第13話
換気扇の下で、メンソールの煙を吐き出した。今日はやけに疲れた気がする。
あの男から電話がきた以外は、業務もそれ以外も、とくに問題は起こらなかったはずなのに。
椿と二人して無言で昼食をとり、午後になったらそれぞれ仕事と勉強に戻り、夕食はまた二人して無言で食べる。まったくもって、いつもどおりな一日。
……椿が終始無言だったのにも、無表情だったのにも、なにも問題なんてない。
私たちは無理にでも会話の糸口を探したり、愛想笑いを浮かべたりしなきゃいけない関係じゃないんだから。
それなのに、ぼんやりとした居心地の悪さが、一日中つきまとっていた……。
「……うん」
不意に、灯りの消えたリビングから、うなされているような声が聞こえた。顔を向けると、寝返りを打った椿の表情が見えた。眉を寄せて、口の端を下げている。
ひょっとしたら、悪夢でも見ているのかもしれない。
あの男からの電話に、突然やってきたという三島……、椿にとって夢見が悪くなるようなことが、立て続けに起きたんだから。
川上さんには、関係のないことでしょうから。
……あいつらだけが原因じゃないか。
タバコを消して換気扇を止め、ソファーに向かった。椿は相変わらず、苦しそうな表情を浮かべている。
手を伸ばして頭を撫でると、かすかに肩が震えた。それでも、目を覚ます気配はない。
撫で続けていると、苦しげな表情は消えていった。
「お休みなさい、せめていい夢を」
「……」
返事の代わりに、静かな寝息が返ってくる。これなら、もう大丈夫だろう。
それから、ずれていた毛布を直して、リビングを後にした。手には冷たくなめらかな髪の感触が残っている。何気なく手のひらを見つめてみると、ほのかに甘い香りが漂った。
……もう、眠ってしまおう。
寝室に戻ると、苦い匂いがいやに鼻をついた。今日は少し、吸いすぎたかもしれない。明日は本数を控えることにしよう。さすがに、今日みたいなことはそうそう起こらないはずだから。
ベッドに倒れ込むと、自然とまぶたが閉じた。そこには、誰の姿も浮かばない。まあ、今日は彼女の笑顔が見られなかったから、当然か。
昨日は、笑顔を見る機会が増えるかもしれない、なんて考えていたのに。
……くだらないことを考えるのはやめよう。
無関係だと言い切ったくせに、笑顔を見たいだなんて都合が良すぎる。
椿はただの一時的な同居人。
夏が終わればここを出ていく。
それ以上の関係を持つつもりはない。
今までも、この先も、ずっと……
「……ん」
……誰かの声が聞こえる。
「……さん」
ああ、真由子が呼んでるのか。
「カワカミさん」
……なんで、そんな他人行儀な呼び方をするの?
いつもみたいに、名前で呼んで。
「川上さん」
「……」
息苦しさに目を開くと、悲しげな彼女の顔があった。
……あれ?
でも、もう、君は……。
「……っ!?」
そこにあったのは、椿の顔だった。
いつのまにか寝室に入り込み、私に跨がっている。
パジャマの上着だけを羽織った姿で。
……悪夢を見て怖くなったから一緒に寝てほしい、というわけじゃなさそうだ。
「……椿、なんのつもり?」
「……ひとつ、聞きたいことがあります」
「……なに?」
「……」
常夜灯の光でオレンジ色に染まった手が、首筋にそっと触れた。
朝と同じように、恐ろしく冷たい。
「川上さんと、私の間に……、明確な関係、さえあれば……、ここにいてもいい、です、か?」
震える声とともに、冷たい指が首筋を撫でる。
「……明確な関係って?」
「……」
答えはなく、冷たい指が首筋を這い続ける。
次第に指は頬に這い上がり、唇を何度かなぞって動きを止めた。
「……そうまでして、家に戻りたくないの?」
「……」
無言のまま彼女はうなずき、私の手に腕を伸ばした。
そのまま、手は持ち上げられ、顔を寄せて息を吹きかけられる。
「そのためなら、なんだってします。だから……」
言葉はそこで止まり、薄い唇が開いて長めの舌が、ゆっくりと姿を現す。
まるで、見せつけるように。
舌はそのまま、手のひらに這わされた。
「……っやめ、なさい」
「……」
彼女は無言で、こちらに視線を落とす。それでも、舌の動きは止まらず、手のひらを上下に往復する。
何度も。
何度も。
生暖かくぬるついた感触と、媚びた目つきが、徐々に理性を蝕んでいく。
「やめ、なさい……」
「……」
制止は聞き入れられず、舌は動き続ける。形や動きを変えながら、ずっと。
手のひらから、甘い疼きが全身に広がっていく。
「本っ……、当に……、もう、やめ……」
「……」
何度目かの哀願で、ようやく舌の動きが止まった。それでも、手は未だに掴まれたままだ。
この手を振り払うことは、そんなに難しくないだろう。
それでも、もしも、振り払ったら彼女は――
「頼れる人は、貴女しかいないんです……」
――私以外の誰かに、同じことをするんだろうか。
「だから、お願いです。どうか……っ!?」
腕を掴み返して引き寄せると、彼女は目を見開いた。そのまま身体を反転させて、ベッドに薄い肩を押しつける。
「川上、さん……っ」
オレンジ色に染まった頬はなめらかで、恐ろしく冷たい。
「あ、あの……、っん」
重ねた唇も柔らかく冷たかったけれど、舌でなぞる口内は温かい。
「……っ」
舌を擦り合わせれば、薄い肩が軽く跳ねる。
「……」
唇を離すと、彼女は呆然とした表情で、乱れた呼吸を繰り返した。
「……これでも、ここにいたい?」
「……はい」
頬に触れていた手に手を重ね、彼女は微笑んだ。
媚びを含んだ目と、引きつった口元を歪ませて。
「私にはもう、貴女しかいませんから」
「……そう」
あの男の目に映った彼女も、こんな表情をしていたのかもしれない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます