第2話 研究室

 中庭では学生たちが自作の機器を調節し、空を見上げて昼の星の観測をしている。

 廊下では講義を終えたばかりなのか、学生数人で集まって白熱した討論を繰り広げていた。

 大学は一種独特の雰囲気を持つ、隔絶かくぜつされた世界だ。

 何年かぶりに訪れたというのに一歩踏み入れた途端、その空気に呑まれまるで学生に戻ったように感じられる。このまま教室に向かって素知らぬ顔をして講義を受けるのもありかもしれないと考え、すぐに打ち消した。

 残された時間がそう長くないのは、誰よりも自分が知っていた。


 大学生時代、お世話になった先生の訃報ふほうの知らせが届いたのは、数日前のことだった。

 研究室に閉じこもらず精力的に動き、第一線で働き続けた先生は死からほど遠い存在で、初めて聞いた時は信じられなかった。

 何より驚いたのは、先生の解剖学研究室がなくなることだ。

 部屋を一度空っぽにして、外部から著名な学者を招聘しょうへいする予定だそうだ。

 引き継ぐ者がいないまま研究が途絶とだえることはよくあることだが、今回のように研究室ごとなかったことにされるなど異例の事態だ。

 紙資料や論文は大学図書館に所蔵されるが、骨格標本や液浸えきしん標本などはそうもいかない。

 このままでは貴重な標本たちが散財さんざいしてしまう。手紙を受け取るや、卒業して以来初めて大学の門をくぐることにした。



 研究室に一歩入れば、入口に掲げられていたホホジロサメの大きな口が目の前に鎮座ちんざしていた。

 来客がこの標本を見てギョッと後ずさる姿を先生はニヤニヤして眺めていたものだ。

 どこからかひょっこり現れるのではないかと期待してしまうほどに、主なき部屋には痕跡こんせきがいたるところに残っていた。

 けれど、時間がたつにつれ死体が腐れ落ちていくように、きちんと保存をしなくては同じ姿を留めることはできない。

 そのためにも、と奥へ進むと椅子に座る元同級生のウィリアムの姿があった。彼は卒業後も大学に所属し、先生の研究や授業補佐を務めていた。私に手紙を送った張本人でもある。彼はこちらに気づくとペンを置き、人懐っこい笑みを浮かべたが、どこかやつれていた。

「久しぶりだな。調子はどうだ?」

「そこそこかな。そういうウィリアムはどうだい? ちょっと疲れているように見えるが」

「まぁ、色々あったからな」

 言葉の端々には、痛みを伴った響きがあった。

 勧められるまま席に座りウィリアムと対面する。

 彼が座っている場所は先生の特等席だった。それがより一層、先生の不在を証明しズキリと心が痛んだが、現実と向き合わなければならなかった。

「……先生が亡くなったなんていまだに信じられないよ」

「先生を知る人だったら誰もがそう思うさ。でも残念ながら事実だ」

「しかし、研究室の解体もこの標本たちを大学が引き取る気がないことも流石におかしすぎる。何か裏の事情でもあるのか?」

 ウィリアムは周囲をうかがい、そばに誰もいないことを確認すると、静かに口を開いた。

「先生は表向き持病が悪化して死亡したことになっているが、本当は自殺だったんだ。この研究室で毒の杯をあおってね」

「……え?」

 驚きのあまり、言葉がでなかった。

 自殺は殺人以上の大罪だ。土地や財産を没収され、家族にまで罪が及ぶこともある。

 研究室が取り潰されるには、十分すぎる理由であった。

「どうしてだ?」

「分からない。君こそ何か聞いていないか?」

「先生と手紙でやりとりはしていたが、最後に受け取った手紙にも別段変わった様子はなかったよ」

「そうか」

彼は目を伏せ、静かに大きくため息をついた。そして一呼吸置くと、おもむろに机の上に鍵を置いた。

「頼まれていた研究室の鍵だ。大学にも話を通してある。俺は色々な事務手続きが忙しくて手伝えないと思うが、他に何か必要なものがあったら言ってくれ」

「ありがとう」

「でも本当にやるつもりか? 膨大ぼうだいな量だぞ」

「ああ、先生の集めた標本の目録を作る。たとえ誰かに売ることになっても所在が分かるように、そして先生がやってきたことが少しでも後世に残るように」

「お前は学生時代から変わってないな」

 ウィリアムは、小さく笑った。

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