第6話「トキトーリ(後編)」
街の名前はトキトーリというそうだ。
高い塀に囲まれていて、門の手前からでは建物も何も見えない。外側に物見台がいくつかあることから、外敵の侵入を警戒しているのだろう。遠くからだと一見平和そうに見えたのだが、実情は違うのかもしれない。
屈強そうな門番に怪しまれつつも、
そこでようやく、異世界に迷い込んだのだという実感を得た。
トキトーリはいくつもの建物が縦にも横にも連なり、ちょっと見上げれば石橋が塔と塔とをつないでいる。建物はいずれも——現代の無機質なコンクリートビルなどとは違って——レンガに色を塗ってあったりする。
手近な建物を見てみると、玄関口に温かい明かりが灯っていて、子供がわぁっと入っていくところだった。心なしか、窓からいい匂いがしてくる。見たことのない光景のはずなのになぜか懐かしく、それでいて胸がじんわりとする。
陽が沈んだためか、通りに並ぶ出店はどこも店じまいをしているところだった。その内のひとつ、後片づけをしている店主は白杖の音に振り返って、アルータとゼラを見て顔をほころばせた。
「おうおう、二人とも! こんな時間まで何をやってたんだ?」
「何って……まぁ、採集?」
「採集? 結果がそのへんてこか?」
「まぁ、そんなところ」
「なんで服が破けてんだ? 魔獣にでも襲われたのか?」
「ああ、まぁ、はい……」
「そりゃ、災難だったな」
店主は適当に箱をまさぐって、赤い球体のものをひとつ取り出した。「ほれ」と幾の手を引っ張って、半ば強引に押しつける。
「お前さん、見るからにこの街は初めてって感じだな」
「はぁ、まぁ……」
「この街は気に入るぜ。よそ者だった俺が言うんだから、保障する。アルータとゼラもいることだし、なんか困ったことがあったら、いつでも頼ってくれて構わないからな」
「……なんで」
幾は困惑の眼差しを、店主と赤い球体とを交互に見た。なんで、とつぶやいたのは単純に、初対面の人にここまで明るく接されることに慣れていないからだ。
ゼラが剣の柄で、強めに頭を叩く。
「こういう時は『ありがとうございます』だろうが! 人の厚意を
「……あ、ありがとうございます……」
「いいってことよ。いつでも来な!」
三人は店の前を離れ、石畳の通路を歩いていった。アルータとゼラは宿舎に住んでいるらしく、まずはそこで互いの素性などを教え合うことになっている。
幾は手元の赤い球体を見下ろした。色合いといい、重量感といい、質感といい、どう見てもリンゴである。
異世界なのにリンゴがあるって——不可思議に思いながらも、試しにひと口だけ
かじってみた。口の中で果汁が弾け、「うまっ!」と思わず口をついて出た。そのまま夢中になって、ほとんどがぶりつくようにして完食すると——アルータとゼラがこちらを向いていることにようやく気づいた。つい顔が熱くなってしまい、二人の顔がまともに見られない。
「へへっ」とゼラが笑う。
「ちゃんと人間らしいところもあるじゃねーか。少しは安心したぜ」
「ゼラ、それは言い過ぎというものよ」
「へいへい」
石畳を白杖で突きながら、アルータはゼラと共に歩いていく。先ほどの森とは違い、どこに何があるのかわかっているような様子だ。
彼女も歩き慣れている道は、こういう感じで突き進む。赤信号の前ではぴたりと止まるし、後ろから自転車が近づいてくると自然と脇によける。本当は見えているんじゃないかと疑ったことがあったが、その幾の内心を見透かしたように妹は「わたしには三つ目の目があるの」と得意げに言ってのけた。
目の前の少女——アルータもそうなのだろうか。
そう思っていた矢先、三階建ての建物が見えた。屋根つきで、横に広く、壁も真新しい。扉も木造りの立派なもので、金属製の取っ手もついていた。宿舎というには豪勢に思える出来だった。
「何をボケっとしているんだ。さっさと来い」
「あ、ああ……」
ゼラが扉を開き、アルータ、続いて幾が足を踏み入れる。
内観も立派なものだった。シャンデリアもあれば、正面の階段の両脇には花瓶が、壁には肖像画もある。心なしか足元もふわふわとしている。ここは宿舎だという話だったが、下手したら名のあるホテル並みかもしれない。さすがにボーイがやってくるわけではなかったが。
「まずはわたしと、ゼラの部屋に行きましょう」
臆面もなく、アルータが言ってのける。当然、ゼラはいい顔をしなかった。
「おいおい、いきなりこんな奴を連れ込む気か? 暴れ出したらどうする」
「その時はあなたがなんとかしてくれるでしょう? ゼラ」
「そりゃまぁ、そうだけどさ」
二人は幾の意見も聞かず、さっさと階段手前で曲がり、一階部分の廊下を歩いていった。幾はため息をつきたくなったが、我慢して二人の後に続いていく。
アルータとゼラ、二人はひとつの部屋を活用しているようだった。ルームシェアというやつだろうか。二段ベッドがあるのだが、下は間違いなくアルータだろうなと見当をつけた。
二人ぶんの机と、紺色のカーテンと、タンスの上に申し訳程度に置かれている花瓶。クローゼットもある。二人で暮らすにはまあまあの広さだ。ただ——ほのかにいい匂いがする。女性の部屋に入るというのは人生で初めてだから、戸惑う外ない。
「椅子、どうしようかしら」
「こんな奴は立たせとけばいいだろ」
「あ、大丈夫。その気遣いだけで充分だから」
そう、と言いアルータは自分の椅子に座る。ゼラは鎧も脱がず、机の縁にもたれかかっていた。椅子を使わないのなら、貸してくれてもいいのに——と思ったが、年頃の娘が普段使用している椅子を男子に座らせるというのは、さすがに抵抗があるだろう。
アルータが白杖を机の脇に立てかけて、「ようやく落ち着いて会話ができるわね」
「ああ、そうだな……」
「あなた、イクツっていうのね。そして異世界からやってきたと」
「ああ、まぁ、うん」
「どうやって?」
「……変な奴に飛ばされたんだ。光の輪みたいなものに吸い込まれてさ。気づいたら森の中にいて、化け物にも襲われるし、散々だった」
「化け物だと?」
ゼラの目が、幾の破れたシャツに留まる。
「その爪の痕……〈ガルン〉か?」
「そういえば、あいつがそんなことを言っていたな……狼の顔をしてて、体つきは人間みたいだった」
「どうやって逃げ切れた?」
「逃げ切れたっていうか、見逃してもらったっていうか……落ちていた木の棒で、なんとか撃退したんだ」
ゼラの両目が勢いよく開かれる。いきなり幾の胸元を掴み上げ、「嘘つけ!」と怒鳴った。
「ろくな武器も持っていないくせに、木の棒で倒しただと!? 嘘ばかり並べ立てているんじゃない!」
「だって、本当のことなんだ……!」
「アルータ! やっぱりこいつを牢屋にブチ込もう! こんな嘘つきを信用できるわけがない!」
血相を変えてまくし立てるゼラの手前——アルータは二人のいる方向に灰色の目を向けていた。
「ゼラ、やめて」
「だけどな、アルータ!」
「私たちはお互いのことをよく知らない。それに、彼はここがどういう場所なのかもわかっていないみたい。何も知らないまま牢屋に入れられるのはかわいそうよ」
「ん……ぐ」
ゼラは半ば強引に、幾の胸元から手を離した。首に痕が残るのではないかと思うほどの力強さで、げほげほと咳込んでしまった。
「イクツ、大丈夫?」
「あ、ああ……なんとか」
手を振って応えると、天井から鐘の音が聞こえた。
「やべ、食事の時間か。行かねぇと」
「そうね。……イクツ」
「は、はい?」
「この世界のことについて知りたいなら、わたしの書棚で適当に本を読んでみて。後で晩ご飯を持ってきてあげるから」
「あ、ありがとう……」
ゼラは不満げに鼻を鳴らし、アルータは白杖を手に取る。ゼラが先導する形でアルータと共に部屋から出——幾はぽつんと取り残された。
「…………」
なんとなく、窓の向こうを見てみる。夜間でもトキトーリに明かりは点いていて、活気の良さがうかがえる。遠くには草原と、おそらく自分が迷い込んだであろう森。その向こうの景色は山ばかりだ。空には星が浮かんでいるが、星に関する知識など持っていない自分には、ここの方角がどこかなんてわかるはずもなかった。
まるで知らない風景。馴染みのない場所。
あの少年はここで一体、自分に何をやらせようとしているのだろうか——
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