第41話「ムズウ」
オルトの体が
足がもつれそうになりながらも、なんとかオルトの元に駆けつける。彼が着ていた鎧は跡形もなく、そして——胴体のほとんどが黒く染まっていた。口から漏れる息にも力がなく、目の色が薄くなっている。
「オルト……オルトッ! しっかりしろ、オルトッ!」
幾は震えていた。〈シル・ガルン〉の命を絶った時とはまるで違う、足の底から冷えつくような感覚。目の前で人が死んでいく――それは幾に焦りと、恐怖と、混乱をもたらした。
「イ、クツ……」
かろうじて、声が聞こえた。とっさに口元に耳を当てようとして——がっ、と手を掴まれる。まだこんな力があったことが、幾にはとても信じられなかった。
「ま、ける、な……」
「オルト……」
「いつ、か……おまえを……超えて、みせ……」
言葉はそこで途切れた。オルトの手から力が抜け、地面に滑り落ちた。目は虚ろで、口を半開きにしていて、顔が青白くなって——手も、足も、何もかも、動く気配がない。
「やめろよ、オルト……なんの冗談だよ……」
幾は、彼の体を揺すった。もうわかっていることなのに、今、目の前の事実を拒絶したくてたまらなかった。もう一度、オルトの手を掴み――「オルト、目ぇ覚ませよ!!」とあらん限りに叫んだ。
「イクツ、ダメっ!!」
ミールがほとんど羽交い絞めにするように、幾の体を無理やりオルトから引き離した。「止めるなッ!」と叫んでも——「ダメだよ!!」と幾の声に負けない声量で叫び返される。
「オルトは死んじゃったんだよ! わたしたちを守って!」
その言葉で、幾の体からふっと力が抜けた。膝をつき、うなだれ――どうしようもないほどの無力感が全身を包んだ。
そして——
「最後の瞬間に
ムズウの声。
「なんですって……?」
「この野郎……!」
「取り消しなさいな、今の言葉……!」
「気に入らねぇ。ああ、心底気に入らねぇな……!」
闘志に満ちる、みんなの声。
そうだ、自分も——自分も戦わなくてはいけない。オルトの
ムズウを、殺さないといけない。
「……ミール、何か、武器はあるか?」
「え……?」
「武器、だよ……あのクソ野郎を、殺す武器だ……!」
ミールの顔が一瞬にして、恐怖に染まった。震える手で、なんとか背中に手を回して——二振りの、バチを取り出す。
それはガンデルが「出来損ない」と言ったものよりも、はるかに強化されたとわかるバチだった。黒と白に染めているのはそのままだが、先端に鉱石のようなものが鉄の輪で固定されている。おそらく、これが〈
〈纏石〉を使っている分、多少重くなっているが——関係ない。
取っ手も肌に吸いついてくる。長年の相棒のように。
何よりこのバチを握るだけで、力が湧いてくるのだ。
「あ、アーデルのおじいさんが……作ったものなの。〈纏石〉をつけて、世界樹の枝に樹液を全体に塗り込んで、それで……取っ手はあなたが倒した、〈シル・ガルン〉の皮を使ってるの。だけど、聞いてイクツ。これは——」
ミールの言葉はもう届いていなかった。幾はゆらりと立ち上がり、ふらりと一歩踏み出し——そのまま前に倒れかねない姿勢で、一気に駆け出した。アルータも、ゼラも、キスティも、ヴァルガも素通りして、愚直にムズウへと突き進んでいく。
「イクツ、ダメっ!」
「馬鹿野郎! 今のお前じゃあ――」
「ヴァルガ、わたくしの足に〈雷の
「指図すんじゃねぇよ! だが——やってやらあ!」
誰の声も、今の幾には聞こえなかった。
ただ、目の前にいるムズウを叩き潰したくてしょうがなかった。腕を、足を、胴体を潰して、それから頭を粉々にしてやらないと、とても気が済まなかった。
ムズウは
金属と金属とがぶつかり、激しい衝撃が幾の両腕を震わせる。
だが、ムズウの剣は折れなかった。
「……!?」
全力を込めて叩きつけたはずなのに、ムズウの剣は折れないどころか――ヒビひとつさえついていなかった。そしてようやく幾は気づいた。ムズウの剣は全体が、〈纏石〉でできていることに。
瞬時に疑問がわいた。
同じ〈纏石〉ならば、硬度は同じはずだ。なのに、なぜ――?
幾の反応を面白がるように、ムズウが高笑いした。
「わかんねぇのか? この剣にはなぁ、俺の
ムズウの手に、火の
「そぉら、受け止めてみな!」
幾はとっさに〈纏石〉を突きつけるように交錯し、かろうじて防いだ。今の受けた魔気によって、幾のバチの〈纏石〉が火と熱を伴っている。
いける! これなら——
そう思って〈火の構え〉に移行しようとして——両腕ごとバチが地面に沈んだ。攻撃を受けたわけでもなんでもない。ただ、バチが尋常じゃなく重い。これでは振ることも〈構え〉ることもできない。持ち上げることすら。
「あーはっはっはっは! どうやら〈纏石〉の特性も知らなかったみたいだな! 教えてやるよ! 〈纏石〉ってのはなぁ、魔気を浴びれば浴びるほど重くなるって性質があるのさ!! 二週間もブチ込まれていたてめぇ如きに、俺の魔気を浴びた〈纏石〉を振り回せるわけがないだろうが!!」
唖然としていた幾の横を、不意に何者かが走り抜けた。足に——黄金の脛当てに雷を纏っているキスティだ。飛び跳ね、回転し、そして——ムズウの側頭部に叩きつけんとする。
ムズウは左腕でそれを完全に防いだ。頭部に直撃はしなかったが——今の衝撃で、彼の左腕は完全にへし折れていた。だが、「いってぇなぁ……」とぼやくだけで、驚愕に目を見開いているキスティを見返す。
「やるじゃないか、さすが噂に名高いアンバート家のご令嬢。〈纏石〉を装備した
とっさに後ろに跳び、幾の隣に立ったキスティの横顔は——いつもの余裕など欠片もなかった。
ムズウはあくまで笑みを崩していない。左腕をひょいと上げたかと思うと、淡い、緑色の光が瞬き、瞬時に彼の腕が元通りになった。
「……!」
「だが——残念、俺は普通じゃないのでしたー。俺を殺したいのなら一気に心臓をひと突きにするか、頭を斬り落としてやらないとなぁ?」
「そうさせてもらうぜ」
いつの間にか、ヴァルガがムズウの背後に回り込んでいた。さらに、ムズウを挟むようにしてゼラも火の剣と共に肉薄する。ヴァルガの剣がムズウの首を、そしてゼラが心臓目がけて突きを繰り出したところで——
「土の
ムズウが唱えたと同時、彼を何重にも取り囲む土の壁がせり上がった。ヴァルガもゼラもその土の壁に突き飛ばされる格好となったが——かろうじてヴァルガは剣で衝撃を殺し、空中に浮かんでいた。
土の壁が地中に引っ込んでいく。そして、ムズウはヴァルガを見上げ――くいくい、と指を動かしている。
「
ヴァルガは剣を鞘に戻し、右手に火球、左手に雷撃を宿した。ムズウが見せた時と同じようにひとつに重ね合わせようとするが——彼の両手は震え、歯を食いしばり、ムズウと比べて時間を要している。
「ほーぉ、一回見ただけでできんのか。けど、無理すんなよぉ? そういうの、俺にしかできねーんだから」
「黙り……やがれッ!!」
ヴァルガは強引に、火炎と雷撃を結合した。ひとつに合わさった光球をただぶつけるのではなく、再び鞘から剣を引き抜いて、それに込めたのだ。長大な光の刃が空に向かって伸び――それを見たムズウは「ほぉ」と感嘆の吐息を漏らした。
「死——ねぇえええッッ!」
光を纏いし長大な剣が、一直線にムズウに振り下ろされる。その瞬間——ゼラの背中からの火の剣が、ムズウの全身を捉えた。
「やれ、ヴァルガ!!」
「指図すんじゃねぇ!!」
ヴァルガの剣がムズウの頭部を断ち切らんとした時——ムズウの足元から、魔法陣が発生した。そこから飛び出してきた何かが、ゼラの火の剣を切り裂き、そしてヴァルガの光の剣をも打ち砕いたのだ。
『なっ——』
驚いたのはヴァルガ、ゼラだけではなかった。この場にいる全員が等しく魔法陣から出てきたものの正体を知った時——絶望の風が、瞬時に駆け抜けた。
金色の体毛。
より太く、より強靭な四肢。
両手足の爪は、眩いばかりの光沢を放っている。
その全長は——〈ガルン〉の倍以上。
「ご、〈ゴル・ガルン〉ッ……!?」
「ウソだろ!?」
「冗談、きついわね……」
「あ、ありえないですよ……! 〈ゴル・ガルン〉を呼び出すなんて……」
がたがたと震えているアーデルを指さし——「ところがどっこい」
「俺には呼べるんだよ。色々苦労はしたが……その実力は折り紙付きだぜ? なんせ数百頭の同胞を喰い殺して、ようやくたどり着いた――究極の〈ガルン〉だからなぁ!!」
〈ゴル・ガルン〉が消えた——
いや、消えたように見えただけだった。瞬時に空を跳び、半ば呆然としているヴァルガを無造作に蹴り飛ばす。まともに地面に激突するばかりか、何度も跳ね、無様に転がっていく。
さらに――信じがたいことに、〈ゴル・ガルン〉は浮いていた。魔気を操ることもできるという証左だ。くるり、とゼラを見やった瞬間、彼女は身構える間もないまま、瞬時に距離を詰めた〈ゴル・ガルン〉の手のひと振りで紙切れのように吹っ飛んだ。
キスティが〈ゴル・ガルン〉の背後に回った。胴体を狙った、渾身の一撃——だが、〈ゴル・ガルン〉はそれを予測し、右腕一本で受け止めた。蒼白に染まる彼女の足を掴み、ぶおん、と放り投げた。
圧倒的な差だった。
ムズウ一人だけでもままならないのに、〈シル・ガルン〉よりもさらに進化した——〈ゴル・ガルン〉までもいる。
どうにもならない。どうにも――
幾が諦めに顔をうつむけた瞬間、地面に青白い線が走った。その線はムズウに、そして〈ゴル・ガルン〉の全身にも走る。
「おやおやぁ……」
「グル……」
幾は振り返った。見覚えのある青白い線——それは、アルータの白杖の先から発生したものだった。ただし今回は空間ごと包むようなものではなく、対象をムズウと〈ゴル・ガルン〉のみに絞っている。
さらにアルータの服の裾から、あの黒い蛇と白い蛇が出てきた。素早く地を這い、ムズウと〈ゴル・ガルン〉の体に巻きつく。ヴァルガの腕をへし折るほどの力で絞めつけられているはずなのに、どちらもまるで涼しい顔をしていた。
「——撤退よ!! ヴァルガ、立てるッ!?」
「なんとか、な……!」
起き上がったキスティが即座に言い放つ。比較的軽傷に近い彼女はゼラを抱え、ヴァルガと共にアルータの元へと駆け出す。
「イクツ! あなたも来なさい! このままでは殺されるだけよッ!」
殺される。そうだ、今の状況で戦えるわけがない——
立ち上がりかけた幾に、ムズウは見下ろしながら言った。
「おい。……お前は俺のコピー。さっき、そう言ったよな?」
「それが、なんだ……?」
「じゃあお前の世界にいる、お前の妹の元はなんだと思う?」
「————」
ムズウは世間話でも切り出すように、「アルータだよ、アルータ。情けない話だが——俺の妹だよ」
「アルータのコピーが、お前の妹なのさ。最初から不思議に思っていたろ?」
「やめ、ろ……」
よりにもよって今、それを言うか。それを言って——どうするというのか。今のムズウの言葉は、間違いなく彼女にも聞こえているはずだ。今の今まで伏せていたことを、こんな奴の口から明かされたくなどない。
「だがなぁ」となおも、ムズウは続ける。至極、残念そうに。
「出来損ないのコピーは結局、出来損ないのままだったなぁ?」
瞬間、幾の理性が消失した。気がついた時には、まだ魔気を纏っているバチを力任せに振り上げていた。
「貴ッ様ぁああああああああ!!!」
拘束されても、なおもムズウは嗤っている。嘲っている。
この脳天に、バチを叩き込めば――
「——!?」
背後から突然、衝撃が走った。「馬鹿がッ!」と罵りながら駆け寄ってきたのはヴァルガだった。強引に幾の体を引き寄せ、それから身を翻した。
意識が混濁している。何もかもがぶれて見える。ムズウの笑い声がこだましていて、瞼を開ける力すらもなく――幾はそのまま、意識を失った。
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