第4話「そして、異世界へ(後編)」
同時に、思い出す。今手に持っている木の棒なんかより、はるかに洗練されたバチで太鼓を叩いていた日々を。仲間と共にリズムを刻み、腹に響く音を叩き込む——あの楽しさを。
でも、もう取り戻せない。
自分にはそんな資格がないから。
獣人がそろり、そろりと距離をおいて足を動かす。先ほどとは違い、笑い声も出していない。両の爪を胸の高さにまで持ち上げ、こちらの動きを観察している。敵の動きをよく見ている——これまでは遊びだったということだ——もしかしたらこの獣人にとっては今、狩りを行っているつもりなのかもしれない。
幾はまず、二本の棒きれを鋭くかち合わせた。
獣人が俊敏に身構える。いつでも飛び出せる体勢だ。
それを気にせず、足を肩幅に広げ——木の棒と両腕を地面に向けて下ろした。
両肘は伸ばしすぎず、曲げすぎない。
腰を落とし、息を吐き、前方の獣人を見据える。
「人間相手じゃないのなら……本気でやってもいいよな」
確認するように、幾はつぶやいた。
睨み合いは十数秒続いた。獣人が体を左右に揺らしたり、爪を鳴らしたりしてみたが、幾はまるで動じない。無駄な揺さぶりは意味がないと判断したらしく、獣人は右の爪を振りかぶって幾に襲いかかった。
彼我の距離が詰まる。
獣人が動くよりも前に、幾はさらに腰を深く落としていた。右足を後方にずらして半身となり、右手に持った木の棒を後方に向け、まっすぐ伸ばす。そして左手は右肩に添える。身を低くしたことにより、獣人の爪は空振りに終わった。
幾の頭髪が宙を舞う——が、獣人の腹部ががら空きになる。
幾は腹部のさらに中央——人間でいえば
鼓膜にも、腹部にも、頭蓋骨にも響く音。
その衝撃で木の棒はたやすく砕け、獣人も背中から地面に吹っ飛んだ。
両手が震えている。耳の奥が熱い。息切れも起こしている。心臓の鼓動がやけにうるさく感じる。額のみならず、背中にも汗が流れ出た。膝から崩れ落ちそうになって、手から木の棒の残骸がこぼれ落ちた。
獣人は——顔は天を仰いでおり、そして腹部には赤い痕が二つ。「普通に」太鼓をやっていた時よりも力を込めてぶちかましたのだから、ただで済むはずがない。人間相手ならば、内臓破裂してもおかしくないのだから。
〈構え〉を取るのは、とても久しぶりだった。
だけど、とても気持ちが悪い。いくら相手が化け物とはいえ、肉と骨を持つ生き物に〈構え〉を取って打撃を加えるなど。
「はぁ、もう……なんなんだよ、一体……」
震える手で額を押さえる。ここがどこなのかもわからない、さらには化け物が突然襲いかかってくる。陽が落ち、周辺の陰影は濃くなっている。こんな獣人が他にもいたら、今度こそ生きていられる保証はない。
「ああもう、どうするかな……」
ため息をついたその時、視界の端で何かが動いた。それは体を起こしたばかりの獣人で、腹部についた二つの痕を見下ろし、震える手でさすっている。膝をつき、どうにか立ち上がったが、一歩よろめいた。
「ま、まだやる気なのか!?」
獣人は腹部を押さえ、幾を睨みつけながら——そのまま後ろ歩きで木々の奥へと消えていった。
後には静寂が戻ってきた。周囲を警戒しても、これ以上何かが襲い来る様子はない。
「なんだったんだ一体……」
ひとまず危機は去ったようだった。しかしこの暗い森の中で、一体何を頼りに歩いていけばいいというのか。
不意に——ぱちぱち、と拍手の音が聞こえた。
顔を上げると木の枝の上に、あの自分とうり二つの少年が立っていた。
「お前!」
「いやぁ、お見事。ろくに武器もない状態で、低級種族とはいえ〈ガルン〉を
「なんのつもりなんだよ、お前! 今すぐ元の世界に戻せ! こんな命のやり取りをしたくて、俺は異世界に来たってわけじゃないんだぞ!」
「おや、違うのか? その割には見事な戦いぶりだったけどな。……素人とは思えないぐらい」
幾は言葉を呑み込んだ。
少年はにたにたと笑みを崩さず、「ほれ」と手から何かを放り投げた。反射的に受け取った幾は、金色の——硬貨のようなものだと知って眉を寄せる。
「なんのつもりだ?」
「魔獣を倒したんなら、相応の
「こんなものいるか! いいから俺を元の世界に戻せ!」
「ダメダメ。お前にはここでやってもらうことがあるんだから」
「なんだと?」
ちか、と木々の奥で光が灯った。その光は——速度はゆっくりだが——こちらに向かってきている。
「邪魔が入っちゃったようだ。まぁいいけど」
「おい、逃げる気か!」
「さっきも言ったけど……ここで全部話したら、それこそつまらないじゃないか。まぁしばらくはこの世界での生活を楽しんでみてくれよ」
「待て!」と叫ぶが、少年はフードをまとうと同時に影に溶け込んだ。
「なんなんだ、あいつは……!」
苛立ちまぎれに手近な木に拳を叩きつける。すると、先ほどから近づいてきた光が止まる気配を見せた。ぼんやりとしか見えないが、シルエットからしておそらく人間だ。光はランプのものだったらしく、慎重にこちらに近づいてくる。
人間は二人——両方とも、少女だった。
一人は白くて長いケープを羽織っている。そしてもう一人は背が高く、鎧を身に着けている。片手にはランプを、もう一方の手は腰の柄に添えられていた。先ほどの獣人の目とはまた違う感触だったが、警戒されていることに変わりはない。
しかし——それよりも気になったのは、白いケープの少女だった。灰色に濁った両目の周りには細い神経がいくつも浮き出ていていて、白い杖で地面を叩くようにして歩いている。小柄で線が細く、この森を出歩くにはとても頼りない風貌だった。
「……
その少女の顔には幾にとって馴染んだ顔だった。何しろ、自分の妹とうり二つなのだ。服装こそは異なるが顔の輪郭も、目が見えないことも、白杖をついていることも、何もかも一致している。
「なんで、有瑠がここに……」
「その、有瑠という人が誰なのかはわからないけど……」
目の見えない少女は幾の声の方向に首を向けて、白杖をこつんと鳴らした。
「わたしの名前はアルータっていうの。それから、あなたの声には聞き覚えがあるわ」
「え?」
「私の兄さんにそっくりなの。なぜかしら……」
幾は呆然と立ち尽くした。
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