第48話「鬼と狼」
「おう、とりあえず片づけたぞ」
「と、とりあえずってお前……」
幾の肩越しに無数の魔獣の死体を、ゼラがぷるぷると指を指している。
「お前、そこまで強かったか……?」
「あー、世界樹のリンゴを食べたからだな」
「んだと!? なんでそんなもん、お前が持ってたんだ!?」
「ほら、あの八百屋……いや、おやっさんから買ったんだよ。んで、それをミールがジュースにして飲ませてくれた」
「あ、あー……なるほど、なのか……?」
うむむ、と腕を組んでるゼラの様子がおかしいらしく、アルータはくすくすと笑った。
「強くなったのね、イクツ」
「うん、まぁ、その……みんなのおかげでな」
さすがに気恥ずかしく、幾はアルータから目をそらして頬を掻いた。ふと、キスティがヴァルガににやにやとした笑みを差し向けていた。
「ヴァルガ、あなた……イクツを本気で敵に回さなくてよかったわね?」
「う、うるせぇ! 俺だって、世界樹のリンゴを食べればあのぐらい……!」
そのやり取りがなんだかおかしくて、幾はついぷっと吹き出してしまった。
「イクツさん……!」
アーデルは両手を固く組み、もはや神を崇拝するが如き目を輝かせていた。彼の機転がなければ世界樹のリンゴは没収され——今、こうして立つこともかなわなかっただろう。「ありがとうな、アーデル」と言うと、絶頂に達したかのように両目をとろんとしていた。ちょっと危ない。
「イクツ……」
ミールはまだ涙目で——それでも、嬉しそうだった。彼女の機転もまた、幾を救うものだった。改めてお礼を言おうとした時——それはやってきた。
鋭い、衝撃音。とっさにバチを立てていた幾には、急接近してきた〈ゴル・ガルン〉の爪は届いていなかった。
「……!」
「そういえば、お前には借りがあったな……〈ゴル・ガルン〉」
「——グルゥオオオオ……ッ!」
なおも爪に力を込めようとする〈ゴル・ガルン〉。だが、幾のバチはぴくりともしない。彼の足すらも動かせていない。業を煮やした〈ゴル・ガルン〉がもう一方の爪を振り上げようとした時、幾は向き直った。そして彼の目を見るや――〈ゴル・ガルン〉の動きが、一瞬で冷えついたように硬直した。
「お前……何か勘違いしていないか?」
「…………!?」
「狼ごときが、鬼に勝てるとでも?」
〈ゴル・ガルン〉のみならず、その場にいる全員が――それを見た。幾の全身から立ち上る魔気の集合体を。それは巨大な顔だった。憤怒の形相をし、すべてを見下ろし、頭から二本の角を生やした——人ならざるものだった。
「————!」
〈ゴル・ガルン〉が後ろに跳んだ。
いや——退いたのだ。
あの、〈ゴル・ガルン〉が恐れをなした。またしても全員それに驚き――幾の背中を注視している。彼の背後にあった魔気の集合体はかき消えたが、全身から立ち上る威圧感に誰もが言葉を失っている。
もちろん、今の光景をムズウが見ていないはずがなかった。
「何をやってる! 相手は死にぞこないだぞ! 〈ガルン〉の頂点に立つお前が、人間ごときに
「グルゥ……」
幾は「やれやれ……」とため息をついた。できればミールとも話をしておきたかったのに。
だが、時間がない。この瞬間にも世界は『喰われ』、二つの世界の統合が
内心に芽生えたかすかな焦り――それを吹き飛ばしたのは、ミールだった。彼女は「イクツ」と短く呼びかけて、拳をぐっと前に突き出した。
「あんな奴、ブン殴っちゃえ」
幾は一瞬だけ虚を突かれ——「そうだな」と笑って返した。
再び仲間たちに背を向け、幾はずんずんと前に歩いていく。当然、その先には今しがた屈辱を味わったばかりの〈ゴル・ガルン〉がいて、敵意と殺意をあらわに立ちはだかっていた。
ふと——背後から「イクツ」とアルータの声が飛んできた。
「その〈ゴル・ガルン〉はムズウが使役魔法で呼び出したものよ。たった一撃でも、奴にまともにダメージを通せば、消えてしまうはず」
「あ、そうなのか。なるほど」
だが——
「ハッ、忘れたのか!? そこの〈ゴル・ガルン〉にゃあ、あのアンバート家の娘ですら一撃かませなかったんだぜ!? てめぇがどれだけ強くなろうが、この〈ゴル・ガルン〉に——」
「黙ってろ」
「……なに?」
「黙れって言ったんだよ、ムズウ。お前の相手は後でしてやるから」
ひらひらと手を振る。投げやりな幾の言葉に、ムズウの目元が限界までひきつり——「おい、〈ゴル・ガルン〉ッ!」
その声に弾かれるように、〈ゴル・ガルン〉が幾目がけ、爪を振り上げた。ただの爪ではない——風の魔法をまとい、速度を上げたものだ。常人ならば爪が届くよりも前に、風で吹き飛ばされるか、斬り裂かれてしまうだろう。
だが、今の幾は常人ではない。
〈ゴル・ガルン〉の爪が魔獣の死体ごと、大地を切り裂いた。その衝撃は宿舎にも届くほどで、他の建造物をも巻き込んで大きな爪痕を残した。
しかし、〈ゴル・ガルン〉の爪の先に幾はいない。気楽に、ぽんぽんとバチで肩を叩いている幾が、すでに背後に回り込んでいた。
「ただの力任せだな。下手くそだ」
その言葉は——〈ゴル・ガルン〉のプライドをいたく傷つけただろう。究極の〈ガルン〉であるはずの自分が、人間に馬鹿にされたという事実に、我慢ならなかっただろう。歯をむき出しにし、眉間にきつくしわを寄せ、幾を睨みつけた。
「オオオオオオオオオオオッッ!」
雄叫びを上げ、両爪、両足を駆使して幾に襲いかかる。幾はそれらをバチで受け止め、あるいはかわし、あるいは流して攻撃をそらした。幾の目は〈ゴル・ガルン〉をしっかりと捉え、手、腕、肩、胴体、足——すべての部位がどう動くのかを、瞬時に察していた。〈ゴル・ガルン〉からすれば、あらゆる方向から無数の目で見られているようなものだ。
「……!」
あらん限りの力を込めて歯ぎしりの音を立て、〈ゴル・ガルン〉は宙に向かって跳んだ。両手を広げると、風が下から上へと吹いていく。その風が〈ゴル・ガルン〉を中心に取り巻き、巨大な竜巻を作った。
「グルゥオオオオオオオオオ!!」
〈ゴル・ガルン〉は真上に両爪を立て、風の勢いをコントロールし、自らの体ごと幾にぶつけんとした。衝撃の余波で木の葉や枝木どころか、大地も、魔獣の死体も切り刻んでいく。
だが——それでも幾は動じない。
「風には、風だな」
幾がそう口にした時、〈ゴル・ガルン〉の竜巻と、両爪はすでに肉薄していた。ぴっ、と頬や額に血が走った瞬間——幾はすぐさま、あごが地面につきそうになるほどの低さで身を屈めた。
「——!!」
「曲目三番……〈
両爪の直撃を避けた幾は、ほとんど真上にあった〈ゴル・ガルン〉の腹部を下から上へと押し上げる。片足を立て、かろうじて腹部への一撃を防いだ〈ゴル・ガルン〉だったが——それでも空中に吹き飛ばされていった。
「グ、グルォッ!?」
〈ゴル・ガルン〉の視界に、幾がいないことに動揺し——背後から迫る気配に、ばっと体を向けた。そこには肩に両のバチを添えた、幾の姿があった。
「曲目二番……」
「ガ、ガァアアッ!」
「〈
〈ゴル・ガルン〉の最後の反撃も虚しく――幾の二打は爪を砕き、まさしく雷が落ちたがごときの衝撃を受けた。一直線に大地に叩きつけられたが、それでも――なんとか立ち上がろうとしている。
「ガ、ガァァ、アア……」
着地した幾を見上げ、体を震わせる〈ゴル・ガルン〉。恐怖などではなく、屈辱と怒り――それを証左するように、爪を砕かれてもなお、牙を立てようとした。だが、しゅん、しゅん、と自身の体が青白い光に包まれていることにようやく気づいた。
一撃を通したことで、使役魔法の効果が切れてしまったのだ。
「グォオッ、グオッ、グルォオオオオオオ……!」
それでも〈ゴル・ガルン〉は必死に幾に手を伸ばそうとして——その手が線になり、天に昇っていく。四肢も、胴体も、そして頭部も。最後に雄叫びをしたが——その声すらも、途中でかき消えてしまった。
幾はそのすべてを見届け——そして、振り返ってムズウを見上げた。「なんでだ……」と歯ぎしりを立て、体をぶるぶると震わせる様は、もはや今までの余裕も嘲る笑みもなかった。
「なんで、こんな……もう少しなのにッ! てめぇらにとことん絶望を味わわせて、世界まるごとぶつけちまって、なのに……なんでだよ、クソがッ!! どいつもこいつも役立たずかよッ!」
地面もないのに、ぶんぶんと足を揺すっている様は——駄々をこねる子供そのものだった。
だから、言ってやった。
「無様だな、ムズウ」
「なに……!?」
「お前を守る魔獣は一匹もいなくなった。世界の統合がどうのと言っていたが——その前にお前をブン殴ればいいだけだ。次元を超える力があろうと、無尽蔵の魔気があろうと、お前は俺に勝てないよ」
「ふざけんじゃねえ! てめぇなんかしょせん、俺のコピーだろうが! まがい物風情が、俺に偉そうに説教垂れてんじゃねえぞ!!」
「お前が勝手に言ってることだろうが」
そう。ムズウの種明かしは、あくまでムズウ一人が言い張っているものだ。交錯世界——影響し合う、ふたつの世界。それにより生み出されたもう一人の自分。だが、それが本当だとしても、どちらかに優劣をつける権利は誰にもない。
人の世界と自分の世界とを比べて、評価して、一喜一憂して——それで一体どうなるというのか。
「お前は俺を利用して、この世界を混乱に陥れた」
「あ……?」
「俺の仲間を傷つけて、
「それがなんだっていうんだよ!」
「そして俺の妹と友達を、貴様は侮辱した」
「……!」
——決して、許さん。
「貴様は、潰す」
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