第4話
椿がここにやってきてから、一週間が過ぎた。
椿はほとんどの時間をリビングで勉強をしながら過ごしている。それ以外の時間も、置いてくれるお礼、と言って家事や買い物をしていたため、当初の忠告通り仕事の邪魔になるということはなかった。
今日も椿は、スマートフォンを意味もなくいじる私の向かいで、制服に身を包んで表情を変えることなく勉強を続けている。
自分から言い出したことだけれど、真由子の娘が同じ家の中にいることに、多少は緊張を感じた。
それでも、時間が経つにつれて、その緊張も段々と薄れていった。ただし、慣れただけで、心が通い始めたというわけじゃないんだろう。
食事のときに簡単な会話はするようになった他は、簡単な挨拶くらいしか交わしていないんだから。
ため息を吐いてスマートフォンから目を離すと、骨壺が目に入った。
そういえば、真由子とは夏休みの間、宿題やアルバイトの合間を縫ってよく出かけていたな。そのたびに、真由子は終始楽しそうな笑顔を浮かべていたっけ……。
骨壺から目を反らすと、無表情に勉強を続ける椿の姿が目に入った。
あまり環境のよくない家から離れることで、笑顔がふえるんじゃないか、なんてことも思った。でも、思惑は外れた。三島がやってきた日以降は、笑顔を浮かべるどころか、表情が変わるすらめったにない。
できれば、また、彼女の笑顔を見たいのに。
――ブーッ
突然、手にしていたスマートフォンが震えた。
画面を見ると、三島からメッセージが届いている。
「カワカミ、これから映画でもいかない? どうせひまでしょ?」
……本当に、三島は余計な一言が多い。
まあ、たしかにメッセージのとおり、今日の予定はなにもない。
それでも……。
「……なにか?」
視線に気づいたのか、椿がノートから顔を上げた。
「……映画でも観にいかない?」
口をついて出た言葉に、椿は軽く眉を動かした。多分、驚いているんだろう。
「なぜ、ですか?」
怪訝そうな表情を浮かべたまま、短く問い返される。
まあ、困惑するのも当然だろう。口にした本人ですら、なぜこんなことを言ってしまったのか分からないんだから。
「折角の夏休みだし、たまには息抜きをした方が勉強の効率も上がるかと思ったから」
「……分かりました。それでは、今から着替えてきます」
椿はそう言うと、勉強道具を片付けて立ち上がった。そして、こちらには目もくれず、リビングを出ていった。
わざわざ着替える必要なんて……、いや、制服姿のままよりは着替えてくれた方がありがたいか。へんなトラブルが起きても嫌だし。
それに、あの服を着た彼女の姿をまた見られるかもしれないし。
それから、三島には「予定があるから」とだけ返信して、真由子の服に着替えた椿と家を出た。
「空、曇ってますね」
「そうだね。でも、このくらいなら雨は降らないと思うよ」
「そうですか」
そんな短い会話を交わしたあとは、薄灰色の空の下を二人して黙々と歩いた。
十分ほどすると、駅ビルに入ったシネマコンプレックスまで辿り着いた。特になにを観るかは決めていないから……、上映時間の近い作品を適当に選ぼうか。
「これ、どんなお話なんでしょうか?」
「さあね。でも、人気作って宣伝文句が書いてあるから、面白いんじゃないかな」
「そうですか」
短い会話を交わすうちに、ちょうど入場開始時間になった。
映画は、ハッピーエンドのラブストーリーだった。
後味が悪い映画じゃなくて、本当によかった。
これなら、きっと、彼女も――
「どうか、しましたか?」
「……いや、ちょっとタバコが吸いたくなってね。喫茶店にいってもいい?」
「分かりました、大丈夫です」
「ありがとう」
――ひとまず、一服して落ち着こう。
その後、二人して近くの喫茶店へ移動した。
喫煙室のガラス窓からは、色褪せたパーカーとスカート姿の椿が、無表情に紅茶を飲んでいるのが見える。
……真由子とのはじめてのデートも、映画だった。
当時話題になっていた映画を観にいくことにしたけれど、予想外に完全なハッピーエンドじゃなかった。たしか、世界は救われるけれど、主人公とヒロインが結ばれないようなSF映画だったっけか……。
映画の結末を思い出していると、口から僅かにタール臭が強い煙がこぼれた。
……タバコも短くなったことだし、今日の映画はどうだったのか彼女に聞いてみることにしよう。
喫煙室を出ると、彼女はこちらに顔を向け、軽く頭を下げた。会釈を返し、彼女の待つ席へと戻る。
「今日の映画、面白かった?」
「はい、とても、いい作品だと思いました」
彼女は軽く頷き、笑顔を浮かべた。
「私、ハッピーエンドの作品が好きなので……、今日は連れてきてくださって、本当にありがとうございました」
「それはどうも」
予想通りの感想で、ホッとした。
映画のエンディングのせいで、初デートの帰りには気まずい空気になった。
それでも、今日の映画で、そんな失敗も挽回できたはず――
「あの、川上さん、どうしましたか?」
――不意に聞こえた椿の声に、我に返った。
目の前にいたのは、色褪せたパーカーを着た椿だった。
「……いや、なんでもないよ。それより、昼食がまだだったから、ここでなにか食べていこうか」
「あ、はい、そうですね」
椿は戸惑った表情を浮かべながらも、それ以上追及することなく、テーブルに置かれた小さなメニュー表に目を移した。
それから、二人分の軽食を追加で注文し、また喫煙室に戻った。ガラス窓の向こうには、再び無表情に紅茶を飲む椿の姿が見える。
少し湿気った煙とともに、真由子との初デートの記憶が、また蘇ってくる。
映画の帰りに立ち寄ったファストフード店で、彼女はハッピーエンドの作品が好きだと言っていた。
それなら、彼女の人生は、彼女の好みじゃなかったんだろう。
考えても仕方がない言葉が、頭に浮かぶ。
ため息とともに、僅かにタール臭が強い煙を吐き出したけれど、頭の中の言葉は消えてくれなかった。
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