武蔵の旅立ち

 アイシアが王都に旅立ってから一年が経ち、武蔵は十七歳になった。

 あれから一年、武蔵は相変わらず毎日剣の稽古に励み、その傍らマルコの作業場で刀の製作に取り組んでいる。この一年の修行でどうにかこうにか刀を打てるようにはなってきたのだが、まだ満足のゆくものは完成していない。

 今日も今日とて、武蔵は朝の稽古を終え、マルコの作業場に顔を出した。


「マルコおじさん」


 作業場の戸を開いて武蔵が声をかけると、手斧用の刃を打っていたマルコが顔を上げて笑顔を見せる。


「やあ、いらっしゃい、レオンくん。今日も精が出るね」

「おじさんこそ」

「俺のは商売だからね」


 苦笑しながら言葉を返すと、マルコは再び真剣な顔付きになって作業に戻った。

 武蔵も道具の準備をしてから作業に取り掛かる。実のところ、刀の製作はもう最終段階に入っている。小刀の方は早々に納得のゆくものが完成したのだが、大刀の方はこれまでずっと満足のゆくものが作れなかった。だが、先日打ち上げた刃が目を見張るような良い出来になったのだ。

 研ぎをはじめとする刃の仕上げから茎への銘入れ等はすでに済ませてあり、鍔や柄、はばきといったパーツも予め製作して用意してある。後はそれぞれのパーツを組み合わせてから鞘を製作すれば完成だ。

 今日はそれぞれのパーツを組み合わせて剣そのものを完成させてから、鞘の製作に取り掛かるつもりである。

 まずは刃、はばき、鍔を茎に通し、剥き出しの茎を柄に入れ込む。柄にはすでに鮫皮や組み紐が巻かれており、目釘孔に目釘を入れて刃を固定する。

 とりあえずだが、これで刀本体が完成した。


「おお……」


 自分が製作したものではあるが、思わず感嘆の声が洩れる。それはそうだろう、前世の頃から慣れ親しんだ、今世でもずっと恋焦がれてきた刀、その実物が目の前にあるのだから感慨もひとしおだ。


「いやあ、ようやく完成だね、レオンくん」


 作業に熱中して気付かなかったのだが、いつの間にかマルコが側に立ち、武蔵の手に収まる刀をじっくりと観察していた。


「凄いものだね、刀というのは。俺では到底打てないだろうな」


 マルコが武蔵の刀を見る目は紛れもなく職人の目だ。そのマルコが凄いと言うのなら、この刀はお墨付きということになるだろう。


「俺には鍛冶神の加護というギフトがあるからこういうことが出来るだけで、純粋な地力だけならおじさんには遠く及ばないさ」


 マルコには武蔵のような鍛冶に関するギフトはないが、それでも長年の経験がある。武蔵が敬意を表して言ったその言葉に、マルコは苦笑のようなものを浮かべた。


「嬉しいこと言ってくれるじゃないか」


 そういうマルコに武蔵も苦笑を返し、作業に戻る。


「これで鞘が完成すれば、ようやく大小揃う。そうすれば俺もいよいよ出立だ」


 言いながら、武蔵は鞘に使う木材を手に取った。大雑把な形は昨日のうちに彫ってあるので、今日は刃を当てがりながら剣を入れるための穴を彫り、鞘の中で刃が当たらないように反りを合わせる作業をする。

 武蔵の作業を見ながら、マルコは妙に湿っぽい感じでふうむ、と鼻を鳴らした。


「そうか、レオンくんも村を出るんだったな。アントニオもイリスさんも、君がいなくなれば淋しいだろうな。私もジェシカも淋しくなるよ……」


 マルコの気持ちは武蔵にも分かる。子の巣立ちというのは親にとっては嬉しくもあり、淋しくもあるもの。前世の話だが、武蔵も養子である伊織が独り立ちした時は密かに涙を流したものだ。


「旅先から文を送るよ」


 武蔵がそう言うと、マルコは鼻頭を親指で擦りながら笑顔を見せた。


「ああ、是非ともそうしてくれ。訓練が忙しいのか、アイシアはたまにしか手紙をくれなくてね。きみの手紙も楽しみにしているよ」


 マルコはそう言うが、アイシアの手紙は月に一度は必ず届く。寂しさからか、最初の頃こそ毎週のように手紙が届いていたのだが、それも落ち着いたということだろう。むしろ以前が送り過ぎで、今のペースが普通なのだ。

 ちなみに今月の頭に届いたアイシアからの近況報告によると、彼女はそろそろ訓練期間を終え、王国騎士団の六軍団のいずれかに正式配属されることになるのだという。希望としてはユトナ・フォリンの第三軍が良いとのことだ。

 それから暫く、二人は無言で作業に没頭した。武蔵は鞘の製作、マルコは売り物である手斧の製作。

 無言の時間が一時間も続いた頃だろうか、唐突に作業場の戸が荒々しく開け放たれた。


「大変だ、マルコさん!」


 そう叫び、息を切らしながら作業場に駆け込んで来たのは、父アントニオの仕事仲間、同じく狩人をしているザナックという中年男性だ。


「ザナック?」


 突然のことに、マルコが怪訝な表情を浮かべた。

 全力疾走でもした直後なのか、ザナックはぜえ、はあと息を荒らげ、かなり焦った様子で作業場の中に視線を走らせている。


「おお、レオンもいるか!」


 武蔵の姿を見つけたザナックがそう声をかけてきたので、武蔵も思わず言葉を返す。


「そんなに慌ててどうしたんだ、ザナックさん? 狩りで怪我人でも出たか?」


 武蔵が問うと、ザナックはすぐさま「そうじゃない!」と叫んだ。


「魔物だ! 森の方から魔物の群れが村に向かっている! 今は狩人連中で対処しているんだが、押さえ切れん! このままでは村へ侵入されてしまう!」

「何だって!」


 マルコが驚愕の声を上げる。声に出さないというだけで、武蔵も同様に驚いている。

 それはそうだろう、ポポラ村の周辺は魔物の数も少なく、生息しているのも大して脅威にならないような小物ばかりなのだ。女子供ならいざ知らず、弓などで武装した熟練の狩人でも対処し切れないような魔物が群れを成して現れるなど尋常のことではない。


「畜生、どうしてこんな辺鄙なところでアシュラベアやミノタウロスみたいな強い魔物たちが出て来るんだ!」


 拳を握り、歯を強く噛みながらザナックが言う。父の仕事の関係上、武蔵にもいささか魔物の知識がある。今、ザナックが名を出した魔物などは、通常人間が寄り付かない、かつて魔王が作ったという迷宮、ダンジョンのような厳しい環境に生息している筈だ。

 そんな強大な魔物たちが群れでこの村に向かっている。そして、それを迎え撃っているのは恐らく父を含めた狩人たち。

 このままでは父たちが危ない。武蔵は考えるまでもなく抜き身の大刀を手に取り、側に収納しておいた小刀も取り出して腰のベルトに差した。


「ザナックさん、森だな?」


 森が広がるのは村の西側だ。武蔵が確認すると、ザナックはそうだと頷く。


「あ、ああ、そうだが、レオン、お前何を……」


 マルコの言葉の途中だったが、武蔵は真剣な表情でマルコに向き直る。


「マルコおじさん、行ってくる」

「レオンくん! ダメだ、レオンくん!」


 マルコが止めるのも聞かず、武蔵はそのまま作業場を飛び出した。向かうは西に広がる森林地帯。魔物たちを蹴散らし、父の窮地を救うのだ。



 森を目指し村の通りを進む武蔵。ザナックが喧伝して回っていたのだろう、避難中の村人が次々に武蔵の横を通り過ぎて村の東側に逃げて行く。避難した者たちは恐らくここから最も近いトモスの町に行くのだろう。トモスならば辛うじて徒歩でも行けるし、騎士団の兵士たちも詰めている。強い魔物が相手でも助けてくれる筈だ。

 森の方に近付くにつれ人が少なくなり、かわりに複数の者たちが入り乱れて争うような戦闘音が大きくなってくる。どうやら父たちは強大な魔物を相手に粘り強く戦ってくれているらしい。

 森の鬱蒼とした木立の中から爆発音や土埃とともに光が漏れてくるのが見える。きっと魔法を使える者が魔物に応戦しているのだろう。かなり激しくやっているようだ。

 と、森の方に視線が釘付けになっている武蔵の背に、


「レオン!」


 と、唐突に声がかけられる。

 レオンが立ち止まり、驚いて振り返ると、そこには何と母イリスがいた。道端の木の陰に座って、負傷して後退したのであろう狩人を光魔法で治療している最中だった。母は勇敢で頭の回る人だ。きっと、強大な魔物が出たという報を聞き、すぐさま父たち狩人が応戦していること、そして必ず負傷者が出るだろうことを悟り、あえて逃げずに負傷者の治療をしようと残ったのだろう。


「母上!」

「レオン、あなたまさかお父さんを助けに行くつもりなの?」

「無論ですとも!」

「ダメよ、レオン! 行ってはダメ! 逃げなさい!」


 武蔵の腕が立つことは母も知っている。しかし親として我が子を死地に送り出すようなことは出来ないらしく、強い言葉で反対されてしまう。

 母の気持ちはありがたい。前世の時は終ぞ得られなかったものだ。多大なる感謝の念を覚えている。だが、ここは母に否を突き付けてでも行かねばならない。


「いえ、母上、行かねばならんのです! この剣が……刀が完成したのですから! 俺が旅に出る準備が整ったのですから! これが我が旅の始まりなのです! 人も魔物も、あまねく強者を倒し天下無双へと至る旅の!」


 言うや、武蔵は「御免!」と頭を下げ、母の制止も聞かず森への道を走り抜けた。

 武蔵が森の入り口に到着するのとほぼ同時に、父たち狩人が追い立てられるように森の中から出て来た。狩人は父を合わせて五人ほどいるのだが、見れば全員大なり小なりの傷を負っており、意識を失って他の狩人の背に担がれている者もいるような有り様だ。


「父上!」


 もう矢も尽きたのだろう、負傷した左腕をぶらりと下げたまま、本来は得物の血抜きや解体に使うナイフを右手に森から駆け出て来た父が武蔵の姿を見て驚愕する。


「レオンか! お前も逃げろ! 奴ら強過ぎる! もう押さえられん!」


 父もやはり逃げろと言う。だが、武蔵はあえて立ち止まり、無手のままだった左手で小刀を抜いて母がいる方を切っ先で差した。



「向こうで母上が怪我人を治療している! とりあえずそこまで逃げるんだ! 後は俺が何とかする! さあ、早く!」



 武蔵が殿をすると思ったのだろう、父が血相を変えて詰め寄って来る。



「馬鹿! お前も逃げるんだよ! お前一人残ったところで……」


 しかし、父の言葉は、


「グオアアアァーーーーーーッ!」


 という獣の咆哮で遮られた。森にいるという魔物の群れ、その先鋒として四本腕の巨大熊アシュラベアが森の中から姿を現す。


「レオン!」


 驚愕する父を護るよう、体長三メートルもあるアシュラベアの前に立ち塞がる武蔵。


「ガアアアァーーーーーッ!」


 獲物を武蔵と定めたアシュラベアが、二本の右腕でもって武蔵に襲い掛かってくる。まともに受ければ人間などは簡単にミンチになるような一撃だ。

 まさに絶体絶命。だが、父は眼前でとんでもないものを目撃する。


「なぁッ!」


 何と、武蔵がこともなげに小刀の一振りでもってアシュラベアの右腕二本を斬り飛ばしたのだ。父も、そして斬られた本人であるアシュラベアでさえも現状に理解が追いつかず眼前の光景が信じられないといった様子で声を失っている。


「ふん!」


 まだ斬った右腕が中空を舞う刹那、武蔵は流れるような動作で右の大刀を下段から上段に振り上げ、アシュラベアの巨体を真ん中から左右に一刀両断した。


「な、な……」


 目を見開いて口をパクパクさせている父の眼前で、両断されたアシュラベアの巨体が左右に割れて地面に沈む。


「真・二天一流、山ノ太刀、剛断……」


 この剣と魔法の異世界で戦うために武蔵が進化させた剣術、真・二天一流。それは風、林、火、山の四系統からなる変幻自在の剣。今、武蔵がアシュラベアの巨体を両断したのは片手で肉を裂き骨をも断つ剛剣、山ノ太刀の技であった。


「ふむ。まあ拙作ながら上出来といったところか」


 大刀、小刀をそれぞれ一瞥しながら武蔵が言う。使ってみて思ったことだが、武蔵にはやはりこの世界で一般的な剣よりも刀の方が手に馴染む。仮に刀ではない剣を使ったとしたら十分に技の威力を発揮出来ないだろう。


「レオン、お前……」


 父が呆気に取られた様子でこちらを見ている。それはそうだろう、いくら幼少期から木剣を振って鍛えてきたといっても独学、しかも父が知る限り初の実戦で相手は並の人間など簡単にくびり殺せるような強大な魔物。そんな魔物をこともなげに斬り伏せたのだから父の驚きたるや尋常ではない。

 己と妻の手で育ててきたと思ったが、どうにもこの息子は自分で勝手に育ったようだと、父は漠然とそのようなことを考えていた。


「こういう次第だ。後は任せろ、父上」


 唇の右端をニヤリと釣り上げて見せてから、武蔵は臆することなく堂々と魔物たちがいる森の中に入ってゆく。

 その大きな大きな息子の背を、父であるアントニオは黙って見つめている。親として死地に赴く我が子を止められないのはいささか情けないかもしれないが、しかし息子は自分などとうに越えて先に進んでいるのだと、そうも思っていた。



 森の中に入ると、撤退した狩人たちと魔物たちの戦いの痕跡が目に入った。根元から折られた木が倒れ幹には矢が刺さり、地面の草があちこち焦げている。血の跡もそこかしこに点在しており、矢が刺さって絶命した魔物の死体もいくつか見えるが、いずれも小物のようだ。先ほどのアシュラベアのような大物は狩人たちの弓矢では仕留められなかったのだろう。ならばそれらは全て武蔵が斬るまで。


「魔物どもは……」


 アシュラベアが倒されたことで一旦引いたのだろうか、気配は漂っているものの、森の外に出ようとしていた魔物の群れの姿がない。

 斬るべき相手を追い求め武蔵が五感を研ぎ澄ましていると、不意に、薄暗い森の奥から凄まじい勢いで丸太が飛んで来た。


「ぬん!」


 その丸太を一刀のもとに斬り飛ばす。丸太は空中で縦に割れ、飛来した勢いのまま別の木に激突して土埃を立てる。


「来たか……」


 丸太が飛んで来た方向に目を向けると、木立の影からのしのしと巨大な人影が歩み出て来た。その数は七つ。体長は二メートル五十ほどだろうか、牛頭に人の身体を持つ巨体の魔物、ミノタウロスである。

 何処から調達したものか、ミノタウロスたちはそれぞれ巨大な戦斧で武装していた。あの戦斧で木を切り倒し、丸太を投げてきたのだろう。身体は人のものとはいえ、あからさまに人間離れした凄まじい膂力だ。


「ブルルルルル……」


 荒々しい鼻息を立て、ミノタウロスの群れが姿を現す。狩人たちがやったのだろう、見れば身体に矢が刺さったままの個体もいるようだが、しかしながら当人はさして気にもとめていないようだった。恐らくは蚊が刺したという程度にしか思っていないのだろう。


「見上げるような巨体に凄まじい膂力、京の吉岡伝七郎を思い出すな……」


 前世の記憶。武蔵は単身、京で京八流の吉岡一門と激しく争ったのだが、当主、吉岡清十郎の弟、吉岡伝七郎が丁度このような男であった。常人ならざる巨体で通常のものより刃が分厚く長大な太刀を使う剛剣の剣士。


「こういう奴は膂力に優れる分、技に劣るものだ」


 武蔵の推察が確かなら、この手の輩は馬鹿力一辺倒の猪武者だ。


「ブモオオオォーッ!」


 恐らくは群れのリーダーなのだろう、先頭に立つミノタウロスが雄叫びを上げながら斧を振り上げると、六体のミノタウロスたちが武蔵に殺到してきた。


「真・二天一流……」


 だが、武蔵は逃げる様子も動じる様子もなくその場に佇立し、両の剣を左右に開いて、ゆったりと構えている。


「ブオアアアアアアァーーーーーッ!」


 武蔵を前後左右から取り囲んだミノタウロスたちが声を合わせて一斉に斧を振り下ろしてきた。

 一撃一撃が必殺の威力を持つ戦斧が六つも一度に武蔵に迫る。その攻撃が武蔵の頭を割るかと思われた瞬間、しかしながら斧刃は一つも武蔵に当たることなく、まるで避けるように空振りして地面を叩いた。


「林ノ太刀、瞬転……」


 武蔵がそう呟くのと同時に、六体のミノタウロスたちが腰のあたりから一刀両断され、下半身からずれた上半身が地面に落ちる。

 静寂を湛えた防御で相手の攻撃を逸らし反撃に転じる後の先の型、林ノ太刀。頭上に殺到した戦斧は全て武蔵の刀によって軌道を逸らされ、返す刀でミノタウロスたちの腰を切断したのだった。


「さて……」


 その場に立ったまま、武蔵は鋭い視線を残る一体のミノタウロスに向ける。人間など狩る対象としか思っていなかった筈の怪物が、武蔵の視線に込められた濃密な殺気を受けてたじろぎ、一歩、二歩と後ずさりを始めた。


「ブ、モ……」


 ミノタウロスの口から思わず声が洩れる。鼻息は荒くなり、上半身に珠のような汗が浮く。巨大な怪物が人間の少年一人に恐怖しているのだ。


「さあ、覚悟しろ。魔物であろうと最期くらいは潔く散れ」


 言いながら、武蔵は大刀を地面に突き刺し、小刀を鞘に収め、居合い構えを作った。


「真・二天一流」


 瞬間、武蔵の左腰、小刀の辺りに殺気が収束する。

 その殺気が、ミノタウロスにはどす黒い渦に見えた。触れた者に死をもたらすどす黒いエネルギーが一点に収束して渦巻いている。

 奥歯がカチカチと音を立て、戦斧を握る手がわなわなと震えていた。本能のままに暴れる魔物が、死の恐怖に取り憑かれたのだ。


「ブモオオァーッ!」


 武蔵に背を向け、ミノタウロスは一目散に駆け出す。早くこの場から離れなければ、あの人間から逃げなければ自分は殺されてしまう。死にたくない、遊び半分に訪れたこんな場所で最期を迎えるのは御免だ。

 身体能力に優れるミノタウロスが全力で駆ければ人間になど追いつかれる筈がない。その筈なのに、遥か後方にいた筈の武蔵が、何故か居合い構えのまま背を向ける形でミノタウロスの眼前にいた。


「風ノ太刀、閃風」


 僅かに刃が抜けていた鞘の鯉口がカチリと鳴り、再び剣が収められる。そして、それと同時に武蔵の背後でミノタウロスの牛頭が胴から離れ宙を飛んだ。

 神速の一閃を放つ居合いの型、風ノ太刀。武蔵は風の如き速度で駆け、抜き去り様に小刀でミノタウロスの首を切断したのだ。本来は大刀で放つものだが鞘がないため小刀で代用した。大刀の一撃であれば分厚い胸板でも難なく一刀両断したことだろう。

 大物はこれで全て倒した。小物も恐らくは父たちが全て倒したのだろう、この一帯にはもう魔物らしき気配はない。

 これで村は護られた。このように強い魔物が現れたことを言えば、今後は王国が兵を派遣して村を護ってくれるだろう。


「出立は明日にするか」


 濃密な血の匂いが漂う中で、武蔵はこの異世界マグナガルドに転生してから今日に至るまでの十七年間を思い出し、感慨深げに目を細めた。



 翌日、武蔵出立の朝。

 前日の魔物騒動で村の外に避難した人たちがまだ戻っておらず、見送りに来てくれた人は両親を含めて僅かに四人であった。

 荷物を詰め込んだザックを背負い、腰には大小を差した武蔵の顔が眩しい朝陽に照らされている。まるで武蔵の前途に光が差しているような、明るい未来を暗示しているかのような見事な朝陽。

 父アントニオ、母イリス、そしてアイシアの両親であるマルコとジェシカの顔を順番に見てから、武蔵は改めて両親に向き直り、深々と頭を下げる。


「父上、母上。十七年間育てていただき、まことにありがとうございました。不肖このレオン、生涯御恩は忘れません」


 前世の頃は物心つく前に母とは死別、厳しいばかりの父の元、親の愛情を知らず、ほとんど一人で育ったようなものだった。だが、そんな武蔵に今世の両親は愛情を注いで育ててくれた。その恩は言葉のみで表せるものではない。

 まさに万感の想いを込めて頭を下げる武蔵を前に、父はずず、と鼻を啜り、母はほろりと涙を流して息子の今日までの成長を喜び、今日の離別を淋しく思った。

 武蔵のその姿が先に出立した娘のそれと重なったのだろう、見ればマルコとジェシカも目に涙を滲ませている。

 もっとあっけらかんと出立するつもりだったのだが、どうにも湿っぽくなってしまった。

 武蔵は苦笑しながら言葉を続ける。


「今日これより、私はレオン・ムサシ・アルトゥルを名乗り諸国を巡る武者修行の旅に出ます。まずは王都の御前試合を制する所存。必ずやこのマグナガルド中に我が武名を轟かせます。何卒、楽しみにしていてください」

「ん? そのムサシというのは何だ?」


 そう言って首を傾げるのは父だ。

 あまりに荒唐無稽なことなので、武蔵は誰にも、両親にすらも自分に前世の記憶があることや、マグナガルドではない異世界からの転生者であることは言っていない。


「まあ、俺だと分かるような記号のようなものだ。レオン・アルトゥルという名の者が他にいるかもしれないからな」


 武蔵がいつもの口調に戻して言うと、父だけではない、四人は思わず苦笑した。


「あなたは昔から変わった子だったけど、最後まで変わったことを言うのね」


 母がそう言うと、父もうんうんと頷く。


「我が息子ながら小さい頃から何だか妙に大人びていて、それでいてやることは変わったことばかり。誰も教えてないのに一人で剣術を始めて、戦闘系のギフトもないのに独学の剣術であんなに強い魔物どもまで倒しちまった。お前は本当に不思議な奴だよ、レオン」


 父は笑いながらガシガシとレオンの頭を撫でる。もう子供ではないと抗議しようかと思ったのだが、これも親孝行と思い直して好きなようにさせてやった。

 父が頭から手を放すと、今度は母が武蔵のことを抱きしめる。


「あなたは昔からずっと天下一強い男になるんだって言ってたから、危険なことをするなとは言わないけど、でも、悪いことはしちゃダメよ? それに絶対に私たちより先に死んじゃダメ。いいわね、母さんと約束してちょうだい」


 母が嗚咽混じりにそう言ってくるので、武蔵は困ったような顔で頷いた。


「約束するよ、母上。だから泣かないで」


 武蔵の言葉に母も頷くのだが、彼女が泣き止む様子はない。意図して止められるものではないのだろう。

 母の腕から解放された武蔵はマルコとジェシカの夫婦に向き直る。


「マルコおじさん、ジェシカおばさん。今まで大変お世話になりました。特におじさんには鍛冶関連で終始世話になりっぱなしでした。おかげさまでこの通り無事、刀が完成いたしました。この刀を見るたび、おじさんとおばさんを思い出すことにします」


 隣家の住人、幼馴染の両親というだけではない、スタンツ家の人たちは武蔵にとっても家族のような存在だ。それにマルコは鍛冶に関しての協力者であり、師匠のようなものでもある。両親同様、生涯忘れることはないだろう。


「レオンくん、元気でね」


 涙ぐんだ様子で武蔵の手を取り、ジェシカが言う。


「ありがとう、おばさん。王都に行ったらアイシアにも会いに行くから」

「ええ、ありがとうね」


 次いでマルコに向き直ると、彼は武蔵の肩に手を置き、パンパンと力強く叩いた。


「ついにこの日が来たな、レオンくん。俺は君が旅立つための最後の手伝いをしたようなものだ。俺も製作を手伝った剣で武名を轟かせてくれるなら、俺も誇らしいよ」

「ああ。必ず、このポポラ村まで俺の名が届くように励むよ。この、おじさんの作業場で一緒に作った刀でね」


 武蔵が腰の大刀に触れながら言うと、マルコは嬉しそうに笑う。


「楽しみだ」


 全員と別れの挨拶が済んだ。これでもう心残りはない。これから先は旅の暮らしだ。まずは国王主催の御前試合に出るため、アイシアも待つ王都へ。


「ではレオン・ムサシ・アルトゥル、天下無双の剣豪となるため、この広きマグナガルドの只中へ行ってまいります」


 もう一度深く深く頭を下げてから、武蔵は振り返ることなく王都への道を歩み出した。

 背後から武蔵を送る四人の声が聞こえてくる。ほんの一瞬だけ立ち止まり、武蔵は後ろに振り返ろうとしたが、しかし思い直してそのまま駆け出した。

 武蔵の頬を、一筋の涙が流れていた。

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