第一章 異なる世界編

第3話「そして、異世界へ(前編)」

 視界が回る。


 重力も何も感じられない。体がぐるぐると回っていて気持ちが悪い。周辺は真っ暗闇で、今どこにいるのかもわからない。


 頼りといえるのは、はるか向こうにある指先ひとつ分ほどの光。自分の体がどうなっているのかはわからないが、あの光に向かっているのだけは確かだ。もしかしたらあいつが——いくつの顔とそっくりの——少年が言った異世界につながっているのかもしれない。


 その光が手の届く距離になった時、光が急速に膨らんで幾の全身を包む。


 暖かく、柔らかい感触だ。そんな経験はないが、聖母に抱かれた感触とはこういうものなのかもしれない。


 しかしそんな感触の余韻に浸っている間もなく、幾は地べたに転がされた。しかも頭から。


「い、ってえ……」


 頭をさすりつつ、かろうじて立ち上がる。背後の魔法陣みたいなものは中心に収縮するようにして消えてしまった。


 ひとまず周囲を見回したが——森の中、という印象以外持てなかった。木々の合間から太陽の光がかすかに見えたこと、空が群青ぐんじょう色に染まりつつあることから、時間帯としては夕暮れといったところか。


 木の葉や草木がざわついている。


 ぞわり、と鳥肌が立った。幾は下手に動かないよう、さっきよりも慎重に辺りを探る。耳を澄ませば木の葉が擦れ合う音以外に、生物の呼吸音のようなものが聞こえてくる。


 ぺたり、と足音が近づく。草木や枝も踏みしめて。


 幾はゆっくりと振り向いた。木の陰から現れてきたのは、狼の皮を上からかぶった人のようなものだ。いわゆる獣人じゅうじんというやつで——ゲームでもマンガでも、どこのメディアでも最もポピュラーな化け物だ。


 コスプレではないかと信じたかったが、肌に密着している体毛、目つきの鋭さ、人間とは違う息遣い、作り物には見えない爪や牙の鋭さがそれを否定した。


 獣人といえば、大抵のゲームではザコとして扱われている。


 ただし——それを生身の人間が撃退できるかといえば話は別だ。


 人間以上に長い上腕も太腿も、プロレスラー並みの太さだ。体格でいっても幾よりひと回り以上大きい。いくつかに分かれた腹筋は、ひとつひとつが盛り上がっている。腰には布切れを何重にも巻いていて、尻尾が覗いて見える。


 低い唸り声を鳴らし、獣人は近づいてくる。牙同士の隙間からよだれが垂れており、両目は明らかにこちらに狙いをつけていた。


 無駄な試みと知りつつも、幾は尋ねてみた。


「な、なぁ。ここ、どこだかわかんないかな?」

「…………」

「そんな顔をしないでくれよ。俺、ちょいデブだけどあんまり美味くないと思うよ、多分……」


 幾が後じさりして、つい枝を踏む。


 その音が獣人に一歩、強く踏み込ませた。


「うわっ!」


 爪を振り上げ——今しがたまで幾のいた空間を——切り裂く。幾は大きく横に飛び跳ねていたが、その顔には恐怖の色が浮かんでいた。


 幾がかろうじて避けることができたのは、獣人の動きが単調だったためだ。手、腕、肩、胴体、足の動きを見ていれば、どのように攻撃を繰り出すかはある程度予測できる。


 太鼓で鍛えた目が、こんな形で役に立つとは。


 しかし、見切ることはできても体がついていかない。その証拠に幾のシャツは切り裂かれているのだ。血が噴き出たのではないかと青くなり、何度か腹をさする。かすっただけとはいえあんなもので攻撃されれば、首なんかあっさりと飛ぶ。


 ——逃げられるか?


 幾の脳裏にその考えがよぎる。しかし、目の前の獣人は相当速い。ここで背中を向けて逃げ出したとしても、背中から爪で貫かれるか、飛びかかられて喉を食いちぎられるかがオチだ。


「参った……」


 幾は周辺を見回した。何か武器がないかと期待して。


 そして——見つけた。すぐ近くに太く長い、木の棒が。それは幾の背丈ほどの長さもあり、何回か踏んづけてみて壊れたりしないことから、固さも申し分ない。やや曲がっているものの、武器として扱うには十分だ——幾はそう判断した。


 幾は器用に、片足でひょいとそれを持ち上げた。手に持ち、くるんと一回転し、重さと感触を確かめる。これだけの長さの木の棒を扱うのは初めてだし、杖術など扱えるわけがないが——ひとつだけ、考えがある。


 しゅっ、しゅっ、と獣人が牙の隙間から息を漏らす。笑っているのだろう。そんな棒きれで何ができる——そう、目が語っている。


 幾が木の棒で——先端を獣人に向けるようにして——構えたのと同じタイミングで、獣人が空中に飛び跳ねた。


 幾は木の棒で両爪を受け止めるが、獣人の腕力は凄まじかった。足が地面にめり込み、腰を落とさないようにするのがやっとだった。木の棒の頑丈さこそが救いだったが、一撃で真ん中から亀裂が走ったのを両者とも見逃さなかった。


 獣人が吠え、爪を次々と振り回す。


 受けるのではなく、流す——


 右から爪が来ればそれを幾の体の外側に流し、左も同様に行う。上から来れば木の棒を上段に構えながら、大きく体を横にずらす。

 

 かつて体に叩き込んだ技術を駆使して、ひとつひとつの攻撃をかろうじてしのぐ。だが、いつまでも続けられるわけではないことを、幾自身が痛感していた。猛撃のせいで息も乱れ切っているし、獣人の爪を受け止めた衝撃が手にも腕にも響いている。


(まだだ、まだ……!)


 どん、と背中に何かが押しつけられた。背後にあるのは大木だ。逃げ場がない。


 好機と見た獣人は飛び上がった。背中を反らし、両の爪を振り上げ、木の棒ごと幾を切り裂こうとする。


「——来たッ!」


 幾は木の棒を真横にして、獣人目がけて放り出した——が、獣人はたやすくそれを両断した。幾はとっさに地面に向かって転び、折れた木の棒の一本を回収する。


 大木に深い傷跡を残した獣人は笑い声を立て、幾に首を向けた。


 しかし次の瞬間、獣人は笑うのを止めた。


 幾は獣人が断ち切ったばかりの木の棒を二本、両手に持っていた。軽く振り、手首ごと回し、木の棒同士を軽くかち合わせている。


 訝しそうな獣人を前に、幾は重く長い息を吐いた。


「ありがとうよ、二つに折ってくれて」


 ほんの少し口の端に笑みを浮かべた幾に——獣人は足を一歩、退かせた。


「これでやっとまともに戦える」


 幾は二本の木の棒を握る手に、力を込めた。

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