第46話「鬼、降り立つ時」
「何よ、それ……どんだけ心配したと思ってんのよ! イクツのバカぁー!!」
ぽかぽかと殴ってくるが、あまり痛くない。「ごめんな」と頭を撫でてやると、ミールは顔を真っ赤にし――両目から涙をこぼした。そのまま
「心配、したんだから……」
「わかってる。ありがとう」
彼女の体が自然に離れたのを見計らってから、幾はベッドから降りた。すぅーっと息を吸ったところで、「アーデル! 俺のバチと服はッ!?」
「は、はい! ここにッ!」
「あ、わ、わたし――窓の方見てるから!」
幾はすぐに衣服を手に取り——「これは……?」と眉をひそめた。見た目こそ変わらないが、アーデルが用意した戦闘衣は
「アルータさんとキストウェル様が、優勝賞品の銀貨を全部注ぎ込んで、ババルさんに作らせたんです」
「そうか、二人が……」
しっかりこの感触に浸っていたかったが——そうもいかない。幾はすぐさま袖を通し、下も履き替えたところで、「ミール、状況は!?」
「最悪よ! みんな苦戦してる! 魔獣はわんさかだし、ドラゴンも〈ゴル・ガルン〉もいる! アルータがなんとかここを守ってくれてるけど……これ以上は
「そうか……よし、着替え終わった。こっち向いていいぞ」
ミールがこちらを向く。籠手、脛当てを着け終えた幾に見とれている様子に見えたが、ごまかすように咳払いしていた。
「イクツさん、これを!」
そう言ってアーデルが差し出したのは、銀色の装飾品だった。
幾はそれを見——苦笑した。
「まったく、恐れ入るよ。ババルさんは本当にいいセンスしてるな。これじゃあまるで……鬼じゃないか」
「おに……って、あの古い文献に出てくる……?」
「この世界だと、オーガってのが近いのかな? まぁ、どっちでもいいか」
幾はその装飾品——もはや鬼の角と呼んでいいものを頭にはめた。自然と背筋が伸び、胸を張る形になる。腹の底からふつふつと、戦意が湧いてくるようだ。
「よし、そろそろ……」
「あ、待って下さいイクツさん! もうひとつあります!」
アーデルが最後に持ってきたのは、縄だった。一見すると何の変哲もない普通の縄のように見えるが——
「ババルさんがサービスで作ってくれました! どんな敵が相手だろうと、絶対に逃がさない魔法の縄です!」
「へぇー。そいつは便利だ。じゃ、それも受け取っとく」
縄を腰に巻きつけ、バチを背中に装着し——「それと、アーデル」
「は、はい……?」
「すまなかった。君のこと、信じてやれなかった」
アーデルは虚を突かれたように——くしゃっと顔を歪めた。「違う、違いますよ……」と、今にも泣きそうな声で、首を横に振る。
「そこは、僕が謝るべきところじゃないですか。僕が、お金なんかに目が眩んだばかりに……!」
幾は彼の肩にぽんと手を置き、ほんのちょっとだけ力を込めた。世界樹のリンゴのおかげで温まった体の熱が、少しでも彼に伝わるように。
そして、ミールの方へと振り返り——「ミール」
「う、うん……」
「さっきの言葉さ。その……嬉しかったよ」
「……うん」
「絶対、返事するから。負けないから、俺」
ミールは涙の跡を拭うようにして——「うん。気をつけて」
幾はゆっくりと口を曲げて、「よーし」と体を伸ばした。
「しばらくまともに体を動かせてなかったからな。準備運動しとかないと」
手足をぶらぶらし、屈伸し、軽く飛び跳ねるつもりでジャンプした時——幾すらも仰天する事態が起こった。屋根をぶち抜き、空を突き抜け、トキトーリの全景をも見渡せるほどの高さを、幾はたったひと跳びで到達したのだった。
しかし、そこで幾が口にしたのは——
「やべぇ、モーさんに怒られる……」
いくらなんでも効果がありすぎだろう——幾は落下しながら、ため息をついた。
ふと——ドラゴンに乗っている、ムズウと目が合った。目の前の事態が信じられない様子だった。ふっ、と軽く口の端をつり上げてやり、それから幾は地上へと視線を向けた。
迫る――地面。普通なら死ぬ高さだ。
だが幾はまるで臆することなく、両足で着地した。地震と錯覚するほどの衝撃が、魔獣たちの動きを止めた。
そしておもむろに面を上げ――アルータたちを取り囲んでいる魔獣たちを一瞥した。突如として現れた幾を前に、驚きと怯えと困惑が見え隠れしている。
「失せろ」
幾の一言——それだけで魔獣はざあっと、まるで波が引くようにアルータたちから離れた。混乱しているのは魔獣だけではなく、アルータたちも同様のようだった。
「……イクツ、なの?」
宿舎に一番近い位置にいたアルータに近づき、彼女の手を取って支えてやる。
「悪い、待たせた」と言うと、「ほんと、遅い」と頬を膨らませ――そして、申し訳なさそうに顔を伏せた。
「あの……イクツ。さっきのは……」
「うん、さっきのはかなり効いた。……ってことで、借り貸しはなしってことでいいかな?」
アルータは灰色の目を見開き——口を弓なりにして、「そうね」と答えた。
そして——
「イクツ! お前……ほんとにイクツなのか!?」
「レディをこんなに待たせるなんて、普通なら処刑ものでしてよ」
「チッ……来なくてもいいものを」
ゼラ、キスティ、ヴァルガも集まってくる。皆、傷だらけだ。どれだけ長い時間、苦戦を強いられてきたのだろう——どれだけ、自分を待っていたのだろう。それを思うと胸が締めつけられてくる。
だが、今は心を痛めている場合ではない。
「何をビビッてやがる、魔獣ども! 死にぞこないが一人増えただけだろうが!!」
ムズウの怒鳴り声がよく聞こえる。どうやら五感も大幅に強化されたらしい。焦りと怒りに満ちた彼の顔が、手に取るように見えた。
「ゼラ、アルータを」
「あ、ああ……」
「キスティ、ヴァルガ、少し休んでてな」
「そうさせてもらいますわ」
「ふん……見せ場は譲ってやる」
「あ、忘れるところだった。アルータ、ちょっとだけ火をくれ」
「仕方ないわね。……ほら」
火の
「危ない危ない。それにしてもすごいな、この〈纏石〉……」
「イクツ、大丈夫?」
「大丈夫、大丈夫。さっきのでコツは掴んだから」
気楽に、火のついたバチを振ってみせる。アルータたちも、さすがに呆れている様子だった。
「さて――」
バチを両手に、前へ進む。
相手は数百頭の魔獣に、〈ゴル・ガルン〉、ドラゴン、そしてムズウ。
耐えかねたようにゼラが、「おい、イクツ……!」と声を上げた。一人でやるなんて無茶だ、と言いたいのだろう。
だが——
「あのさ、俺。一度だけ言ってみたかった
「あ? なんだよ、それ……」
「——ここは、俺に任せろ」
肩越しに振り返って、幾はアルータたちにそう言った。自分でもらしくないと思うほどの——笑顔で。
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