第3話 アーサー
研究室を見回すと、懐かしき日々の記憶のままの標本たちと新規顔であふれていた。標本収蔵室を含めれば千点はあるかもしれない。
彼らにどれだけの価値があろうとも、知らぬ者にとってはただのゴミだ。
他大学や博物館に寄贈できればいいが、これだけの数となるとすべてという訳にはいかない。
標本目録をつくり優先順位を決め、過去の
やることがいっぱいだ、と近くにあった椅子に腰かけ、ふーっとため息をついた。
終わりの見えない地道な作業を始める前に、この研究室の空気に少し
ぐっと背伸びをし視界に入ったのは、入り口付近で存在感を示すホホジロサメの標本だ。
このサメの死体が海岸に打ち上がったという知らせを受けた先生は真っ先に研究室を飛び出ていき、置いてけぼりにされた学生たちで慌てて道具を準備して後に続いたものだ。
あの時、初めてこのサメの口の中を見た驚きときたら。
首からさげた三角形の石のペンダントを手に取り眺める。
子供の頃からずっと正体を知りたいと思っていた石が、サメの歯の化石だと知ったのは、このホホジロザメがきっかけだった。
あの頃は毎日が輝いていた。
けれど、導いてくれた先生はもうこの世にいない。
「一体、どうして」
大きくため息をつくと、魂まで抜けそうだった。
追想にふけっていた頭を現実に引き戻したのは、カサコソと何かが這いまわる音だった。
ネズミが標本をかじりにきたのかとあたりを見回すと、視界の端で黒い影が動いた。
椅子から立ち音のする方へ近づくと、机の下に隠れていたそれはこちらを大きな目でじっと見つめていた。
子供だ。齢は十歳をいくつか超えたぐらいか。きりりとしまった口、すっと伸びる鼻筋、そして凛々しい眉は、いかにも利発に見える。
「迷子か?」
どうやって入り込んだのかと思ったが、よくよく考えれば研究室の扉を閉めた記憶がなかった。
少年は、迷子という言葉を耳にするや、年齢相応のむすっとした顔をした。
「迷子じゃない。助手だ」
こんな子供が?と口にだしかけ、昨年、〝小さな助手ができた〟と楽しげに書かれた先生からの手紙を思い出した。
「もしかして、君が先生の小さな助手?」
「そういうあなたはミスターシャーク?」
かつてのあだ名で呼ばれ大きく眉を上げると、少年はニッと笑った。
「首からサメの歯の化石をさげているからそうじゃないかと思った。先生からいつもあなたの話を聞かされていたよ。いつか帰って来てくれないかなって」
少年の言葉に、胸の奥にしまいこんだ感情が顔をもたげる。
もし。
もし、私がこの研究室に残っていたら。
先生は自殺しなかったのじゃないか、と。
ふーっとため息をついた。
思い上がりも
自分にいい聞かせ、
「今となっては叶わないことだ。過去を変えることができないなら、目の前の現実をどうにかしなくちゃならない。よかったら君にも協力をしてもらいたいんだ」
「何を?」
「ここにある標本の整理と目録作りさ。このままでは捨てられてしまうから、価値のわかる信頼できる人間の手に
彼はしばらく
「分かった。それが先生のためになるなら」
少年――アーサーを先生が助手と呼んでいた理由はすぐに分かった。
記憶力、集中力、どれをとっても申し分なく、生物学知識も時にこちらが舌を巻くほどであった。加えて字が美しく、たとえ難解なラテン語でもつづりの間違いはない。さらっとラテン語の知識が口からでるあたり、裕福な家の出だろう。
謎めいた子供だったが、正体を探ろうとすればすぐに不機嫌になった。そのまま追求してせっかくの協力者を失うぐらいなら、何も聞かずに作業を優先した方がよかった。
標本リスト作りの大半をアーサーに任せ、譲渡先の候補となる他大学の研究室や博物館の知り合いへと手紙を出すのに専念していれば、事情を知った彼らも他にどんどん声をかけてくれたのもあり、続々と標本たちの次の行き先は決まっていった。
作業は想定よりもずっと早く終わりそうで、足の踏み場がないほどいたるところに転がっていた標本たちはどんどん減っていく。
気づけば半分以上なくなり、それも大半は配送の手続きを待つのみになった。
ほとんど空になった教室に
作業に
自分から先生の誘いを蹴っておいて、今になってどこまでも優柔不断な奴だと己を
確かこの研究室に所蔵されていたのはマンモスの臼歯だが、リスト上の記載はマストドンになっていた。
最近になって別種であると判明したが、あの少年は知らなかったのだろう。話を聞こうとアーサーの姿を探したがどこにも見当たらない。トイレだろうか。それなら自分の目で確かめるかと標本収蔵室へと足を運んだ。
「やはりマンモスだ」
木箱から取り出した臼歯には山のような突起がついていない。マストドンの歯には乳首の歯と言われる突起がついており名前の由来となっているが、この標本にはなかった。
名前を直さなければと、マストドンと書かれた木の箱を持ち上げ、思わず眉をあげた。臼歯が包まれていた布の下に何やら冊子が収まっている。何かの資料かとぱらりと開いて息を呑んだ。
日記だ。それも先生の筆跡だった。
「なんで先生の日記が……?」
「僕が隠していたからだよ」
後ろを振り向けば、いつの間にかアーサーがいた。
「アーサーが? どうしてこんなことをしたんだ?」
「あなたが信頼できる人間か知りたかったから」
アーサーの目がひたりとこちらを
その目を見て、ようやく気づいた。
彼がマンモスとマストドンを取り違えたのは、わざとだったのだ。
私が彼の記述の間違いに気づき、この日記を見つけられるかどうか試すために。
「合格点はもらえそうかい?」
「うん。だから手伝って欲しいんだ」
「何を?」
「僕が真実を見つけるのを。ミスターシャークはさ、先生が自殺したことに何の疑問も抱かなかったの? 一度でもこう思わなかった? 先生は自殺したんじゃない。――誰かに殺されたんじゃないかって」
背筋に冷たいものを走る。
心の奥底で秘めていた疑問を、あたかも彼にのぞかれたようであった。
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