木の導き
第19話
1944年の夏。七曜神社の神主の娘に楓という女がいた。楓の季節、秋はまだ遠い。この夏という季節、そしてこの街を楓は嫌いだった。大人になったら、東京へと上る。それが楓の漠然とした夢だった。楓は神社に続く苔むした階段を登り、裏手の池に回り、そこで風を感じた。ここは風の通り道だ。それを知っているのは、この街にあまりいない。
「楓」
涼んでいると、声をかけられた。
「吉彦さん」
そこには、短髪の大柄な男がいた。
「ここにいると思っていたよ」と吉彦と呼ばれた大柄な男は言った。
「この場所好きなんだもん」
「ここは、誰も寄りたがらない忌み場だ」
「吉彦さんもそんな事言うの?この木が呪いの木だなんて本気で思っているの?」
「村のみんなはそう言ってる。馬鹿らしいとは思うよ。でも佐伯のじいさんは、この木で首を吊っただろ?そんな所好き好んで、近づく奴はいないよ。この木に関わるとみんな気がおかしくなり、最後にはこの木で首を吊る」
「じゃあ、ここは私だけのものね」
吉彦はやれやれという顔をした。
「それより楓、知っているか?いよいよ戦局が怪しくなってきた事」
「どうなの?新聞では劣勢なんて文字はないけど」
「そんな事はない。空襲が各地で起こっている。こんな田舎まで来ないと思うけど。何があるかわからない。その前にさ。俺と、・・・籍を入れるっていうのはどうだろう?」
「うーん」楓は渋った顔をした。
「ほら、俺らも二十歳だ。頃合いだと思わないか?」
「そうね・・・」楓は言葉を濁した。
楓と吉彦は、幼馴染みで、なんとなく交際を始めて、一年が経つ。楓は吉彦の事が嫌いでは無かった。むしろ好意を持っている。でもこの吉彦に対する好意というものが、世間一般に言われている愛や恋、そういうものとは違うだろうと、楓はそう思っていた。それに楓には、東京に行くという夢もあった。
「ねえ、吉彦さん、もう少し待ってくれないかしら」
吉彦は、叱られた子犬のような顔をした。楓はこの顔が案外好きであった。
「ほら、吉彦さんも、今、仕事が忙しいでしょ?もう少し、目処がたったらね」
「今、支えて欲しいんだけどなあ」吉彦は短く刈り込んだ頭を掻き「わかったよ。この話は、また今度にしよう」と精一杯笑顔を作り言った。
「ごめんね」
吉彦はその場を跡にした。楓はまた木を見上げ「立派だなあ」と声を漏らした。
楓は神社の隣にある家へと戻り、途中で投げていた絵の続きを始めた。夜に佇むあの木を描いていたが、いくら色を重ねようが思うようにあの木の雰囲気を出せなかった。おどろおどろしい雰囲気の中にも優しい感じを表現したかったのだが、うまくいかない。この絵を書き上げる事ができたら、楓は東京で画家として、その道に進める自信が持てるような気がしていた。
楓は絵筆を置き、伸びをした。
楓は四兄弟の末っ子で、甘やかされ育ってきた事は自覚していた。上の兄弟はみな結婚し、楓だけが、家で家事の手伝いや巫女として神職の補助、画家の真似事をして気ままに生活していた。いつまでもこんな事をしているわけにもいかない事はわかっていた。
楓は居間へと出向き、夕食の準備をしている母と祖母の間に座り、新聞を広げた。
紙面には戦争のきな臭い雰囲気が漂っていた。
「どうだい?見合いは」と祖母が言った。
「お義母さん、この子は言っても聞かない子だから、言うだけ無駄よ。昔からそう、自分の思うようにしたいのよ。気ままなのよ。お父さんが甘やかすから、こうなっちゃって」
「そうだけど、このまま一人でいる訳にもいかないだろう」祖母が心配そうに言った。
「お祖母ちゃん。今は、そういう人だっているんだよ。私は画家になって戦争に勝ったら東京に行くの。自立した女性になるの」
「どうやったら、画家になれるかわかっているの?」母が言った。
「それは・・・」
「あんたの考えはいつも甘いのよ。肝心な事を考えていないのよ。ただの夢想家よ」
「幹恵さん、そこまで言うと楓がかわいそうだよ」と祖母が言った。
「いいのよ。みんな楓を甘やかしすぎなんだから。私くらい、現実を見せてあげないと、将来困るのは、楓よ」
18を過ぎたあたりから、楓はこういう家庭の雰囲気の中にいた。まわりの友達がどんどんと結婚し、家での居場所がどんどんとなくなり、楓は絵の世界の中に逃げ込むしかなくなっていた。しかし、それも行き詰まりを見せ、残る場所はあの木の下しかなくなっていた。そんな中、出会った東京から来た青年との恋は、楓に運命を感じさせた。
それは、2週間後のある日、東京から疎開してきた青年と、楓は出会った。青年は武田といった。武田は楓が今まで見てきた男性と、色々な意味でまったく違っていた。髪が長く、楓と同じくらいあった。色白で痩身、背が高く、一見女性の様だった。革靴にズボンをはき、汚れのせいなのか、クリーム色のシャツを着ていた。そして目の奥にほろ暗い何かを宿していた。楓がいつもイメージする清潔感のある東京の男性とかけ離れていた。けれど楓は人目見た時から、この男性に惹かれた。楓は思った。世間一般で言われる愛や恋というものは、こういうものなのだと。
武田は隣の村越家の親戚だそうで、往来で、楓と顔を合わす事があっても無愛想で、こちらが挨拶しても、会釈もせず、にこりとも笑わなかった。いつも暗い顔をし、何を考えているのかわからなかった。噂によると、重い精神病で、徴兵を免れたらしく、こちらに移ってきたのは療養の意味もあるらしい。楓は武田に強く興味を持っていたが、こちらから話しかける勇気がなかった。
そんなある日、楓が絵に行き詰まり、神社の木に吸い寄せられるように向かうと、そこには武田がタバコを吸いながら木を眺めていた。楓は呆気にとられた。自分以外がこの場所に先に来ているなんて、初めての経験だったのだ。楓は逃げ出したい気持ちを必死に押さえ込み、勇気を出して「こんにちは」と武田に声をかけた。
武田は訝しんだ目をし、楓を少し見て、すぐに木に視線を戻し、木の葉が揺れる様を見た。そして「立派だね」と言った。初めて聞く武田の声は楓が思っているよりも高く、優しい感じがした。
「はい・・・」と楓は次に続く言葉を探せなかった。代わりに武田が「君は、隣の神社の人だよね。ここにはよく来るの?」と質問した。
「ええ、よく来ます・・・。ここには普段私以外誰も来ません」
「どうして?」
「この木が呪いの木だから。私のおばあちゃんの子供の時からずっとそうだって」
「へえ、そうなんだ」武田は疑う事もなく、というより興味がないのか、そっと木を撫でた。
「あ、あなたは、どう思いますか。この木の事」
「どう思うかって?木は木だろ?それ以外あるのかい?ただ人間よりずっといいものだ。以前読んだ本にこんな事が書いてあってね。人間は植物の奴隷だっていうんだ。この街はまさにそうだ。百姓を見てみなよ。腰を曲げてせっせと野菜の世話をしている。どう見たって、主人にへつらう奴隷だ。植物は人間以上に賢いんだろうね。思い上がった猿の扱いに長けている」
楓は武田の精神病という噂はあながち嘘ではないと感じた。この人は他の人とは根本的に違う。国のために戦う人ではない。そう、人間が嫌いなのだ。
それきり会話は途切れ、風が二人をすり抜けていく。
「あの、今度私の絵を見てくれませんか?」楓は言った。どうしてこんな事を言ったのかよくわからなかった。
「君、絵を描くんだ」
「はい、ただ。行き詰っていて、あなたなら、何か行き詰りの原因を知っている気がするんです」
「見るだけなら」
「じゃあ、また明日の昼に待ってます」
楓は走って帰った。
楓は帰ってからも高揚感が抜けずにいた。寝床でも頭がボーッとして、この気持ちの正体を探ってやろうという気になった。武田さん・・・。誰とも違う武田さん。どこかずっと違う所を見て、何故かいつも悲しそう。楓は天井を睨み、そこにある染みからいつも着想を始める。今日は象に見える。次は、アシカ、そう繰り返していく内に眠りに落ちる。眠りはいつも、救いだ。
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