墓を背負う群れ

ひつじまぶし

墓を背負う群れ


 葬儀とは文化の集大成である。


 そも、死者を想うというのは人間の特権ではない。

 知性の高い動物や群れで生きる動物は仲間の死に対して抑鬱状態を示すケースが確認されている。


 そしてその対応は多岐にわたる。

 死体を埋めようとする者。

 死体を生きているかのように扱う者。

 ただ寄り添い続ける者。

 ひとしきり悲しんだ後食べる者。

 動物達の死者への対応は、種類によって様相を呈するが、死者を悲しむという点では共通する。


 このことから、死者を弔う行為はある意味本能的であると言える。



 知性が高く、社会性を持つ人間もその例に漏れず死者を想う性質を持つ。

 けれど、死者を弔う行為には些か他の動物と違う点がある。


 方法が余りにも多いのだ。


 葬儀にはその地域の様々な面が表れる。

 刺繍や彫刻からは細工技術が。

 埋葬場所には地形が。

 死体の処理には化学力が。

 そして、死体の扱いには死生観と宗教観が、それぞれ表れる。


 このように葬儀はその地域を写すのような存在なのだ。


 であればこの葬儀には、一体何が写されているのだろうか。






 遠くで、乾燥した大陸風を、赤茶の剣山が引き裂いている。

 岩山には幾らかの岩草が生えるばかりで、高地のきつい日光が赤茶の岩肌を照らす。


 そんな岩山に黒い点が見える。

 山羊だ。

 といっても家畜化されたものではなく山岳に対応した野生の山羊だ。

 彼らは壁としか思えない岩肌を登って、岩草を喰んでいる。

 乾燥地ではこの草も貴重な食料なのだろう。


 山羊の上空から、一筋の黒線描いて急降下してくる。

 鷲だ。

 鷲は山羊の頭を掴むと谷底まで降下していく。

 当然山羊もこれに抵抗し、二者は岩肌を転がるようにして下っていく。

 そのまま谷底に消えていくのを、一人の男がじっと眺めていた。


 男は東の果てからの流れてきた。

 流れに身を任せ、大陸奥地山脈地帯のこの村にやって来た。


 人口2、3百人の村での生活は非常に質素だ。

 周囲を乾燥した岩山に囲われたこの土地では家を建てる土地すら余りない。

 その為村人の生活は交易と狩猟に頼っている。


 今は村の顔役の家に住まわせてもらっている。

 余裕もないであろうこの村だが、旅のものであるこの男を温かく迎えてくれた。

 旅人が珍しいのか、貴重な労働力なのか、はたまた純然な善意か。

 理由はわからないが、男はそれに甘えさせてもらっている。


 そんな村での生活を過ごしたある日、一人の老人が亡くなった。

 彼は老衰で、村のものに見守られながら安らかに亡くなったらしい。

 時々老人と話し相手になっていた男も、それを聞き幾らか気分が沈んだ。

 知り合いの死は、いつまで経っても慣れないものだ。


 そんな老人の葬儀が行われることとなり、男も参加することとなった。


 「部外者である自分が混じっては悪い。」と男は遠慮したが、

 「いえ貴方も一時ではありますが彼と言葉を交わした仲。きっと彼も喜びます。それに、貴方だからこそ参加して欲しいのです。」と村の顔役が言う。

 これを断る理由もなく男は了承した。


 ただ一つ気がかりに思った。

 「それに、貴方だからこそ参加して欲しいのです。」

 この言葉には一体どんな意味があるのだろう──。


 




 村の広場では葬儀のため村中の人々が集まっていた。

 何故か顔役を始める幾人かの姿が見えないが、皆悲しんでいる。

 老人は皆から愛されていたから、悲しみもひと塩だろう。


 しばらくすると棺が運ばれてくる。

 黄色い布に包まれた簡素な木製の棺が広場の中央へと移される。

 中央には薪が積み重なっている。


 「なるほど火葬だったか。」

 男は納得した。

 墓を立てる場所などないこの土地で死体をどう埋めるのか疑問だったが、火葬なら成る程一壺在れば事足りる。この土地にあった葬送だろう。

 

 男がそう考えているうちに、棺は薪の上に安置される。

 そこへ薪を持った女性が近づいてくる。確か老人の娘だったはず。

 彼女は啜り泣きながらも優しげな笑みで何か棺に語りかけている。

 その後、手拭い程度の赤い布を棺に被せると、薪に火をつけた。


 薪に灯された火は、瞬く間に広がって棺を包んだ。

 一段と大きくなった女性の泣き声が聞こえる。堰き止めていた何かが切れたのだろう。傍では彼女の旦那が肩を抱いていた。

 そうしている間にも、パチパチと音を鳴らしながら焚き火は燃え続ける。


 荼毘の焔が広場を照らしていた。

 しばらくすると、まだ火葬は途中にも関わらず、村人はゾロゾロと広場を後にする。

 葬式が終わったのかと思ったが、そうではないらしい。

 薪をくべる係を残して、村人たちは村の裏手にある山道に向かっている。

 男もそれを追いかける。






 村の裏手では、数人の男が大きな生き物を押さえつけていた。

 男たちは葬儀に参加していなかった顔役たちだ。

 彼らは荒縄を使いその生き物を縛っていた。


 その生き物は、四つ足の巨獣だった。

 皮膚は象のようにザラザラで分厚く、黒みがかっていた。

 大きさは男の背丈を二回り越すほどで、丈夫そうな太い四つ足が力強く大地を捉えている。

 そして太く逞しい首に支えられた頭部は、牛のようにも犀のようにも山羊のようにも見える。

 瞳には温厚そうな色合いが浮かんでいる。

 何にしろ、見たことも聞いたこともない珍妙な生き物だった。


 そんな生き物の背に数名の村人が何やら取り付けている。

 かなり大きな石製の何かだが、ここからではよく見えない。

 しばらくしてそれも終わったのか、村人たちが離れていき、代わりに広場で咽び泣いていた女性が巨獣に近づいていく。

 彼女は獣に何か話しかけると赤い布を取り出して背中の何かに取り付ける。

 その後、彼女は巨獣に大量の岩草を食べさせた後、巨獣から距離をとった。



 村人全員が巨獣から距離を取ると、顔役が巨獣を縛っていた縄を解いた。

 解放された巨獣はゆっくりとその巨体を立ち上げる。

 その背中には、大きなが乗せられていた。


 あまりの光景に目を丸くしていると、巨獣はぐぐぐっと背伸びをする。

 その後、ドシン、ドシンと足音を鳴らして山道に消えていった。


 それを見送るように村人たちは山道を見つめている。

 彼らの目は山道を見つめているようだが、ずっと遠くを見つめているようにも見える。

 村人たちはそうやって、静かに山道を眺めていた。


 しばらくすると子供の騒ぐ声が聞こえる。

 どうやら葬式に飽きたらしい。

 子供たちは山道の草を投げつけ合ったり、追いかけっこして回っている。

 その声に緊張を解かれたのか、村人たちは次第に村へと帰っていく。

 どうやら葬儀はこれで終わりらしい。


 日が暮れて、空が深い青へと染まっていく。

 山道には顔役と東洋から来た男だけが残っていた。


「お疲れ様です。

 本来なら私が案内すべきでしたが、ケィリを捕まえる役割がありましたので。

 貴方にはご迷惑をお掛けいたしました。」


「ケィリというのは?」


「あの生き物のことです。

 普段はこの山岳地帯を群で歩き回っているのですが、葬儀の際はそのうちの一匹を捕まえて墓石を乗せるんです。」


「何でそんな面倒なことを?

 いくら土地がないからってわざわざ墓石を括り付ける必要があったんで?」


「そうですねぇ、昔は墓石なんて積んでいなかったそうです。

 死体を赤い布と一緒に燃やすのは一緒だったのですが、ケィリに墓石などのせず、赤い布を括り付けるだけだったらしいです。


 その後山の向こうから宗教が入ってきました。

 その宗教では死後の魂はは墓に宿るとされていました。

 けれど困ったことに我々に墓を立てる文化はありませんでしたし、そんな土地はありません。困った末にご先祖さまはケィリに墓石を乗せることにしました。


 幸い、ケィリは非常に温厚かつ力強い生き物です

 争いは好まず人にも攻撃しませんが、その力は巨石を押しのけるほどです。


 なので宗教がの方式に沿った墓石を乗っけたとしても、彼らには何の支障もありませんでした。」


 そうしてこの文化が形成されたんです、と顔役は語った。


「なるほどなぁ」と男は感心した声を上げた。

 これで納得がいった。

 成る程、そんな経緯で墓石を乗せているのかという納得。


 それに……。

 葬儀の前に顔役は「それに、貴方だからこそ参加して欲しいのです。」と語っていたが、どうやらそういう事らしい。

 彼らにとって外来から来て去って行く旅人というのは、カタチは違えどケィリと同じなのだろう。

 つまり、彼らの死を、背負って欲しいということ。

 なんとも重たい話だが、それが彼らの文化というのなら受け入れよう。

 今更多少増えたところで、たいして変わりもないのだから。



「さあ、もう夜になります。

 山間の夜風は厳しいですから早く家に帰りましょう。」

 

 顔役はそう言って歩き出した。


「そうだな、今日は一段と寒い。」


「確か今日の晩はウサギの乳煮込みだったはずです。

 寒い今日にはぴったりですね。」


「おっそれは重畳。女君の料理は絶品だから今日も楽しみだ。」


「そう言って下さいますと妻も喜びます。」

 

 そう雑談を交わしながら二人の人間が村へと向かっている。

 高山の澄んだ寒空には、一番星が輝き出した。






「今まで大変お世話になりました。」


 葬儀からしばらくはこの村に滞在させてもらった。

 だがそろそろここも立たねばなるまい。

 ここは目的地ではなさそうだから。


 旅立ちには村中の人が集まってくれた。


 共に力仕事や仮に出た男連中は激励の言葉と共に肩を叩いてくる。

「頑張れよ」「もうちょいココに残れよ!」「山道で鷲に食われんなよ」「次こそ弓勝負勝ってみせるからな!」

 色々な言葉を受け取った。

 激励の言葉は嬉しいがもう少し肩を叩く力を落としてくれると助かる。


 料理作りを教えてくれた女衆からは心配のともに別れの言葉を受け取った。

「もう少し残っていかないかい?」「辛みから順に入れるんだよ」「まだ聞いてないお話が」「鍋の手入れ忘れるんじゃないよ」「あの、私貴方のことが」

 こちらも色々だ。

 どれも大変嬉しい言葉だったが、村の若い娘から泣きながら別れを惜しむ言葉を受け取ったのは困った。

 彼女を悲しませたこともそうだが、周りの若い男連中の目が怖かった。

 彼女の後から来た男たちは、一段と強い力で肩を叩いてくる。痛い。


 ちょくちょく遊んでやったり旅の話を聴かせていたガキどもは足元で騒いでいる。

「にいちゃんどっか行くん?」「でっかいウンコ見つけたからお別れにやるよ!」「行っちゃやだ!」「まだお話聞きたい!」「僕も連れてけ!」「私もついてく!」「俺もあんちゃんみたいな男になる!」「にいちゃんトイレ」

 この期に及んでまだ世話してもらうとしている奴もいるが、こう慕ってもらうのは嬉しい限りだ。

 出来れば餞別代わりに鼻水を付けていくのをやめて欲しいものだが。


 最後に俺を世話してくれた顔役夫婦がやってくる。


 奥さんは目に涙を浮かべながら「まだ村に残ってくれてもいいのよ?あなたならこの家を継がせたって構わないんだから。」と別れを惜しんでくれた。

 こう改まって言われると、こちらも込み上げてくるものがある。

 けれど、ここで止まるわけにはいかないのだ。


「もう行くんですね。

 なんだか長かったような短かったような不思議な感じです。」


 顔役がそう声をかけてくる。


「大変お世話になりました。

 ですが、これ以上ご厄介になるわけにもいきませんから。」


「いえ、私どもとしてはいつまで居てくださっても構いませんよ。

 それこそ、妻の言う通り我が家を継いでもいい。


 けれど、あなたには旅を急ぐ訳があるのでしょう。

 ならば止めることなど出来るはずもありません。」


 この村での生活を通して、顔役はなにかを察しているようだ。


「お気遣いありがとうございます。

 お察しの通り未だ止まるわけにはいかないのです。


 なので、これでお別れです。」


「そうですよね、」


 それではこれを、と顔役は赤い布切れを渡してきた。


「これは、葬儀の時の……」


「はいそうです。

 あの場では話しそびれましたが、この赤い布には二つ意味があるのです。」


「二つ?」


「はい、一つは死者がケィリに乗って世界を見て回るためです。

 この村で生まれたら、貿易で外に出ることはあるけれど、ほとんど村の中だけでしか暮らせない。

 外の世界を知ることがないのです。

 だから、死後の世界だけでもケィリに乗って世界を見てまわって欲しいと言う願いが込められているんだ。」


 これは男の想定通りだった。

 墓石と同じような存在なのだろう。

 つまり、これを持って旅をすることが使者への手向けになるとらしい。


 死者を背負って行けということか。

 男は心の中でそう呟いた。


「そしてもう一つは持ち手を守るためです。」


「守る」


「はい、赤い布は死者、ケィリ、遺族の三人に渡されます。

 赤い布はその三者を繋ぐ役割があるのですが、死者の布は火葬で燃やされるので残るのはケィリと遺族の二枚だけです。

 

 ケィリに括り付けられた赤い布の役割が一つ目の理由に当たります。


 そして、遺族に渡された赤い布の役割こそが二つ目の理由です。


 赤い布は死者にとってのの役割を担うと考えられています。

 だから遺族に渡された布を通して、死者は子孫たちを見守っていると考えられているのです。」

 

「そう、だったんですか」


「はい。


 だから、死者を背負って行けと言うことではないんですよ。」


 顔役は快活に笑いながらそう言った。

 どうやら見透かされていたらしい。


「この布は旅立つものへの選別です。

 

 我々の分まで世界を見て回って欲しいという願いと、

 世界のどこにいても我々が見守っているよという思いが込められています。」


 「だから、どうぞコレを受け取ってください。」と再度赤い布を薦めてくる。


 男は幾らかの恥ずかしさとともに、温かいものを感じた。

 葬儀以来男の心の奥底には暗いものを抱えていた。


 目を瞑ると、重そうな墓石を背負った巨獣の姿が目に浮かぶ。

 あんな重そうなものを背負わされ、険しい山道を歩く巨獣の姿に、自分の姿を重ねてしまう。

 巨獣は死ぬまでその重荷を背負うのだろうか。

 そう言った考えが頭をよぎった。


 そんな姿を村の人々が自分に願っているのではないかと思うと心の温度が下がっていくようだった。


 けれど、顔役はそんな心の底を見透かし、違うと否定してくれた。

 心だけでも共に旅をしたいと言ってくれた。


 ネガティブな考えになっていた自分を見透かされてて些か恥ずかしかった反面、そう言った心遣いを嬉しく感じる。

 心の底に温かさが揺蕩った。

 

「はい、ありがたく受け取らせていただきます。」


 そう言って男は赤い布を腕に括り付ける。


「では、そろそろですね。

 あなたの幸福が、この先にあることを祈っています。」


 そう言って顔役は片手を差し出してくる。


「はい、ありがとうございます。

 そちらこそ遠く彼方から皆さんの無事を祈っています。」


 そう言って顔役の手を取り、固く握手する。


「では、行ってきます」


「はい、行ってらっしゃい」


 握手を解いて、彼は山道へと振り返る。

 その瞳には、先程あった陰りは消え、爛々とした輝いていた。

 時々こちらに振り返って手を振りながらも、その姿は山道の向こうへと進んでいく。

 そんな彼の姿が見えなくなるまで、村人たちはいつまでも見送っていた。






「行ってしまいましたね」


「えぇ。もう少し居てくれてもよかったのに。」


「いや彼にはまだやる事があるのだろう。

 でなければ、たった一人で東の果てから旅を続けていないでしょう。


 それにあの若さで心の奥底になにか大きなものを抱えているようだし。

 少しでも、その重荷を軽くしてあげられたらよかったんだけどね。」


 顔役はそう呟いた。


 

 顔役は男に初めて会った時、素性の分からないその男を警戒していた。

 行商人とは思えない異国風の若い男が、突然やってきたのだから無理はない。

 それに若い年齢に不釣り合い程の尋常ではない重責を抱えているようで、それが得体の知れなさを加速させていた。


 けれど旅人は魂を運ぶとされる伝承から、この地では旅人を尊重している。

 そのため無碍にするわけにもいかず、ならばと自身の家に泊まらせた。


 するとどうだろう。

 男は人一倍働くし、狩りも力仕事も男連中の倍働く。

 されど家事作業だって積極的に行い、調理方法を真剣に聞くその姿勢が女連中の心を掴み、子供たちもなにに惹かれたのか彼によく懐いた。


 そんな彼と寝食を共にするうちに、顔役は彼をこころよく思いだしていた。

 「どうにか彼の重責を減らせないだろうか?」と考えるのは時間の問題だった。


 そんな中起こったのが長老の訃報だ。


 慣例に従えば、葬儀に参加できるのは村人だけだ。

 なぜなら外来の者はあくまで死者の魂を運ぶもの。

 他所から来た嫁や婿でさえ、子を成すまでは参加を許されない。


 だからこそ顔役は男を葬儀に呼んだのだ。


 男は「部外者である自分が混じっては悪い。」と言った。おそらく村人からこの風習を聞いていたのだろう。

 けれど顔役はそれを否定した。

 あなたはもう部外者ではなく家族のようなものだと。

 家族の前なのだから少しは重荷を下ろしてもバチは当たらないと、そう言いたかったのだ。


 だが結果としてその目論見は失敗したようだ。


「重荷を背負っているものにケィリの姿を見せるなんて、私はなんて浅慮だったんだ。」


 顔役は深夜、一人顔を覆いながらそう呟いた。


 たしかにケィリは重い墓石を背負わされている。

 けれど所詮乗っけているだけで、運が悪く無ければそのうち墓石を落っことして自由になる。

 その頃には我々が拘束できるような大きさではなくなるので、また墓石を背負わされることはない。


 だがそんなこと、部外者ではある彼が知るはずもない。

 だからこそ、墓石を背負うケィリの姿を自身に投影してしまったのだ。


 ではケィリが墓石を背負い続ける訳ではないと伝えるか?

 いや一部だが背負続ける者がいる以上、完全に懸念を晴らせるわけではない。

 それに彼の背負う重責は尋常ではなさそうだ。

 どちらかと言えば背負い続けるケィリの側にいるだろう。


 ではどうするかしばらく悩んだ。

 そして、一つのアイデアを思いついた。


「赤い布の話に細工をしよう。」


 旅人の旅立ちにおいて赤い布を渡す風習がある。

 これはケィリに括り付ける赤い布と一緒で、魂の運び手や私たちのの代わりに世界を見てきてほしいという願いが込められている。

 この話に少し話を付け足したのだ。


 赤い布が持ち手を守ってくれるという信仰はたしかにある。

 しかし、あくまで死者が子孫を守ってくれるという話であって、血縁でもない旅人を守ってくれる訳ではない。

 だからこの話を少し改変し、私たちが彼を守るという話を付け足したのだ。




 乾いた山風が、誰もいない山道の塵を巻き上げている。


「一方的かもしれないが、我々は君を家族だと思っているよ。」


 顔役は男が去っていった山道に向かってそう呟くと、村へと戻っていった。







 永久凍土に覆われた山脈を強烈な海風が撫でつける。

 雲すらも吹き飛ばした烈風は、山を登る一人の男へと襲いかかる。

 

 男の腕にはい《・》が巻き付けられていた。


 「ハァ、ハァ、見えてきた」


 男は山頂に到着した。

 雲よりも高いこの山脈の山頂は、まさしく絶景であった。


 山脈の東側にはこれまで辿ってきた東の大陸が見える。

 乾燥した荒野が地平線の彼方まで無限に続き、環境の厳しさを物語っている。

 

 一方東側は天国のようだった。

 眼前に広がる大海は日差しを受けて銀色に煌めいている。

 右奥に見える陸地は海岸線が長大すぎて、その果てを海岸線に隠してしまう。

 陸地には子供の肌のようなミルク色の砂浜が続き、後ろに青紫の花畑が海風に揺れている。




 登りきった永久凍土の山頂で、しばし物思いに耽った。

 随分遠くに来たものだ。

 そう言って、旅の中の様々なことを思い出す。


 故郷を出立した時のこと、旅先での災難の数々、そしてあの村のことを。

 

 お世話になったあの村も遠い地平線に隠れてしまった。

 雲より高いこの頂からさえ見ることは能わない。


 あの山岳で、今も巨獣たちは重たい墓石を抱えて岩山を登っているのだろうか。


 未だ、あの巨獣たちの姿を思い出す度に己の姿に重ねてしまう。

 この重みは、きっといつまでも消えることがないのだろう。


 けれど己には心強い連れ添いがいる。

 

 男は手首に巻かれた赤い布を見る。

 布は山頂の強風に煽られ揺れている。

 これを見る度に、男はあの村のことを思い出す。


 他所ものの己を優しく迎え入れてくれたこと。

 村の人々と語り明かしたこと。

 共に笑い合ったこと。

 そして、遠い彼方から見守っていると言ってくれたこと。


 あの言葉を思い出すだけで心に温かいものが去来する。

 この温かささえあれば、きっとこの墓石の重みにも耐えられる。




 胸の中の温かさが背中を押す。

 一層力強さを増したその瞳で、男は眼下に広がる白銀の海を見下ろした。


 彼らのおかげでここまで来れたのだ。

 けれど遠い彼方からはこの感動も届かないだろう。


 だからせめて、彼方に聞こえるほどの大声で叫ぼう。

 この感謝を届けんがために。





「ついに来たぞ、新天地!」


 掲げられた男の腕で、巻き付けられた赤い布が風に靡いていた。

 

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