第43話「回想」
初めて人に暴力を振るったのは、小学校三年生の時だった。
妹の——目の見えない——
気がついた時にはその同級生を、顔中血まみれになるほどに殴りつけていた。歯も飛んでいたらしく、手に傷が走ったのはその時だ。どれだけ泣いても、
担任がすぐさま駆けつけてきて、幾を羽交い絞めにしようとした。だが、幾は腕のひと振りで担任を壁に叩きつけた。他の教職員が何人も覆いかぶさるようにして、ようやく止められた――はずだった。
幾はそれでもなお立ち上がり、教職員の制止をも振り切ろうと、半ば引きずるようにして、必死に逃げる同級生を追いかけようとした。タックルをしかけた体育教師がいなかったら、殺人を犯していたかもしれない。
当然——この騒ぎは教育委員会にも知れ渡るほどになった。
幾の処遇をどうするのか。そのことで教師をはじめとした大人たちの
罪悪感など持たなかった。
感じる必要もないと思っていた。
そして——幾が暴力を振るった同級生は、間を置かず転校した。彼の親が訴えようとしていたらしいが、自分の息子が「目の見えない妹を持つ兄をからかった」という事実を前にして黙り込んでしまった。幾の親が支払ったのは、治療費のみだった。
幾は特別支援学級に移された。障害のある子たちが集まる場だ。知的、視覚、聴覚、身体——様々な障害を持つ子たちの中に混じり、幾はそこで残りの三年を過ごすこととなった。
ほとんど、
契機となったのは、特別学級のグループ活動での和太鼓実習だ。
実際にバチを握り、太鼓を叩いてみる——その成果を発表会という形で演奏するのだ。
生まれて初めて握るバチは、まだ小学三年生の幾には太かった。それでも――幾はそのバチを、見事に使いこなしてみせた。のちに、幾自身が〈土の構え〉と呼ぶ――太鼓を正面に置いて、軽く腰を落として、振り上げたバチを振り下ろした時、その衝撃がすべてを震わせた。
誰もが唖然としていた。同時にその目には、怯えの色が含まれていた。特別支援学級の生徒が知っていたかはともかく、保護者も教師も幾がしでかしたことを思い出してしまったのだろう。
(そりゃ、そうか——)
半ばぼんやりと、そう考えていた時——和太鼓の講師がやってきて、「やるじゃないか」と言ってくれた。三十代後半と思しき、筋肉のついた男性だ。人懐っこい笑みを浮かべていて、幾は——自分に笑顔を向けてくれたのだと察するのに、時間を要した。
「君、名前は?」
「志村……幾です」
「いい名前だな。太鼓は初めてか?」
「はい」
「すごいな。初めてでそれか。才能があるのかもしれないな」
才能——生まれて初めて聞く言葉だ。
しかし、幾にはどこか縁遠い言葉に思えた。
自分には人を傷つける才能に長けているのではないかと、この時点で自覚していたのだ。
和太鼓実習は週に一回の頻度で行われた。幾は様々な演目を覚え、〈構え〉を覚え、バチの振るい方や太鼓の叩き方なども徹底的に覚えた。その吸収力は講師すらも舌を巻くほどで、「うちの同好会にスカウトしたいぐらいだ」と言ってくれた。
しかし——幾には我慢ならないことがあった。
一人で叩くぶんにはまだいい。しかし、人と合わせて叩くとなるとどうしてもリズムが狂う。下手くそが、と内心で罵ったことはいくらでもある。他の実習なら普通に他の人に合わせていられるのに、こと太鼓に関しては苛立ちが募るばかりだった。
それを一番、
ある日。実習の途中で、幾は講師に呼び出された。二人で相談室に入り、二人で椅子に腰かけた。
そして、「なぁ、幾」と講師から切り出した。
「お前は上手いよ、本当に上手い。でも、もう少し人に合わせるってことを覚えなくちゃあだめだ」
「……なんでですか」
「一人で叩く演目も、あるにはある。でもな、太鼓ってのはチームでやるのがほとんどだ。一人だけ上手いとな、悪目立ちしてしまうんだ。それじゃあ誰も見てくれない。そして……仲間からのやっかみを買うこともあるんだ」
「それの何がいけないんです」
「幾」
「俺が上手ければ、みんな俺に合わせて自然に上手くなるでしょ。そっちの方がいいじゃないですか。俺にできることが、他の人にできないわけがないでしょ。やろうと思えばやれるんだよ、みんな。俺の妹だって、一人で色んなことをこなそうと頑張ってるんだから」
その時の講師は——同情や哀れみとは違う——とても悲しい目をしていた。当時の幾には、彼がどうしてそんな顔をしているのか、本当にわからなかった。
「幾……よく聞け。一人でなんでも背負うな。一人でなんでもできると思うな。お前や、お前の妹がたとえそうであったとしても……他の人はそうじゃないことってのがある。人に合わせるってことができない人もいる。一人じゃ、生きていけない人もいるんだ。お前のその考え方は、そういう人たちを
「俺は、そんなつもりで——」
「……幾、この話はもう止めにしよう。お前とはきちんと腰を据えて話したいが……いかんせん、時間がない。発表会が終わったら、俺はお役御免だからな」
「だ、だったら先生の同好会に入れてもらえれば――!」
だが、講師は首を横に振った。「今のお前を入れるのは、危険すぎる」と言って。
危険——それは、あの事件のことをいっているのだろうか。この講師はそのことを知っているのだろうか。だから入れないと、そう言うのだろうか?
自分が一番上手いのに。大人だって――舌を巻くほどなのに。
講師とはそれっきり、面と向かって話をすることがなくなった。幾はできるだけ、極力腕の振りを小さくして、周りに合わせるように努めた。だが、思いきり叩けないことにストレスを感じていた。
発表会が終わっても、まるで気持ちは晴れなかった。講師はその時点で——彼自身が言っていた通りお役御免となり、もう会うこともなかった。連絡手段もその時点ではなかった。個人情報がどうとやらで、住所や電話番号を教えてくれることさえなかった。
そして——幾は中学校に上がった。小学校とは別の区だ。
そこには和太鼓部があった。幾は当然、そこに入った。当時の先輩たちすら圧倒するほどの腕前で、「すごい」「すごい」ともてはやされた。「幾には負けていられないな」と、メンバー全員が練習に力を入れるほどだ。
年に一回、和太鼓のコンクールがあった。幾はそこでも見事な腕前を発揮し、銀賞をもらうことができたのだ。大勢の人々が幾たちに拍手を送っていた。幾たちを照らす明かりがとても眩しく見えた。
太鼓は楽しい——心底、そう思えた瞬間だった。
二年生になっても順調だった。コンクールでもまた、銀賞を取ることができた。
ただ、幾はそれでは満足できなくなった。どうせなら金賞を取りたい、と思うようになったのだ。
三年生になり、練習にさらに熱が入るようになったが——半面、他人のミスに対して非常に
それに他のメンバーが気づかないはずがなかった。特に、とある女子の一人は幾に対して怯えていた。「私が一番下手だから……」という理由で、幾から厳しい眼差しを向けられることを、何よりも恐れていた。
コンクールの一週間前——それは起きた。
全体練習をしている時、
幾はため息をついていた。苛立っていることがはっきりとわかるほど。
メンバーの一人が、「やめろよ、幾。そういうの」と言った。幾がどれだけ金賞にこだわっているのか知っていた上で、
「俺は何も言ってない」
「言ってなくても、態度でわかるんだよ。今のお前、感じ悪いぞ」
幾はメンバーの顔を見回した。誰も、まともに顔を合わせようとしてくれない。バチを落とした女子は、今にも泣きそうになっている。
「ごめんなさい、またミスしちゃって……」
「……大丈夫。次から、気をつければ……」
優しく言ったつもりだった。苛立ちを抑えているつもりだった。
だが——彼女は「嘘だ……」と言ったのだ。
「そんなこと、全然思ってないでしょ。またミスしやがってとか、そんな風に思ってるんでしょ……!」
「ダメ!」と他の女子が止めようとしても——止まらなかった。
「志村くん、私のこといつもそういう目で見てるよ! 足手まといだって思ってるんでしょ!? 今度のコンクール、何がなんでも金賞取りたいの、知ってるもん! 私のこと邪魔だって――絶対、そう思ってる!」
「やめろ、朝倉!」
「志村くんにはわからないよ、わたしの気持ちなんか! 太鼓すっごく上手いもんね! 上手いから、下手な人の気持ちがわかんないんでしょ! 私だって、私だって……頑張ったんだよ、これでも! それでもダメなんだよ! そういう人の気持ち、考えてみたことあるの!?」
目を真っ赤にして、その女子は泣いていた。
幾には何も答えられなかった。
周りの目が——冷たく、暗い。それだけでなく、恐れも混じっている。関わりたくないと思っている。あの時、同級生を殴りつけた後の、大人たちのように。
一人では、太鼓を叩けない——
そんな当たり前のことを今さらのように思い出して——幾は無言で、音楽室から出ていった。それきり、和太鼓部には戻らなかった。コンクールの結果がどうなったかなど、幾にはもはやどうでもいいことだった。
あの講師に会って、話してみたいと思ったことはある。その時もまだ、同好会は続いていた。直接赴けば、必ず会える――会えるのに、幾はそうしなかった。今度は同情の目で見られるのかもしれないと思うと、どうしても気が進まなかった。
それから幾は一人、息を潜めるようにして学校生活を送った。誰とも話さない日など、珍しくもなくなった。高校に上がる時も、また別の区を選んだ。別の区であれば、もうどこでもよかったのだ。
有瑠だけは心配してくれた。どんな些細な変化でも敏感に感じ取り、「どうしたの、兄さん?」と尋ねてくるのだ。時にはそれが
どうしてかはわからない。単なる、兄としての意地かもしれない。くだらない男のプライドが、妹に話すことを許さなかったのかもしれない。もしくは――有瑠に心配をかけさせたくなかったのだろうか。
「いいから、自分のことを心配してな」と、いつものように有瑠の頭を撫でてやって、それで終わりという繰り返しだった。しかし、別の機会の時に——有瑠は幾の手をやんわりと払いのけて、こう言ったのだ。
「兄さん。友達はいる?」
ありふれた質問だった。「いないよ」とさらっと言ってやると、「そう」とだけ言って有瑠は自分の部屋に向かっていった。
有瑠がどうしてそんな問いをしたかはわからない。
ただ、これだけは言える。
俺に——友達なんていない。必要ない。
結局自分は、人を傷つけることしかできない。
人と接して、また傷つけるぐらいなら——最初から一人の方がいい。
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