第9話「使用人・ミール」
「あんた、意外とやればできるじゃない」
掃き掃除を終え、廊下を隅々まで確認したミールは不本意そうに
「お昼の準備とかはしなくていいのか?」
「もうとっくにその時間は過ぎているわ。お昼は学内にある食堂とか、個々の生徒に任せているの。今はそうね……洗濯の時間っていいたいところだけど」
「だけど?」
「あんた、女物の下着なんて洗えないでしょ」
「……そういうのは、自分でやるもんじゃないの?」
「たまに混ざってんのよ。ものぐさな生徒のね。だからあんたにはシーツの洗濯をお願いしたいわけ」
「なるほど……どうやって?」
偏見だが——まさか、この世界に洗濯機という文明の利器があろうはずもない。
「そうね」とミールは考え込んだ。
「そういえばあんた、魔気は使えるの?」
「マキ?」
「そこから説明しないといけないわけ? まぁ、簡単にいうと空気中に漂っている魔力のことよ。大抵の人はその魔気を自分の体に取り込んで、魔法を使える。上手い人だったらより多くの魔気を吸収して、より強大な魔法を使える。でも、下手な人だと……」
「下手な人だと?」
「……なんでもないわ。とにかく、魔気は使えるの? 使えないの?」
幾は首を横に振った。なにせ、ここに来てから一日も経っていないのだ。自分にそのような素養があるのかどうかもわからない。
「仕方ないわね、あたしと一緒にやりましょう」
「……もしかして、手洗いで?」
「当たり前じゃない。魔気を扱える人は別に仕事があるのよ」
幾は目頭を指で揉んだ。魔法という便利なものがある世界なのに、ここに来てアナログな手法で洗濯をすることになるとは思わなかった。
そこでつい、幾は地雷を踏んだ。
「そういえばミールって、魔法は使えないの?」
それなら簡単じゃないか、というニュアンスを込めて言ったつもりだったのだが——ミールはぎろりと幾を睨み上げた。
「今度それを言ったら、殺すから」
幾の反応をよそに、ミールは廊下を歩いていく。
ぬかった、と幾は渋面を作った。先ほどの三人組の会話をきちんと覚えていれば、あんなことを言わなくても済んだのに。これから一緒に仕事をする以上、余計なトラブルなど起こしたくなかった。
はぁ、とため息をつく。
人と関わるのはやはり苦手だ。
〇
使用済みのシーツを回収し、洗濯用の木桶を使ってひたすら手洗い。こればかりは慣れるしかなく、ほとんど無心で幾は手を動かしていた。おまけに中庭には陽が差しているから、じっとりと汗が浮かぶ。
でも、嫌な気分はしなかった。きっと草原を揺らす風が気持ちいいからだろう。中庭からは街並みを見下ろすことができるので、その風景も悪くない。小粒ほどの人間たちが動き回っているのを見て、「みんな働いているんだなぁ」とぼんやりと考えていた。
ちら、とミールを横目で見る。彼女は幾に目をくれる様子もなく、目の前の仕事に集中している。まだ怒っているのかもしれないと思えば、うかつに声をかけられるはずもない。
洗い終えた後は、シーツを物干し竿に引っかける。そういえば昔観たアニメで、こんな風に洗濯物を干していた。太陽を浴び、風に揺れる洗濯物を見ていると、よく乾きそうに思えてくる。
「ほら」とミールが何かを放ってきた。慌てて受け取ると、それは細長いビンだった。
「今日は暑いでしょ。ちゃんと飲んどきなさい」
ぶっきらぼうな言い方だった。「ありがとう」と伝え、ひとまず栓を開ける。中身は果汁入りの炭酸といった具合で、ラムネに似ている。
昔、お祭りに行った時のことを思い出した。妹の
今もそのラムネのビンは、有瑠の部屋に置かれている。今なら開けられるのに、有瑠は首を振って「これがいいの」と笑う。その時は、物持ちのいい妹に呆れたものだ。その頑固さにも。
「なーに、にやにやしてんの」
ミールの言葉に、はっと顔を引き締めた。
「この休憩が終わったら夕食の支度だからね。覚悟しときなさいよ」
「わかった」
「ふん、素直でむかつく。手際もいいし。あんた、どこでそんなことを覚えてきたの?」
「どこでって……」
幾は迷った。こことは違う世界から来たことを言っていいのか、アルータとゼラに確認していない。言っても信じてもらえるとは思えない。かといって、適当な嘘をつけばその後が怖いような気がする。
幾が答えあぐねていると、「まぁいいわ」
「誰にも話したくない事情ってもんがあるしね。だから今は聞かないでおく。……あんたの手の傷のこともね」
「ん……」
やはり、見られていたらしい。そんなに目立つだろうか——と自分の右手をまじまじと見る。ただ、本人を前にこうしてはっきりと言葉にして伝えてくれるのは、そう悪い気分じゃなかった。少なくとも噂話されたり、陰口を叩かれたりするよりはましだからだ。
「あ、ありがとう」
「礼なんて言われる筋合いじゃないわ。……うん?」
幾の体越しに何かを発見したらしい——ミールの顔がさっとこわばる。肩越しに首を向けると先ほどの三人組に加えて、長身の男子が
「あーら、こんなところでサボりかしら?」
「しかも男と二人じゃん。アツアツなこって」
「出来損ないのくせに、そういうことは優れてるんだねぇ」
へらへらと笑う三人組に対して、ミールは何も言い返さない——が、唇を噛んでいる。今しがたまで一緒に仕事をしてきた人が「出来損ない」などと言われているのを見ると、さすがに多少は不愉快にもなる。
「そのぐらいにしておけって。弱い者いじめなんてみっともないぞ」
せせら笑うように、長身の男子が言った。
黒を基調とした、縦に赤色のラインの入った制服。長い手足。細すぎず、太すぎない均整の取れた体つき。銀色の髪をひとつにまとめて肩に垂らし、ブルーの瞳は幾とミールを見下ろしている。絵に描いたようなイケメンだな、というのが幾の印象だったが——その目つきと歯を光らせるような笑いがすべてを台無しにしている。
「ところでお前、見たことのないツラだな。名前は? 何者だ?」
「……志村幾。ただの使用人だよ」
「使用人、ねぇ? このタイミングでか?」
幾が眉をひそめる。
「なんでも昨日、アルータとゼラが身元不明の男を引っ張り込んだらしいぜ。その次の日にお前が使用人として働いているときた。おかしいって思うのが普通だろ?」
「おかしいですわねぇ、それは確かに」
「アルータとゼラがねぇ? 三人でよろしくやってたんかな?」
「普通、あり得ないよねぇ」
下卑た笑い声を立てる連中を前に、我知らず手がこわばっていた。その手を包むようにしたのはミールで、「相手にすることないわ」と言う。
「ヴァルガはいつもこんな感じなのよ。余計なことをして怒らせたら……」
ミールの言う通りだ。まともに相手をしても疲れるだけ。こういう連中は自分より格下の人間を見つけてはいたぶって、楽しければそれでいいのだ。自分に歯向かうはずがないと心底思っているから。
だが——
「なんにしろ、アルータとゼラが男を引っ張り込んだなんて言いふらしたら、さぞかし面白いことになるだろうなぁ」
「停学? 退学かしら?」
「あらあら、かわいそうに」
幾はミールの手を振りほどいた。腹の奥底から不快感がこみ上げてくる。それが幾の体内でどくろを巻き、熱を持ち、指先が震えてくる。その感覚は、幾にとっては初めてのものではなかった。
ヴァルガは、「はん」と鼻を鳴らした。
「やっと挑発に乗ってくれたか。そうこなくっちゃな」
ヴァルガがひょいと指を一本立て、「〈バーン〉……」と口にするや、指先に小さな火の玉が浮かんだ。それを放り投げ、幾の足元の地面を吹っ飛ばす。土くれのひとつひとつに残り火がつき、後には抉られた跡が残った。
幾は唾を呑み込んだ。今度は魔法を使える相手。ゲームでの知識だが——予備動作がほとんどない、気楽そうに放ったことから、おそらく一番威力の弱い技だ。だが、こんなものでも脅しにはなる。
それを証拠に、ヴァルガは言った。
「ハンデはくれてやる。俺はこの右腕一本しか使わない。お前はなんでも使っていいぜ。……まぁ、ここにろくな武器があるんならな」
ヴァルガと、三人組の笑いは止まらない。
幾は深く長く、息を吐いた。それからおもむろに木桶にシーツを二枚放り込む。不可解そうな全員の視線に構わず、物干し竿を掴み上げて——なんのためらいもなく、膝を使って半分に叩き折った。
「まだ長いな……」
幾はいったん、折った木の棒の片割れを地面に突き刺した。手に持った一本をさらに半分に折り、地面のものもさらに折る。両端が尖ったものは投げ捨てる。先端が丸くないと、意味がないのだ。
長さとしては、手の指の先端から肘先程度。先日の木の棒のように曲がっているわけではないから、重心が安定している。物干し竿の後端から拳ひとつ分、手を上にずらして、幾は二本握りしめた。
「なんだ、そりゃあ……ふざけてんのか?」
幾はそれには答えなかった。腰を落とし、半身に構える。右腕を伸ばし、左腕は右肩に添えて——両目はヴァルガを捉える。
ヴァルガは不愉快そうに顔をしかめた。
「気に入らねぇな、お前」
「俺もだよ」
魔法を使うような奴とやり合うなど、無謀だ無茶だと頭が告げている。
だが——アルータ、ゼラ、そしてミールには義理がある。少なくとも自分を放っておかず、なんだかんだでこの世界でやっていけるように取り計らってくれた。そんな彼女たちを馬鹿にされて、黙っているままなら——自分は自分を一生軽蔑し続ける。それは確信できる。
風が吹き、二人の間で木の葉が舞い——その葉先が地面に触れた時、ヴァルガの右手が動いた。
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