第9話

 店を出て空を見上げると、家を出たときよりも晴れ間が増えていた。そろそろ、本格的に夏らしい天気になるのかもしれない。ここのところ湿っぽい天気ばかりだったから、助かるな。



 それでも――


「……」


 ――持ち手の破れた紙袋を抱えて歩く椿の表情のせいで、気分は晴れない。



「……さっきは、ごめん」


「……いえ、川上さんのせいではありませんから」


「そう……」


 そうだとしても、三島の暴走を止められなかったことは事実だ。腐れ縁だとしても、友人なんだからもう少しフォローできれば……。


「私の方こそ、もうしわけありません……」


「え……? なんで、椿が謝るの?」


「先ほどの三島さんのお話だと、母は貴女に不快な思いをさせてしまったのですよね?」


「まあ……、色々あったのは確かだけれど……」


 たしかに、真由子との別れは、綺麗とはいえないようなものだった。それでも……。


「……別に、悪いことばかりじゃなかったから」


「そう、ですか……」


「うん。一緒に出かけたり、とりとめもない話を何時間もしたり……」


 そのたびに、彼女はとても愛らしい笑顔を浮かべていた。私にとって、そんな時間は……。


「……わりと、幸せだったんだと思うよ」


「そうですか……。あの、それなら……」


 気がつくと、椿がこちらに顔を向けていた。

 それでも、すぐに視線を反らして、再びうつむいてしまった。


「……いえ、やっぱり、いいです」


「そう言われて『はい、そうですか』と答えられる人間は、そうそういないと思うよ」


「そう、ですよね……、なら……」


 形の良い唇が、かすかに動かされる。それでも、意味のある言葉はなかなか出てこない。

 まあ、何を聞きたいかなんて、分かりきっているんだけれども。


「なんで真由子……、いや、君のお母さんと別れたか、っていうことが聞きたいんでしょ?」


「……はい」


「わりとよくある話だけれど、いい?」


「……かまいません」


「そう。まあ、端的に言うと、高校二年の時に君のお父さんが担任になって、真由子が心変わりをして、最終的にそっちと結婚することになった。それで、私たちの関係は終わった」


 言葉にしてみると、たったそれだけの話だ。



 それなのに――



 二人しかいない教室。

 窓の外の激しい雷雨。

 泣きじゃくる彼女。

 私に対する罵声。

 そして、告げられた妊娠。



 ――思い出すだけで、吐き気がこみ上げてくる。

 


「……すみません、でした」


 不意に、か細い声が耳に入った。

 気がつけば、椿がいつもにも増して暗い表情を浮かべている。


「つまり、私のせいで……、川上さんの幸せな時間を壊してしまったんですよね」


「……」


 ……妊娠が発覚したから、彼女はあの男と結婚をせざるを得なかった。

 それは、変えることのできない事実だ。

 だからといって……。


「別に、そのことを君が気にする必要はないと思うよ」


「……え」


 長い睫毛の大きな目が軽く見開かれ、淡い色をした唇から小さな声が漏れる。


「……でも、川上さんも、私さえいなければと思ったんですよね?」


 ……川上さん、「も」、か。


「……当時はそんなことまで、考える余裕はなかったよ」


「でも、母が私を妊娠したから……、そうじゃなければ……」


「まあ、君の両親に対しては多少……、どころじゃなく、思うところはあるけれどね。でも、生まれてきた子供が罪だの責任だのを負わなきゃいけない、ってわけじゃないでしょ」


「……そう、ですか」


 返事の声色が、ほんの少しだけ明るくなった。


 ……正直なところ、全く思うところがない、というわけにはいかない。

 妊娠さえなければ、彼女とやり直すことができたかもしれない。

 そんなことを考え続けた時期も、たしかにあった。


 それでも、ここに来る前に周囲から同じようなことを散々追及されてきたことは、想像に難くない。それなら、私がさらにとやかくいう話でもないだろう。



 それに、今さら誰かを追及したところで、彼女はもう……。



「……川上さん、今日は夕食に何を食べたいですか?」


「え? ゆ、夕食?」



 突然の脈絡のない質問に、思わず声が裏返った。

 いつの間にか、椿はこちらに顔を向けて、首を傾げていた。無表情ではあるけれども、暗さはもう感じられない。



「先ほどのお礼に、今日は川上さんの好きなものを作ろうと思ったので」


 お礼、というのは服に対してなのか、さっきの言葉に対してなのか……、いや、どちらでもそう変わらないか。彼女の、気休め程度にはなったようだし。


「そうだね……、なにかパスタ系統のもの食べたいかな」


「かしこまりました」


「あ、でも、激辛アラビアータとか、激甘小倉クリームパスタとかは勘弁してね」


「ふふふふ、そんなことはしませんよ」


 目の前の顔がほころんでいく。


 ……良かった。

 今日はもう、彼女の笑顔は見られないと思っていた。



「それでは、帰り道に食材を買いにいってもいいですか?」


「ああ、そうしようか」



 いつのまにか、辺りには雲一つない青空が広がっていた。

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