第42話「『喰われ』ゆく空に」

 いくつが目を覚ましたのは——今では見慣れた、彼自身の部屋だった。あれからキスティたちは逃走し、この宿舎まで辿り着いたのだろう。ヴァルガの一撃のせいで背中が痛むが、気にしてなどいられなかった。


「イクツ……大丈夫?」


 不安そうに覗き込んできたのはミールだ。ぼんやりとした意識のまま、幾は答えず、無理やり体を起こそうとした。ミールが手伝ってくれたが——「ありがとう」という言葉も出なかった。


 今、幾の部屋には全員が揃っていた。アルータ、ゼラ、キスティ、ヴァルガ、アーデル、ミール。それぞれがうつむき、あるいは口元を結び、腕を組み、剣の柄を強く握り締めていた。


 言葉にするまでもなく、絶望的な状況であることは明白だった。


 今この瞬間にも、この世界は『喰われ』かけている。ムズウの言葉が真実なら、この世界を——幾のいた世界と統合させようとしている。その結果どうなるか、まるで想像がつかない。


 ムズウ自身の強さも、今の幾たちでは比較にならなかった。加えて彼は、〈ゴル・ガルン〉をも呼び出した。ゼラ、キスティ、ヴァルガの三人がかりでも、まともに相手にならなかったのだ。


 次元が違う。


 それが——彼らに突きつけられた現実。覆しようのない事実。


「これから、どうする」


 剣の柄を握り締めたまま、ヴァルガが切り出す。


「どうしようもねぇだろ……」とゼラが壁に後頭部を軽く打つ。


「〈ゴル・ガルン〉までも呼び出されてしまってはね……」とキスティすらも——半ば、諦めの吐息をついた。


 幾も同じ気持ちだった。だが、最後に言い放ったムズウの言葉が忘れられない。


 ムズウのコピーが幾で、アルータのコピーが幾の妹の——有瑠ある。二人の外見が酷似していること、目が見えないこと――似ている点が多すぎるのは、決して気のせいではなかったのだ。


 アルータは椅子に腰かけたまま、ぴくりとも動かない。ムズウとの会話は間違いなく彼女の耳にも届いていたはずだ。「アルータ……」とか細い声を出した時、「イクツ」と固い声が返ってきた。


「ミールから聞いた。あなたの妹……目が見えないんだってこと」

「そ、それは……」

「わたしに、自分の妹を重ねていたの? だから付き合ってくれてたの?」

「——違う。そんなつもりじゃない……俺は——」

「やめろ、アルータ! 今、そんなことを話してる場合じゃないだろ!」

「黙って!」


 割って入ろうとしたゼラが、凍りつく。


「不思議だった。なぜ、あなたの声がわたしの兄さんにそっくりだったのか。でも、今ならわかる。わたしの兄——ムズウのコピーがあなただったのなら、全部うなずける」

「…………」

「認めたくなかった。あんな人がわたしの兄だなんて。信じたくない、今も。でも――何より辛いのは、あなたが自分のことを話してくれなかったこと。そうと知っていれば、わたしとあなたは……」

「————」

「アルータ、やめろッ!」

「迷惑よ、そんなの……迷惑だわ。あなた、あの時……本気で怒ったでしょう? それは誰のため? 妹のため? わたしのため? それとも――自分のため?」


 ぱん、とゼラがアルータの頬を打った。


「言いすぎだ、馬鹿……!」


 そう言いながら、ゼラの手は震えていた。


 幾は何も言い返せなかった。あの魔闘まとう大会の時——ゼラに言った言葉がすべて、自分に返ってきた。


 否定できなかったのだ。有瑠と、アルータを重ねていたことを。だから気を許すことができたし、ほとんど無条件で信じることができた。彼女が色々なことで取り計らってくれたのに、自分はアルータを——妹と区別することができないでいた。


 だからこれは、自業自得——自業自得、なのだ。


 幾はベッドから足を下ろし、ふらりと立ち上がって、そのままドアの方へ向かった。ノブに手をかけて、「少し……外に出てくる」と言い残してから、部屋を出た。止める者は一人もいなかった。


 廊下をふらふらと歩いていると、人影のようなものが見えた。近づいてみると、これも『喰われ』てしまった生徒だった。こうして間近で見てみると、ぐちゃぐちゃに混ぜた絵の具をそのまま塗りつけたマネキンのようだ。宿舎のところどころも、『喰われ』ている。


 無駄なことだとわかっていたが、モルガナの部屋にも行ってみた。同様に『喰われ』た彼女は椅子に腰かけたままの状態で、奇妙な模様に染まっていた。初めてミールがこの光景を見た時、どれほど辛い思いをしただろう。


 おぼつかない足取りで階段を上っていく。気づけばいつの間にか、屋上に立っていた。ここから見える空も、山も、半分以上が『喰われ』ている。森も、湖も、そしてトキトーリの街並みもだ。


 ぺたり、と屋根に腰をつけた。まだ残っている部分が『喰われ』ていくのが見える。こうしている間にも、犠牲者が増えていく。なのに、どうしたらいいのかわからない。


 何も打つ手がない。


 このままこの世界は『喰われ』、幾のいた世界をも巻き込む。


 どうしようもない——何もかも、終わりだ。


「よっと……」


 不意に、隣に誰かが座った。ミールだった。


 彼女は諦観の眼差しで、空を見上げていた。


「アルータ、すっごく後悔してたよ。ひどいことを言ったって」

「そうか」

「このままこの世界、終わっちゃうのかな」

「……たぶんな」

「イクツの世界とくっついたら、一体どうなっちゃうのかな」

「……わからないよ」


 そこで言葉は途切れた。ミールだって不安で不安でしょうがないだろうに、何も言ってやれない自分が歯がゆかった。


 けれど——ミールがそばにいてくれることに、少し安心感を覚えていた。その事実は幾を驚かせていた。どんな状況でもミールが近くにいて、時には励まし、感情を共有し、支えてくれていたことを今さらのように思い出したのだ。アルータのそばに、常にゼラがいてくれたように。


 自分も、心のどこかでミールに依存いぞんしていたのだろうか。


 そう思うと、笑えてきてしょうがなかった。人のことを言えた義理ではないとわかって、自嘲したくなったのだ。あれだけゼラに偉ぶったことを言っておきながら——自分は、自分のことすらわかっていなかった。


 両手を組み、力を込める。人差し指から親指に走っている白い傷が、幾の眼前にある。それをしばらくじっと見ていると——「ねぇ」


「イクツ、ずっと聞きたかったことあったの」

「……なに?」

「その傷のこと。前は聞かなかったけれど、今、聞いてもいい?」

「それを聞いて、どうしようっていうんだ……」

「もうすぐ世界が終わっちゃうかもしれないんだもん。心残りになるようなことがない内にね。それに……」

「それに?」

「わたし、イクツのことが知りたいの」


 まるで予期しない言葉だった。


 自分のことを知りたいなど、今までに言ってくれる人は一人もいなかった。自分を理解しようとする者なんかいないと思っていた。


 ミールの目は真剣な光をたたえていた。


 その目をまともに見られなくて、幾はつい顔を背けてしまった。


「聞いたって、面白くもなんともないよ」

「それはわたしが決めることだよ」

「俺のことを嫌いになるかもしれない」

「それも、聞いてから決めること」

「…………」

「怖い? 自分のことを話すのが」

「当たり前だろう」

「そうだよね。わたしもね、自分のことを話す時、怖かったんだよ」

「…………」

「だって学校を焼いちゃうぐらいの力だもん。怖がられて当然じゃない? でも、イクツは変わらず接してくれた。それがどんなに嬉しかったか――わかる?」

「…………」

「嫌いになんか、ならないよ」


 ミールの言葉に、幾は面を上げた。小さな――とても小さな彼女の顔が、目と鼻の先にある。


「教えて、イクツのこと。あなたが抱えてること、全部」


 次に幾が口を開くまで、間があった。


「俺……」とかろうじて声を出し、ミールからトキトーリへと顔を向ける。次に空を見上げ、喉が詰まるような感触を堪えて、言葉を絞り出した。


 指に走る、白い傷——


「小学校三年生の時だったな……」

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