第45話「必然の果ての奇跡」

 不思議なものが、いくつの前にあった。


 中央には円形の、黒い塊。それを囲むようにして色とりどりの三角形や四角形などが綺麗に配置されている。


 見覚えのあるものだ。これは——自分が美術の課題で描いた、『心の奥』だ。変わり者の教師の望月が褒めてくれたもの。自分の——幾自身の心境がよく出ていると、評されたもの。


 距離を取ってみると、額縁がある。まるでコンクールで金賞に輝いたような、立派な装飾が施されている。


(これは一体、なんの冗談だ——?)


 幾は周囲を見回した。絵と額縁以外、何も見えない。真っ暗闇だ。自分が浮いているのか、立っているのかさえもわからない。


 しかもなぜか、現実世界での制服を着ている。〈ゴル・ガルン〉によって貫かれたはずの腹部は、まったくの無傷だ。


(ここは、どこなんだ——?)


 ふと、背後に気配を感じた。振り返ると、男子がうずくまっていた。小学生ぐらいだろうか。近づいてみると、その男子は——小学三年生の時の自分だった。目は虚ろで、手に包帯を巻いている。


(ここで、何をしているんだ——?)


 すると、驚いたことに言葉が返ってきた。


(待っていたんだ)

(……何を——?)

(待っていたんだよ、君を)


 子供の頃の自分はそう言って、立ち上がって、どこかへ去ってしまった。呼びかけても、振り返る気配はなかった。


 次に目にしたのは、中学生の時の自分だった。その表情は暗く沈んでいた。彼は学校の椅子に腰かけていて、何をするでもなくただ手を組んでいた。


(ここで、何をしている——?)


 返ってきた言葉は、同じだった。


(待っていたんだ)

(まさか——?)

(待っていたんだよ、君を)


 中学生の自分もそう言って、またどこかへ歩いていってしまった。


 途方に暮れたその時——声がかかった。


(やぁ、やっと会えたね)


 振り返るまでもなく、幾は誰が声をかけてきたのかを察することができた。果たして——目の前にいたのは、もう一人の幾だった。自分と同じ制服を着ていて、鏡を見ているようにまったく同一だ。


 しかし、ムズウではない。あの、人を見下した態度もすべてを嘲る笑みもない。目の前の幾は、ただ静かに微笑んでいるだけだった。


(誰なんだ、お前は——?)

(君自身にもわかってるだろう? 僕は君、君は僕。もう一人の君。怒り、憎しみ、悲しみ、そして喜び――あらゆる感情をすべて受け止めている、そういう役割を担っているんだ。あ、流れ込んできてるといった方がいいのかな?)


 うーん、と目の前の幾は指をあごに添え、考え込んでいる。


 まず、確認しなければいけないことがあった。


(俺は、死んだんじゃなかったのか――?)

(生きてるよ。ギリギリだけど。今、アーデルが回復魔法を使ってるところ)


 くるんと指を回すと、闇の中に光の輪が生まれた。そこに映っているのは紛れもなくアーデルで——必死の形相で、確かに魔法をかけている。彼の周辺から察するに、幾の部屋に運び込んだらしい。


(……ミールは——?)

(彼女なら大丈夫。ほら)


 くるん、とまた光の輪を生み出す。彼女は幾の手を、祈るようにしてただ握っていた。顔は見えなかったが、きっと、恐怖と悲哀に染まっているだろう。


 心が——痛い。


(……みんなは? 無事なのか?)

(外の音、聞こえる? うーん、見えるかな……)


 両手を動かし、いくつもの光の輪を作る。宿舎の前で、複数の黒い影がうごめいている。その中で剣を振り回し、魔法を放ち、戦っているのは紛れもなくアルータたちだ。


 数百頭を超えるのではないかと思うほどの魔獣は、宿舎の前に集まっていた。おそらくムズウが呼び出し、操っているのだろう。


 そしてムズウは——幾にとっては漫画やゲーム上の存在でしかなかったはずのドラゴンに乗っていて、にやついた笑みでアルータたちを見下ろしている。地上には〈ゴル・ガルン〉も控えているだろう。さらに——空も山も大地も、すべてのものが『喰われ』ようとしている。


 すべてが、絶望的な状況だった。


(もう、何もかも終わりじゃないか。なのに……どうしてみんな、まだ戦ってるんだ——?)

(待っているからに決まっているじゃないか、君を)

(俺を——?)

(みんな、君を待っている。君がきっと目を覚ますって信じてるんだよ)


 幾はその言葉に驚き――「はっ」と自嘲気味に息を吐いた。


(何を馬鹿な。俺一人が目を覚ましたぐらいで、どうにかなるもんか——)

(まぁねぇ。普通、そう思うよね。魔獣は数百頭はいるだろうし、ドラゴンも〈ゴル・ガルン〉もいる。よしんば倒せたとしても——無尽蔵の魔気を持つムズウまで辿り着く頃にはボロボロだろう)

(だったら、なんで――!?)

(知らないよ、そんなこと。君の知らないことを、僕が知っているわけないだろう。でも、さっきこう言ったはずだ——『みんな、君を待ってる』と)

(それが、なんだ――?)

(君自身が、本当はそう思っているってことさ。みんなが自分のことを待っているんだと、そう信じているってこと。君が我を失ってムズウに挑んだ時の後、君はみんなに見放されたって思ったはずだ)

(…………)

(でも、本当は信じてる。信じたいんだよ。みんなが、君の帰りを待っているってことを。諦めてないんだよ、みんなも……そして、君自身も)


 不意に、声が聞こえた。アーデルとミールのものだ。


「ダメです、どうやっても傷が塞がりません! もう手遅れです……!」

「ダメでもやるの、アーデル! 絶対、イクツを死なせないで!」


 他にも、戦っているみんなの声が聞こえた。


「ちくしょう、こいつら……次から次へと!」

「くそったれ、あの野郎! いつまで人を見下しているつもりだッ!」

「ふふふ。さすがに、これだけの敵を相手にしたことはありませんわね……!」

「諦めないで、みんな。まだイクツがいるから」


 アルータの声が響いて聞こえる。


 なぜ、そこまで信じられるのか。


 わからない。わからない。わからない——


「そうだ!」とアーデルが思い出したように、がばっと立ち上がった。


 そして部屋を出て、ほとんど間を置かずに、布袋を持って飛び込んできた。乱暴に手を突っ込んで取り出したのは、どこかで見たような木箱だった。


 その中身は——黄金に輝くリンゴ。


「アーデル、それは!?」

「世界樹のリンゴです! これを食べさせれば、必ずイクツさんは復活します! これだけは——これだけは絶対に没収されないように、僕が隠し持っていたんですッ!」


 幾は呆然としていた。まさか、あのリンゴがここで出てくるとは。そしてアーデルが機転を利かし、今の今まで隠し持っていたことも、まったく予想していなかった。


「じゃあ、今すぐそれを!」とミールが手を伸ばしかけたが、「待って下さい!」とアーデルが素早く制止する。


「世界樹のリンゴは確かに、死者をもよみがえらせる力があるといいます! ただ、ひと口かじっただけで残りが腐ってしまうんです! 蘇らせるだけならまだしも、あの軍勢とムズウを相手にするには……!」


 その通りだ。しかも幾は今、死にかけている。リンゴをかじるほどの力さえも残っていないだろう。


 だが——「ひと口、と言ったわね?」


「え? は、はい……」

「ひと口で全部食わせれば、絶対に復活するのよね?」

「そ、そりゃそうですが……不可能ですよ! そんな手があるわけが——」

「ちょっと、待っててなさい!」


 今度はミールが飛び出した。扉を半開きにしたままだったので、騒々しい音が聞こえてくる。次に彼女が姿を現した時、手にはまな板、フライパン、ザル、木べらといった調理器具を両手に抱えていた。


 それを見たアーデルは「ま、まさかッ!?」


「そうよ! アーデル、手伝いなさいッ!」


 ミールは幾の机の上にあるものを全部押しのけ、まな板を置き、そして——世界樹のリンゴを、ほとんど光速ともいえる勢いで切り刻み始めた。リンゴは腐る気配もなく、砂粒ほどの大きさになってもなお、金色の輝きを保っている。


「アーデル! 水に火を!」

「了解!」


 アーデルはわずかな水を引いたフライパンの下に手を当て、火をかける。あっという間に沸騰したその水に、ミールはためらいなくリンゴを残らず流し込んだ。砂糖も振り、慎重に加熱していく。柔らかくなったリンゴはもはや原型を留めておらず、ペースト状になっていた。それをザルに落とし、さらに小さくすり潰すことで果汁がボウルにぽたぽたと落ちていく。


 果汁も残った欠片もまとめてコップに流し込み、牛乳と混ぜる。ミールはコップに手を当てて温度を確かめ、「うん、完成よ!」と意気込んだ。


「じゃ、じゃあ今すぐイクツさんにそれを……!」

「待って、アーデル! 今のイクツは重傷よ! だから、ゆっくり飲ませないといけない。一滴でもこぼしちゃダメ! いいわね……!?」

「は、はい……!」


 ごくり、と唾を呑む音が、幾の耳にも聞こえた。


 幾は唖然としていた。そんな手があったとは、思いつきもしなかった。ひと口で全部食えないなら、すり潰してジュースにして飲ませるなど。確かに、ひと口もつけてはいないが——下手したら包丁を入れた時点で腐っていたかもしれないのに。


(ほらね)ともう一人の自分が言った。


(誰も諦めていない。それどころか今、奇跡を起こそうとしている。必然の果ての奇跡をね)

(なんだそれは——?)

(自分のやってきたことを思い出せば、わかることじゃないか。君はすでにムズウに打ち勝つための準備を整えていたんだ。少しでも気を抜けば、こうはならなかった。君がこの世界でやってきたことが、築いてきた関係が、手に入れたものが、すべてひとつになろうとしている。それは奇跡と呼ぶに等しいものだ)

(…………)


 どくん、と心臓が跳ねた。闇に閉ざされていたはずの世界が、徐々に明るくなっていく。ミールとアーデルが幾に世界樹のリンゴのジュースを飲ませているのだ。慎重に、ゆっくりと、確実に。


 だが、それを見ても幾は一歩も動けなかった。


(どうしたんだい?)

(……思ったんだよ。俺、この世界にいていいのかなってさ——)

(ムズウの言葉を気にしているんだね)

(〈交錯世界〉。もし、奴の言うことが本当なら――)

(君がここにいるだけで、この世界になんらかの影響を与えてしまう。それは果たして良いことなのか、悪いことなのか。そう考えてしまうよね)

(よく、わかるな――)

(そりゃあね。僕は君だから。……それで?)


 幾はうつむき、(ここでの暮らしは楽しい——)


(本当に楽しいんだ。あんな世界のこと全部忘れて、俺のことを好きだと言ってくれる人や、友達と一緒にいられたら、きっと幸せだと思う——)

(なのに、君はためらっている。仮にムズウを倒せたとして、それでどうするのか。この世界に留まるのか、それともあの世界に帰るのか)

(…………)


 もう一人の幾は立った状態で足を交差し、後ろ手を組んだ。


(別に、ここにいてもいいんじゃないの? 誰も君をとがめやしないさ)

(…………)

(人間、誰しも逃げ道は必要だ。有瑠あるだって、君がいなくても立派にやっていけるはずだ。魔法もない、退屈で、つまらないしがらみばかりのあの世界に、未練も執着もないはずだろう?)

(……その通りだ——)


 もう一人の幾は——「煮え切らないねぇ」とため息をついた。


(でも、これだけは覚えておいた方がいい。……どの道を選んだとしても、君には残酷な現実が待っている)

(そう、だな……わかっている——)

(わかっているからこそ、ためらうんだね。でも、その前に君はやらなければいけないことがあるはずだ)

(ああ、そうだな――)

(わかっているなら、さっさと行きなよ。いつまでも彼女を悲しませてるんじゃないよ、まったく)


 もう一人の幾は呆れつつも、人懐っこい笑みを浮かべていた。


 ふと、絵入りの額縁が形を変えた。それは長方形の物体になり、幾の全長を超える高さになった。そして幾を誘うように、内側から光を放っている。そして先ほどまで幾の視界をすべて覆っていたはずの闇がひとつにまとまり、飛び、長方形の物体に貼り付いた。


 色とりどりの様々な形で構築された扉。ドアノブは——黒だ。


 幾はその扉の前に立ち、もう一人の自分に顔を向けた。


(やっとわかった気がするよ。俺がどうするか、どうしたいか――)

(お役に立てたなら何より。……二度と出会わないことを祈るよ)

(そうだな。いつまでも自分の顔と突き合わせるってのは、気持ち悪いしな――)

(言ってくれるじゃないか)


 二人の幾は笑い合った。心の底から。


 黒いドアノブに手をかけ、開く。


 視界のすべてが、黄金の光で包まれていく。その光に呑まれるように、もう一人の幾は消え去った。軽やかな微笑みと共に。


 手に、足に、力が戻っていく。


 五感が目覚めろと告げている。


 幾はその声に従い、かっと目を開けた。目の前のコップを掴み、残りのジュースを飲み下していく。仰天しているアーデルとミールにも構わず、最後の一滴すらもしっかりと味わい――ぷはーっと息を吐いた。


「あ――……美味かった」


 できればもう一杯、飲みたいぐらいだった。

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