第2話「志村幾という生徒」

 志村 いくつは本気を出したことがない。


 勉学でも、スポーツでも、人間関係でも。


 気の合う友達はいないし、当然彼女もいない。


 帰宅部だし、高校二年生という立場なのに先について何も決まっていない。進路指導の教師に呼び出されたのは一度や二度ではない。白紙の進路希望調査紙をぺらぺらと振って、「やりたいこととかないのか?」「お前はやればできるはずだ」「人生は一度限りだぞ」なんてお決まりの文句を口にする。


 幾はその度、乾いた声で「はぁ」と答えるだけだった。


 さんざん絞られて、進路指導室から出た時——数人の生徒とすれ違った。


 幾のクラスメイトだったが、まともに話したことはない。男子が二名、明らかにメイクをしている女子が二名。能天気にげらげらと笑っている。下手に目をつけられると面倒なので、幾は彼らの邪魔にならないよう廊下の隅を歩いた。


「ねえ、あれって志村だっけ?」


 女子の声が耳に届く。


「あー、そういえばいたっけな。そんな奴」

「目立たないよねぇ、あいつ」

「なんか中途半端なんだよな。誰かとつるんでいるわけでもねぇし」

「ぼっちってやつ?」

「おいおい、聞こえるぜ。……まぁ、ほっとこうぜ」


 声の大きい連中はそのまま歩いていった。ぼっちなのも中途半端なのも事実だから、幾は別に腹を立てたりはしなかった。


 先ほどと同じく廊下の隅を歩いていると、美術室から横幅の広い女性教師が扉を開けたところだった。眼鏡をかけ、髪にはパーマ、ふっくらとした頬。望月という名前にちなんで、生徒には「もっちゃん」と呼ばれている。ちなみに美術部顧問。


「おや、志村。どうしたん?」

「あ、先生……」


 望月は幾の手元の紙を見、「ははぁ」と納得したようにうなずいた。


「まーた怒られたのかい?」

「そうですね。やりたいことはないのかとか」

「まぁいいんじゃない? その歳でやりたいことが見つかる方なんて、稀なのにね」


 望月は美術室のドアに鍵をかけようとして——ふと、思いとどまった。


「ちょうどいいや、志村。少しお話でもしていかないかい?」

「え?」

「嫌だったら嫌でいいんだよ。どうせ、大したことじゃないし」


 幾はためらいつつも、「じゃあ」と小さくうなずいた。望月が扉を開け、促されるようにして手近な椅子に座る。塗料の匂いがして、机を四つくっつけただけの作業台には染みがついていた。


 望月は幾と対角線上の椅子に「どっこいしょ」と重たい尻を乗せた。


「さて、何を話そうかな」

「決まってなかったんですか」

「まぁ聞きたいことは色々あるんだけどね。といっても、進路のことじゃないよ」

「というと?」

「君自身のことだよ。なんていうのか、気になっちゃうんだよね」


「覚えてる?」と望月は美術室の壁を指さした。そこには入賞を果たしたキャンパスが並んでいる。テーマは確か、「心の奥」だ。円形と三角形と四角形とを自由に組み合わせて、それに色を塗るというものだ。


「あれさ、前に志村が描いたものがあるでしょ?」

「ああ……あのろくでもないやつですか」


 自分なりに描いてみたつもりだったが、中央の円を真っ黒に塗り潰してしまったため、全体的なトーンは暗いものになってしまった。


 ただ、望月は愉快そうに腹を揺らしている。


「あれね、志村の心境がよく出ているなぁと思ったんだ。確かに真ん中に黒を置くってのはリスキーだけど、その他の部分の色使いがきれいだった。中心に導かれるようにして色が配置されていて、面白いと思ったよ。もしも志村が本気で美術を学べばどうなるか、とかちょっと考えたね」


「本気、ですか」


 いったん、望月から目をそらす。その言葉を使われると落ち着かなくなるのだ。


「本気を出すのは苦手?」

「……どちらかといえば」

「若い人ってそういうのが多いねぇ。あ、大人でもそうか。でも、志村のはなんだか他の人とは違うなぁって気がするんだ」

「どうしてそう感じるんですか」

「ただの勘」

「勘ですか……」

「でも、まったく根拠がないわけではないよ。……例えば、その手の傷」


 幾はとっさに机の下で、右手を左手で覆った。右手の人差し指から親指にかけて線状の白い傷があるのだが、それを公言したことはない。他人に見せびらかしたこともない。できるだけ人の目に触れないようにもしているが、もしかしたら美術の時に——手を使う作業だ——見られていたかもしれない。


「古い傷だよね。気に障ったらごめんね。でも、君が本気を出さない理由とその傷とは関係があると私はそう思っている。どうかな?」


 幾は口を結び、数秒経ってから諦めたように吐息をついた。


「関係なくもないです」

「ふむふむ」

「でも、この場で話すことじゃないです」

「それでいいよ。無理して聞こうってつもりはないから」


 あっけらかんと望月は言った。それから思い出したように、ぽんと手を打つ。


「そういえば志村、中学で和太鼓やっていたんだって?」

「……まぁ、一応」

「この学校にも和太鼓部があるけど……その調子だと、入る気はなさそうだね」

「ないです」

「なんでだい?」

「いい思い出、ないですから」


「なるほど」と望月はうなずいた。「うーん」と腕を組んで天井を仰ぎ、むっくりと体を戻す。


「よし、わかった。進路指導の先生には、私の方からなんとかうまく言ってみる」

「え、なんでですか?」

「事情はわからないけれど、君は単に怠けているだけじゃないってことがわかったからね。時間はかかってもいいから、君が本気を出す機会が来ることを私は期待しているよ」

「……本気を出したって、いいことなんかないです」


 これは紛れもなく本心だった。


 望月は「そうだね」とうなずいた。


「今はそう考えてもしょうがない時期だと思う。でも、いつかそういうのに巡り合えた時、ちゃんとやらないと自分が損してしまうよ」


 望月は立ち上がり、背筋を伸ばした。ぽきぽきと音が鳴る。


「ああ、やだねぇ。立ち上がるのにも苦労する。歳は取りたくないもんだよ」

「……望月先生は」

「うん?」

「本気を出して、いいことありましたか?」


 望月は苦笑を浮かべた。


「あったこともあったし、なかったこともあった。本気を出したってろくな成果にならない、やってらんないって思ったこともある。そんなもんだよ。でもね、本気を出した経験があるからこそ、こうやって私は美術の教師になって、生徒に偉そうに語っているんじゃないかな?」

「…………」

「違うかい?」

「……わかりません」

「まぁ、いいや。ずいぶんと長話に付き合わせて悪かったね」

「いえ。どうせ、家に帰っても家事をやる程度ですから」

「ご両親ともお仕事?」

「はい。おかげで子供の頃から家事をこなすようになっていました」

「いいねぇ。台所に立てる男はモテるよ。……そういえば、妹さんもいるんだっけ?」

「はい。俺と違って、出来のいい子です」

「仲睦まじいことだね。うらやましいことだよ……家族は大切にしてやんな」

「はい。じゃあ、失礼します」


 幾は鞄を持ち、扉を開けて美術室から出た。


 去り際に望月の方を振り返ると、彼女は肩の上で手を振っていた。この学校の教師の中でも、望月はかなり話しやすい方だ。だからなのか、余計なことを口走ってしまいそうになる。


 ただ、望月は今日のことを誰かに言いふらしたりはしないだろう。変な人だが、そこは信用できる。


 今のやり取りはいったん横に置いて、幾は頭を切り替えることにした。家事の順番、夕食は何にするか、夕食が終わったら何をするか——その程度のものだったが。

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