宮本武蔵、異世界に転生す

 目を覚ますと、武蔵の眼前には見たこともない何処かの部屋の天井が広がっていた。

 一体、ここは何処なのか。己は死んだのではなかったのか。混乱する頭に残る冷静な部分をどうにか働かせ、現状を把握しようと部屋の中を見回してみる。

 が、何故か身体に力が入らず、満足に首すらも動かせない。どうにかこうにか、手足をジタバタと動かすのが精一杯だ。

 そして、視界に入った自分の手を見て武蔵は驚愕する。あれだけシワが深く刻まれゴツゴツとしていた己の手が、どういう訳か赤子のようにふっくら丸々としているのだ。

 何だこれは、と叫ぼうとして、しかし武蔵の口から出たのは、


「ふ……ええぇ……ふええええええぇ! びえええええぇ!」


 という、何とも可愛い泣き声だった。

 まるで赤子のような、というか、まるきり赤子の声が口から出る。

 別に泣きたくて泣いているのではない。意図せずに、己の意思では止めることも出来ず自然と泣いてしまうのだ。

 泣きながら、ふと、荒唐無稽な考えが武蔵の頭を過ぎる。どういう理屈かは分からないが、まさか自分は赤子になってしまったのではないか、と。

 確かに武蔵は死の間際、生まれ変わりを願った。次の人生があるように、また剣士として生きられるように、と。

 だが、本当にそんなことがあるのだろうか。輪廻転生という概念は確かに武蔵も知っているが、前世の記憶を保ったまま生まれ変わることなどあるのだろうか。そんな奇跡のようなことが。


「あらあらあら! ごめんなさいね、レオン」


 混乱したまま泣き喚く武蔵の耳に、そう言う若い女性の声が届く。涙で滲む視界をそれでも凝らしてみると、いつの間にか、上から金髪の若い女性がこちらを覗き込んでいた。

 抜けるような白い肌に、煌めく金髪、青い瞳。明らかに日本の人間ではない。話に聞いたことがあるだけだが、これは西洋の人間だと、武蔵はそう思った。


「おしっこかしら? それともおっぱい?」


 言いながら、女性がこちらに腕を伸ばし、武蔵の身体をひょいと抱き上げる。仮に武蔵が以前の武蔵であったなら、この女性の細腕で大の男一人を軽々抱えることなど出来ないだろう。

 やはり、俺は赤子になってしまったようだ。それも、恐らくは日本人ではなく西洋人の子として。

 そう思うと、武蔵は己の意思では制御出来ず、より一層の激しさを増して泣き始めた。


「あらあら、まあまあ! どうしましょう?」


 赤子の武蔵を抱えたまま、女性はオロオロとし始めた。



 武蔵が生まれ変わってから半年が経った。その半年の中で分かったことがある。主に自分の両親の会話からの情報だが、現状を把握するには十分なものだ。

 まず、武蔵はレオン・アルトゥルという少年として生まれ変わっている。武蔵が長男で他に兄弟はいない。後に弟妹が出来る可能性もあるが、今は一人っ子だ。

 父親はアントニオ・アルトゥルという狩人で、母親はイリス・アルトゥルという主婦。いずれもまだ二十代の前半といったところだろう。

 三人家族で、別居しているのか死別しているのか、それとも疎遠なのか、祖父母のような存在は今のところ見ていない。別に孤立している様子はなく、来客は頻繁にある。

 家族については、会話が出来るようになってから両親に訊けばいいだろう。

 それより何より、驚くべきことがある。どうやらここは、武蔵が居た、日本が存在するあの世界ではなく、それとは別の世界のようなのだ。

 何故、それが分かったのか。それは『魔法』の存在だ。

 両親が話していたことの受け売りだが、この世界の人間は皆、齢十五になると教会という寺社仏閣に相当するところへ赴き、牧師による洗礼を受け『ギフト』という特別な能力を授かるらしい。

 ギフトには様々な種類があり、達人のように鋭い剣が振れるようになるものや鍛冶や細工といった手先の技術に無類の器用さが備わるもの、常人を遥かに超える怪力といった身体能力が強化されるものなど、実に多彩だ。その中に、人が本来持ち得ぬ超常の力を操る魔法というものがある。

 母との会話の中で、父は自慢げに、自分は狩猟の神の加護を授かった、だから弓が得意になり、狩人として一流になれたのだと語っていた。

 最初にその話を聞いた時、武蔵は冗談だろうと思ったものだ。物語に登場する京の陰陽師でもあるまいし、そんな能力があるものかと。

 だが、そんな武蔵の疑念を打ち破ったのは、何を隠そう母なのだ。

 ある時、武蔵が寝返りを打った時、勢い余ってベッドから落ち、強かに額を打ったことがあった。それで武蔵は己の意に反し泣き喚いてしまい、その泣き声を聞いた母が慌てて武蔵を抱き上げると、武蔵の額にそっと手を当て、


「ロウヒール!」


 と唱えた。

 するとどうだろう、額に当てられていた母の掌が発光し、武蔵の額から見る間に痛みが引いていったのだ。

 鏡も何もないから自分では分からなかったが、どうも武蔵は額に傷を負ったようで、流血まではしなかったものの血が滲んでいたらしい。それを母が治癒の魔法で治してくれたという次第だ。

 両親によると、傷は僅か数秒で完全に治り、傷跡もないらしい。

 後から分かったことなのだが、母は『光魔法』というギフトを授かっているらしく、その初級の魔法を使って武蔵の治療をしてくれたのだという。

 また、別の日には狩りで傷を負って帰って来た父を魔法で治療したこともあったから、武蔵は魔法の存在を、そしてここが異世界であるということを理解した次第だ。



 武蔵がこの世界に転生してから一年が立った頃、アルトゥル家に来客があった。これまで見たことのない、両親と同年代の若夫婦だ。


「それにしても久しぶりだな、マルコ。帰って来るの、三年ぶりか?」

「ああ、丁度三年ぶりだよ、アントニオ」


 武蔵の眼前で、マルコと呼ばれた青年が父アントニオと握手を交わす。その後ろでは母イリスと、マルコの妻らしき、赤子を抱いた女性が挨拶を交わしている。


「まあ、ジェシカさんとおっしゃるのね」

「ええ。よろしくお願いしますね、イリスさん」


 お互いに笑顔を向ける二人。マルコの妻はジェシカという名前のようだ。

 話を聞くに、どうやら父とマルコは旧知の仲だが、ジェシカとは初対面らしい。察するに、何処か別のところへ行っていたマルコが結婚、妻の出産を機に帰って来たということのようだ。アルトゥル家に来たのは、旧交を温めるためだろう。


「ジェシカさんのお子さんは、女の子なの?」


 母がおもむろにそう訊くと、ジェシカは微笑みながら頷いた。


「ええ。アイシアといいます」

「そうなのね。うちの子はレオンというんですよ」

「まあ、レオンちゃん。勇ましいお名前ね」


 言いながら、ジェシカが武蔵の方を見てニコリと笑う。

 我が子の名前が勇ましいと評されたことが嬉しかったのだろう、アントニオは笑みを浮かべながらジェシカに向き直った。


「ジェシカさん、お疲れではありませんか? 良ければレオンの横にお子さんを寝かせてあげてください。我々は向こうでお茶にしましょう」

「では、お言葉に甘えて」


 父の言葉に頷いてから、ジェシカがアイシアを抱いたままこちらにやって来る。


「おとなりごめんね、レオンちゃん」


 言いながら、ジェシカは武蔵が寝ているベッド、そのとなりにアイシアを寝かせた。


「この子、アイシアというの。仲良くしてあげてね」


 慈しみのこもった、見惚れるような笑みを浮かべながら、ジェシカが武蔵の頭をふわふわとした手付きで撫でる。


「あー」


 意図した訳ではないが、武蔵の口からも自然と声が洩れた。

 ジェシカはもう一度武蔵の頭を撫でると、父と母に付いて奥の間に行ってしまう。

 残されたのは、赤子の武蔵とアイシアだけだ。


「うー」


 武蔵の横にいるアイシアがそう声を洩らしたので顔を向けると、彼女はもの珍しそうな顔をしてこちらに手を伸ばしていた。

 他にやることもないので、アイシアのことを観察してみる。母親譲りの赤毛に、父親譲りの緑がかった瞳、赤子らしくふくふくとした頬に、団子のような丸い手。

 その丸い手を必死に伸ばすと、アイシアは唐突に武蔵の頬をギュッと掴んだ。

 こら、痛い。放せ。いたずらが過ぎるぞ。

 心の中でそう訴えるものの、当然相手に聞こえる筈もない。

 何が面白いのか、アイシアは武蔵の頬を掴んだまま嬉しそうにキャッキャと笑っている。

 痛い。放せ。頼むから放してくれ。

 心の中でそう唱えながらも、武蔵はついに、


「ふ……ふええええぇ!」


 と泣き出してしまった。かつては六十余年を生きた剣士、死なないまでも時には刀で斬られることもあったというのに、たかだが頬を抓られたくらいで情けないと、武蔵は我がことながら恥ずかしかった。だが、恥ずかしくとも意に反して泣き声は出る。これは言わば人としての、赤子としての本能だからだ。

 武蔵の泣き声が聞こえたのか、奥に行っていた四人が慌てて戻って来る。


「あッ! アイシア! ダメでしょ!」


 ジェシカは急いで武蔵の頬を掴むアイシアの手を放そうとするのだが、意外に力が強いらしく、苦戦しているようだった。


「あらあら、アイシアちゃんは元気いっぱいね」


 アイシアに頬をにぎにぎされている武蔵を見ながら、母は苦笑していた。



 生まれ変わってから五年が経ち、武蔵はかなりこの世界のこと、そして自分を取り巻く現状のことが分かってきた。

 この世界の名は『マグナガルド』であり、武蔵が住んでいるのは『ヴェリク王国』という大国、その端にある『ポポラ村』という田舎村だ。

 村では農業と畜産が盛んで、森や山が近いことから父のような狩人も幾人かいる。田舎過ぎて王国の兵士が駐屯している様子はないが、父のように腕に覚えのある者たちが自警団を組織して交代で見回りなどして村を護っているらしい。

 では、父たちは何から村を護っているのか。危険な野生動物や盗賊の類は想像に難くないが、このマグナガルドには魔物なる危険な生物が存在しているのだと、武蔵は父からそう言い聞かされている。

 大昔、魔王なる邪悪な存在が魔界という異界からこのマグナガルドに顕現し、世界の覇を唱え人間と争っていたのだという。魔物というのは、その時魔王が魔界から連れて来た存在なのだが、人間の勇者によって魔王が倒された後も人界に留まり、未だ人類の敵としてその凶刃を振るっているのだと、父はそう言っていた。

 だから、決して一人で森や山に行ってはならない、友達がいても子供しかいないのであればダメだ、と。魔物は恐ろしい、人間の子供など容易く殺して喰ってしまう、と。

 生きている状態ではないが、武蔵も父が狩ってきた魔物を見たことがある。鋭い牙の生えた人面のカラスで、聞けば炎を吐いてくるのだという。実に面妖なことだ。

 父によると、村の周辺に出る魔物は世界的に見れば弱い方らしい。もっと強い魔物は人型であったり、巨大であったり、もっと賢く人語も解するのだという。中には人間と同じようにギフトを使う者すらもいるのだという。

 普通の子供であれば、そのようなことを聞いて恐怖する。森や山は怖い場所、近付いてはならない、魔物は恐ろしい存在、決して相手にしてはならないと、そう思うのだろう。

だが、武蔵は普通ではない。前世の記憶を持ったままこのマグナガルドに生まれ落ちた、天下無双の大剣豪の生まれ変わりだ。強い者がいると聞けば、恐怖するのではなく興味が湧いてくる。剣を交えてみたいという気持ちになる。

 二度目の人生もやはり剣の道を歩む。それが武蔵唯一の、そして最大の望みだ。

 恐らくだが、この世界は日本が存在したあの世界よりも広い。そしてギフトという超常の力が存在することを考えれば、かつての世界より、もっと大勢の強者たちがひしめいていることだろう。人間だけではなく魔物の中にも強者はいる筈だ。

 その、未知の強者たちと剣を交え、倒す。この世界の天下無双を目指す。己一人、己の腕のみ、己の剣のみで。

 また生きて剣を振ることが出来る。そしてまだ見ぬ強者たちがいる。そのことが武蔵には堪らなく嬉しい。

 また剣に生きる。そのためにはまず、かつての強さを取り戻さねばならない。自分が開眼した二刀による剣術、二天一流。その技を全て取り戻す。そしてその技を更に発展させて強者たちにぶつけるのだ。

 考えただけでワクワクする。

 だからレオンとなった五歳の武蔵は今日も庭先に出て、木剣を振って稽古に精を出す。毎日毎日、素振りをして型稽古をして案山子を打ち、また素振りに戻る。

 子供らしさの欠片もない稽古の日々だ。


「ふッ! ふんッ!」


 口から鋭い呼気を洩らしながら上段の剣を振るう。朝食を摂ってからすぐに始め、昼食の時間になるまで続ける。それが日課だ。

 武蔵が木剣を振るその姿を傍らじっと、しかしごく退屈そうに見つめる少女がいる。同じく五歳となったアイシアだ。フルネームはアイシア・スタンツ。父アントニオの友人マルコ・スタンツとその妻ジェシカ・スタンツの一人娘だ。

 四年前からマルコとジェシカの夫婦もポポラ村に移り住み、アルトゥル家の近くに家を建てた。マルコは家の横に小さな工房も建て、そこで細々と鍛冶屋を営んでいる。

 家が近いこともあり、また、武蔵の両親に可愛がられていることもあり、更には武蔵が同年代ということもり、アイシアはよくアルトゥル家に遊びに来るのだが、武蔵は稽古があるのであまり彼女に構ってやれない。


「ねえー、レオンー、今日もまたそれやってるの?」


 庭の木に背を預け、つまらなさそうに片脚をぶらぶらしながらアイシアがそう声をかけてくる。


「お前も毎日それを言ってくるな、アイシア」


 素振りしながら武蔵が答えると、アイシアはぶう、と唇を尖らせた。


「ねえー、遊ぼうよー、つまんないよー」

「つまらんのなら、他の子たちのところに行って遊べばいいじゃないか? わざわざ俺の稽古を見ている必要はない」

「だってさ、わたし、ミミちゃんとケンカしちゃったんだもん……」

「ああ……」


 確かに先日、アイシアが村の農家の娘ミミと広場で何やら言い争っているのを武蔵も目撃している。別に殴り合っている訳でもないから放置しておいたが、どうやらまだ仲直りをしていないようだ。村の子供たちの集まりに顔を出せば、そこには当然喧嘩相手のミミもいる。今、彼女と会うのは気まずいのだろう。気持ちは分からないでもないが、武蔵を誘うよりはミミと和解した方が話が早い。


「だからレオンが遊んでよ」

「断る。俺は稽古がしたいんだ。ちゃんとミミに謝って仲間に入れてもらえ」


 武蔵がにべもなく首を横に振ると、アイシアは再びぶう、と唇を尖らせた。


「もう……。あっ、そうだ!」


 一瞬落ち込んだような様子を見せたアイシアだったが、何か妙案を思い付いたというように武蔵のところまで歩み寄り、おもむろにこちらを指差してくる。


「わたしもそれやる! 稽古する!」


 ニッと笑ってそう宣言すると、アイシアは武蔵が近くに置いておいた予備の木剣を手に取り、見よう見真似で構えを作った。


「あ、おい!」


 木剣はおもちゃではない。扱いを間違えれば怪我をする。武蔵は慌てて止めようとしたのだが、彼女は構わず剣を振る。


「えい!」


 武蔵がやっていたように上段に構え、振り下ろす。ずぶの素人ながら、なかなかどうして様になっている素振りであった。


「お……」


 意外にも筋の良いところを見せたアイシアに驚き、思わず声が洩れてしまう。


「何だ、意外とサマになってるじゃないか、アイシア」


 武蔵が真顔でそう述べると、アイシアは嬉しそうな笑顔を見せた。


「えへへ」


 武蔵は前世で妻を娶らなかったが、子が一人いた。養子の伊織だ。伊織もまた幼少期から非凡な剣の才を見せた子だったが、アイシアも武蔵が教えれば伊織の如く強くなれるかもしれないと、思わずそのようなことを考えてしまう。

 腕を組み、ふうむ、と唸る武蔵。


「もしかして、お前も一人で隠れて稽古してたのか?」


 武蔵が訊くと、アイシアはううん、と首を横に振った。


「違うよ。レオンの見て真似しただけ」

「………………ふむ」


 武蔵は再度唸る。彼女の言うことが本当ならば、やはり剣の才があるのだ。思えば日本にも女武芸者などというものは数える程度しかいなかった。それでも薙刀をやる女性ならばいたが、剣というと話を聞いたこともない。この世界の女性に剣の才があるということは良いことなのだろうか。まだ村の外のことを知らない武蔵には見当が付かない。


「ねえ、レオン。わたしと勝負しようよ」


 ひとしきり木剣を振って飽きてきたのだろう、アイシアは唐突にそう提案してきた。


「え?」


 いきなり何を言い出すのか。前世の記憶と経験があり、三歳の頃から休まず稽古を続けてきた武蔵にアイシアが勝負を挑むなど、尋常のことではない。子供同士ではあるが、大人と子供の喧嘩になってしまう。

 だが、武蔵に前世の記憶があることなどアイシアは知らない。


「勝負勝負! えやッ!」


 アイシアは一丁前に木剣を構えると、まだ構えてもいない武蔵に打ち込んで来た。


「うわッ!」


 意図せず放たれた不意打ちの一撃を、武蔵はどうにか身体を捻って回避する。仮に当たったとしても油断していた自分が悪い、不意打ちであっても卑怯とは言えないのが武芸に生きる者の辛いところだ。


「えいッ! やあッ!」


 体勢の整わぬ武蔵に次々と打ち込んで来るアイシア。その剣がどうにも鋭くて、武蔵は思わず本気になってしまった。


「甘い!」


 アイシアが放った突きを上段から強く打ち据えると、彼女は衝撃に耐え切れず木剣を取り落とした。


「あ……ッ」

「よし、俺の勝ちだ」


 そう言って勝ち名乗りを上げた直後、武蔵はちょっと恥ずかしくなり、ほんのりと頬を赤く染めてしまう。子供相手に何をやっているのだ、大人気ないと自戒したのだ。

 だが、正直この勝負は面白かった。子供同士の遊びのようなものではあるが、久しぶりに人を相手に試合をした。父は弓はやるが剣はやらないので相手がいなかったのだが、今日思わぬ稽古相手を得たようだ。


「あー、もう。勝てると思ったのになあ……」


 強打を受けて手が痺れているのだろう、アイシアは両手をぷらぷらとさせながら唇を尖らせて悔しがった。どうやら本当に勝てると思っていたようだ。

 そういう彼女の様子に武蔵は思わず苦笑してしまう。


「阿呆。俺は毎日稽古してるんだ。今日始めたばっかりのお前に負けるわけないだろ?」


 むしろ、勝ってもらっては困る。いくら子供であれど、前世では大成した剣豪なのだ、今世でも天下無双となるため、誰にも負ける訳にはいかない。

 武蔵の負けん気が伝わったものか、アイシアはむっと額にシワを寄せた。


「じゃあ勝つまでやるもん! わたしも毎日稽古するんだ!」


 アイシアは落とした木剣を拾い上げると、また素振りを始めた。


「えい! やあ!」


 気合いの乗った良い素振りだ。どうやら先ほどの勝負が彼女の心に火を付けたようだ。

 これは俺も負けてられないなと、武蔵も苦笑混じりに素振りを再開した。



 アイシアとの初勝負から更に五年が経ち、武蔵は十歳となっていた。もう幼年期は脱し少年期に入っているが、それでもまだ子供。親からすれば目が離せない年頃だ。だが、そんな少年が一人、魔物が生息する危険な夜の森で一人、大の字になって寝転んでいた。


「はあ、はあ、はあ…………」


 森の草に埋もれるよう、地面に背を預けたまま武蔵は息を切らしている。武蔵の傍らには鮮血に濡れて黒光りする愛用の木刀が転がっており、もう少し離れた場所には狼やカラスの魔物が事切れた状態で転がっていた。

 言わずもがな、武蔵が魔物たちを倒したのだ。一人であろうが大勢であろうが、子供が森に入ることは大人たちによって固く禁じられている。だから両親に気付かれぬよう、わざわざ大人も寝静まる夜になってから家を抜け出て、木剣を手に一人で森に入った。

 全ては修行のため。この異世界で戦い抜くのなら、魔物たちとの戦いは避けて通れないだろう。幸い、ポポラ村の側に広がる森の魔物は弱い部類に入る。初陣を飾るのなら持ってこいだと思っていたのだが、現実はそう甘くなかった。


「……子供だという言い訳は出来んな」


 服が裂け、ジワリと血の滲む左肩を右手で押さえながら、武蔵はボソリと呟く。

 今世における初めての実戦、命懸けの戦いであったが、武蔵は小さくない手傷を負っていた。命に係わるほどではないが、それでもナイフで切り付けられたぐらいのものではある。両親が見れば心配するだろうし、間違いなく怒られるだろう。

 だが、それよりも何よりも武蔵には気掛かりなことがある。


「俺の剣は……二天一流では、この異世界では通用しない」


 今宵の戦いでは、はっきりとそう気付かされてしまった。二天一流とは、言うなれば対人専用の剣術。人間以外の存在、それこそ魔物と戦うことなどは想定していない。今は筋力の関係で二刀を持って戦うことは出来ないが、仮に前世の全盛期の力を持った武蔵であったとしても、そのままでは魔物やギフトという異能が存在するこのマグナガルドで戦い抜くことなど出来ないことだろう。

 それが証拠に、武蔵は今回の戦いで小さくない手傷を負った。肉体的には致命傷ではないが、剣士としては致命傷だ。技も何もない、本能のみで襲ってくる魔物相手に遅れを取ったのだから、あまりに未熟、天下無双など夢のまた夢だ。


「前世の剣……二天一流では駄目だ。新たな剣を、このマグナガルドで戦い抜き、天下無双へと至るための新たな剣を編み出さねば………………ッ」


 前世で剣豪であったなどと驕ってはいけない。ここは異世界。また一番下から這い上がっていかなければならないのだ。

 両の拳をぐっと握り締め、強く奥歯を噛みながら武蔵は天を睨んだ。

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