第16話「幾VSキストウェル」
女と戦うこともそうだし、周囲からの注目を浴びるのもそうだ。目の前の——キストウェルがムズウについて何を知っているのか。なんとかして聞き出したいが、自分の力と技で人を傷つけてしまったらということも。
その揺らぎは両手に現れていた。〈構え〉が完全じゃないのが、自分でもわかっている。
それを見たキストウェルは、いったん上げた
「来ないのかしら? じゃあ、こちらから行くわよ」
そう言うや、キストウェルは軽やかに歩いてきた。自分という存在を見せつけるように。だが、その目は鋭く幾に差し向けられている。
徐々に距離が詰まる――
だが、魔獣でもない人間相手に本気を出すわけにはいかない。本気を出したら——壊しかねない。
「遠慮しているの? 舐められたものね」
キストウェルはもうほとんど目と鼻の先にいた。手を伸ばせば、彼女の腹部に一撃を与えられる距離だ。しかしキストウェルは何をするでもなく、幾を見下ろしている。
「打ってみるといいわ。わたくしには当たらないから」
「なに?」
「それとも、その〈構え〉は
ぐ、と唇を噛む。
一撃だ、一撃で終わらせる。それしかない。女と本気でやり合うなんて、冗談じゃない。
「——はッ!」
右肩に添えられた幾の左手が——まったく同時に、右膝から左膝に溜めた力を移動させるように——キストウェルに向け、突き出される。
拳を握らない空手はかすりもしなかった。ほんの少し足をずらしただけのキストウェルが、「その程度?」とささやく。
「くっ!」
まだ間合いに入っている。今度は右手を——
キストウェルはすぐさま足を立てた。幾の手を真正面から受け止めるのではなく、足の外側に流してみせたのだ。幾の右腕がむやみに伸びてしまい、肩の筋肉に一瞬だけ痛みが走る。
「いい振りをしているわ。でも、力が入りすぎ」
どこかで——いや、確実に聞いたことのある言葉だった。記憶の一部が刺激され、ほんの一瞬それに囚われる。
キストウェルの一撃が来たのは、その時だった。
我に返った瞬間、視界の半分が黒く遮られていて——頭蓋骨が割れたかのような音がした。とっさに両腕で庇ったものの、体が大きく揺れ、幾は危うく膝から崩れかけた。頭を蹴られた、と気づいた時にはキストウェルの流麗な足が高い位置で、幾の首元を狙っていた。
「いいわね、あなた。今のを受けて倒れないなんて」
「……っ!」
「次はどう?」
今度は横蹴り。リーチが長い。かろうじて後ろに飛び跳ねるも、制服の一部が裂かれる。驚く間もなく、キストウェルの蹴りが上、中央、下と三方向に分けて襲い来る。その動きはしなやかで、まるで無駄がない。
両腕でしのごうとするが——何発も受けていられるものではない。受けすぎると今度は〈構え〉が取れなくなるからだ。テレビで見るようなキックボクサーの蹴りよりもはるかに速く、鋭く、そして伸びる。受け止めたと思ってもつま先が蛇のようにしなり、防御の上を飛び越えて確実にダメージを与えてきている。〈構え〉直す間もなく、幾は防戦一方となった。
「ぐ……!」
「この程度なの? ヴァルガに勝ったというのはまぐれなのかしら?」
キストウェルは足を踏み替え、器用にステップを踏み、そして幾の首元目がけてつま先を飛ばす。慌てて幾は両手を重ねるようにして防いだが、
ダメだ、勝てない——
幾は自らの敗北を半ば確信していた。
相手が女性だからというのは関係ない。蹴りの速度が尋常ではないのだ。様々な角度から蹴りが飛んでくる、というのは柔軟性のみならず支えとなる足の筋肉の使い方にも左右される。蹴りというのは手を使うよりも威力は高いがモーションが大きく、隙も出てくる。大抵の人間が力を込めて蹴ろうとすれば、自然と体がふらつくものだ。
だが、このキストウェルは違う。どれだけ蹴っても体の軸がブレない。バランス感覚も並大抵のものではない。この細い体にどれだけの筋肉が詰め込まれているのか、まるで想像ができなかった。
もし、このキストウェルが太鼓を叩いたりすれば——
幾はつい、苦笑を漏らした。こんな時にこんなくだらないことを考えたりするなんて。当然、キストウェルは怪訝そうな顔をしている。
「……なんなのかしら?」
「いや、すごくきれいな蹴りだなって思ったんだ」
「あら、ありがとう。……お世辞のつもり?」
「いや、本心なんだ」
幾はいったん、手を地面に下ろした。腰も落とさず、まったくの自然体で立つ。
「……?」
キストウェルが身構える。
幾は足を肩幅よりも広げ、軽く腰を落とした。両腕は腹の高さで固定する。息を吸い、そして細く長く吐く。
(
キストウェルはいつでも蹴りを繰り出せる体勢だ。しかも得体の知れない〈構え〉をとったことで、警戒しているはず。
(長期戦に入ったら——いや、どちらにしろ負けるか)
幾は半ば諦念の気持ちでいた。だが、このまま終われるはずもなかった。
このキストウェルの技は本物だ。一朝一夕で身につくものではない。尋常じゃない鍛錬を組み、足をまるで手のように自在に動かせている。そこまでできる人間など、あの世界にはいなかった。まだ、出会えていなかった。
だから、研鑽を積んだ「本物」には敬意を払うべきだ。たとえ勝ち目がなくても。
「準備はいいのかしら?」
「ああ」
「では……いきますわよ」
キストウェルがたん、と軽くステップを踏んだかと思うと——次の瞬間には彼女の顔が、ほとんど触れ合うような距離に縮んだ。そしてためらいなく、幾の頭部に足刀を放つ。
幾の左腕が——ほとんど反射的に——蹴りを受け止める。左手の感覚がなくなったばかりか、衝撃を殺しきれずに頭部が揺さぶられる。だが、幾は防御したと同時に、右腕を高く振りかぶっていた。
狙いは、キストウェルの肩——叩けば、さすがに崩れるはずだ。
しかし、幾の狙いは甘かった。蹴りをまともに受けたことで体勢が崩れたのと、キストウェルがわずかに身を引いたことで、右手は彼女の衣服をかすめただけに終わった。渾身を込めた一撃であったのと、頭部を揺さぶられたことで、幾の体が前面によろけかけた。
「——!!」
たん、と幾の肩に軽い衝撃が走る。見上げればキストウェルの体は宙を舞っていた。太陽を背にしたその姿に、目が眩んでしまった。
「なかなか楽しかったわ、シムラ・イクツ。でも——」
脳を揺さぶる、一撃。
視界が目まぐるしく切り替わり、すべての感覚が失われていく。
「わたくしを相手にするには、まだまだね」
その言葉を聞いたのを最後に、幾の意識は途絶えた。
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