第8話「管理人・モーさん」

「へぇ、この子が住み込みで働いてくれるってのかい?」


 早朝——陽も昇りきらない時間帯。


 アルータとゼラに誘われ、宿舎二階の個室に上がり込んだ時、いくつは仰天した。何しろ目の前で背もたれ付きの椅子に腰かけている女性は、美術部の教師——望月とまったく同じ容貌だったからだ。


「そうなんです。彼、他に行くところがないらしくて。……お願いできませんか?」


 アルータが頭を下げ、ゼラも幾も一拍遅れて続く。


「顔を上げていいよ。ふーむ……」


 望月にそっくりの女性は、頭からつま先まで幾をじぃっとと眺めた。ちなみに幾は今、ゼラが適当に用意した男子生徒用のシャツとスラックスを身に着けている。どこからかかっぱらってきたらしいのだが、詳細を聞くのは怖いので、幾はあえて言及しなかった。


「あたしはモルガナっていうんだ。あんた、名前は?」

「幾っていいます」

「イクツか。なかなか見どころがありそうだね。力仕事はできる?」

「あ、普通にできます。炊事とか、洗濯とか、掃除とかも」

「いいね。キッチンに立てる男ってのはそれだけでモテるもんさ」


 モルガナは気を好くしたように二度うなずいた。


「まずは……掃除をやってもらおうかね。ミール、いるかい?」


 その呼び声に応えるように、すぐさま小柄な少女が姿を現した。純白のエプロンを着けていて、髪は二つに束ねている。目つきは猫のように鋭く——ほんの一瞬だけ幾を睨んだかと思うと——すぐに愛嬌のある笑顔を浮かべた。


「お呼びですか、モーさん」

「今日からこの子が住み込みで働くことになったから。悪いけれど、仕事を教えてあげてくれないかい?」

「はい、かしこまりました!」


 元気よくミールが応える。


「さて」とモルガナは椅子から緩慢な動きで立ち上がった。


「まったく、歳は取りたくないねぇ。立つのも座るのも億劫だよ」

「っ……」


 つい、笑い声が漏れてしまった。アルータ、ゼラ、ミールが怪訝そうにしているのを見、なんでもないようにあごを上げる。言っていることが望月本人そのものなので、つい油断してしまった。


「じゃあ、イクツ。今日から——いや、今からミールの言うことをよく聞いて頑張るんだよ」

「はい、ありがとうございます」


 深く一礼すると、「よーし」と威勢のいい声が鼓膜を打った。


「さっ、あんた! 掃除の時間よ! ついてきなさい!」


 ミールがびしっと指を突きつける。背の高さだけでいえばこの中で一番低いが、声量は一人前のようだ。「あ、はい……」と大人しく彼女の言葉に従い、アルータとゼラの横を通り過ぎた。


 その時——「頑張ってね」とアルータから声がかかった。


 一瞬のことだったので、どう反応していいかわからなくて——「お、おう」と不器用に手を上げた。「大丈夫かねぇ」とゼラがぼやくように言っていたが、それは聞こえないふりをした。


「さて、あんたにはこれからモップ掛けをやってもらうわ!」


 階段の手前、縦に続く廊下でミールは腰に両手を当てていた。足元には片手で持てるサイズの木桶と、年季の入ったモップ。


「一応確認するけど、やったことはある?」

「えーっと、掃除機掛けなら……」

「何よそれ。バカにしてんの?」

「いや、してないって」

「とりあえずあたしが手本を見せるわ。一回で覚えなさい!」


 ミールは水の入った木桶にモップを入れた。根本までではなく、モップの半分を濡らしている。きっちりと無駄な水を落とし、それから床を掃き始めた。もちろん足跡が残らないようにしながら、上から下へ、右から左へとモップを動かす。


「どう?」

「うん、できる」

「お手並み拝見ってところね。じゃあ、やってみて」


 幾はミールがやった時と同じように、丁寧にモップを動かした。ミールよりも体格が大きいから、掃く面積も自然と広くなる。隅まできっちりと掃いてから、幾はミールを振り返った。


「どうかな?」

「……ふん。やるじゃない。でもね!」

「わかってるよ。この廊下全部をやれっていうんだろ?」

「ここだけじゃないわ、この宿舎全体よ! 腕がクタクタになったって、まだやることあるんだからね!」


 ミールは背を向けて、なぜか肩を怒らせて歩いていく。「どこに行くんだ?」と尋ねると、嫌そうに振り返った。


「あたしには他にもやることあるの! あんたの面倒ばかり見てられないから! 終わったら呼びなさい、いいわね!」


 そう言い残して、去っていく。初めての仕事なんだから優しくしてくれても——と思ったが、剣を突きつけられるよりはマシかもしれない。


「しょうがない、やるか」


 それから幾は無言でモップ掛けを徹底した。宿舎は三階建てだから大変といえば大変だが、毎日家事をこなしていたことを考えればさほど苦労にとは思わなかった。


 それに——やることがあるというのはいいものだ。


 少なくとも自分がここにいていい理由のひとつになるのだから。


     〇


 掃き掃除の最中に、ふと気になることを耳に挟んだ。


 窓から地上を見下ろしている、女生徒らしき三人組がいたのだ。ただの使用人として振る舞えばいいのに、幾はつい壁に隠れるようにしてしまった。


「あれってミールじゃない」

「ああ、あの出来損ないね」

魔気まきをうまく扱えずに火事が起こるところだったんでしょ? あれから見かけないなと思っていたんだけど、こんなところにいたのね」

「無様ね」

「ほんと、無様」


 女生徒たちの嘲るような声は、幾にとっては耳に馴染み深いものだった。幾の学校でも陰口を叩かれ、いじめに遭っている生徒もいた。公にはなってないがおそらく——不登校になっている生徒もいるだろう。生徒間の噂というやつは、自分のような奴にも届いてしまうものなのだ。


 幾はそれに干渉せず、また加担もしなかった。余計なトラブルなどとは無縁でいたかったし、被害に遭っている生徒に対してなんの義理もない——と思っている。「やめろよ」とか、無駄な正義感を発揮したところで、買うのはやっかみだけだ。よくてハブられるか、最悪自分がターゲットになることだってある。


 どうやらこの世界でも同じような事象が起こっているようだ。いや——人が集まれば、自然にこういうことになるのだろうか。ミールに同情心めいたものを覚えつつも、あの三人組に食ってかかるだけの気概があろうはずもなかった。


 だから幾は掃き掃除に専念することにした。さっきよりも念入りに。


 なぜだろう。 


 自分が悪いことをしたわけじゃないのに——どうしてここまで落ち着かないのだろうか。

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