめん、ごめん。怒っているんじゃないよ、純粋に理由が知りたかっただけで」


「そう、ですか」


 表情から怯えが消えていき、顔がゆっくりと上を向く。


「幼いころから、夏になると、母から話を聞いていたので」


「……お母さん、から?」


「はい。学校の近くにすごく綺麗なひまわり畑があって、毎年夏になるとちょっとしたお祭りも行われると。『ずっと行ってみたかったから、いつか一緒に行こうね』とも、よく言っていました


「……そう」


「ええ。その話をするときだけは、母がなんというか……、幸せそうな表情をしていたのです。なので、いつか行ってみたいと思っていて……」


 そのときだけ、という言葉に胸の奥がじわりと熱くなるのを感じた。

 

 自ら終わりを選んでしまうような生活の中でも、私との約束の話をするときだけは幸せそうにしていたのか。

 それも当然だ。

 あのときの私は、彼女を心から愛していたんだから。

 少なくとも、あの男よりはずっと。

 だから、またこうして一緒に……。


「あの……、川上、さん?」


「……ごめん、暑さでちょっとぼーっとしてた」


「え? 大丈夫、ですか?」

 

「うん、大丈夫。それで……、話をするだけで、祭りには結局行ったことがなかったの?」


「はい。私が勉強以外のことをするのを、祖父と祖母はすごく嫌がりましたから」


 再び彼女の表情が強張り、肩が小さく震えだした。


「この間の映画や買い物も、もしも二人にバレてしまったら、どんなに叱られるか……」


 華奢な手が膝の上で、指先が真っ白になるほど強く握られている。

 彼女が責められる理由なんて、どこにもないのに。


「……?」


「別に、馬鹿正直に話さなければいいだけのことだよ」


 手が自然と動き、うな垂れた頭をなでていた。


「……日頃の勉強の様子を見る限り君は優秀なんだから、とやかく言う方がどうかしてるんだよ」


「でも……」


「恋人になった以上、そういうヤツらのところに、君を返すつもりはないから」


「……」


 堅く握られていた手が、ゆっくりと解けていく。


「……ありがとうございます」


 こちらを向いた顔には、穏やかな表情が浮かんでいた。


「間もなく、二番線に下り電車が参ります」


 ホームにアナウンスが響き、銀色の車体に水色のラインが入った、短い列車が迫ってくる。


「じゃあ、行こうか」


「はい」


 ベンチから立ち上がると同時に、列車は到着した。

 あと少しで、彼女との思い出を明るい色に塗り替えることができるんだ。

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