第13話

 6日後、鉛のような曇りの日、親の離婚が決まった。朝、家のリビングで最後の親子三人での会話があった。その時何を言って、何を言われたか、次の日には殆ど覚えていなかった。ただあのどんよりとした鉛のように厚い雲の下の雰囲気だけは忘れないだろうなと思った。

 母さんは真っ白な仮面を被ったかのような表情で、ずっと父さんの話を聞いているだけだった。僕はこのまま、この家で父さんと暮らす事になるみたいだ。まるで他人事のようだった。


 母さんは家具など、全て父さんに譲り、服などの最小限の荷物を持って、その日のうちに出ていった。わずかトランク一杯分の荷物だけだった。

 その日の母さんは白い服を着ていて、何故だかそんな事が印象に残った。 


 


 学校が終わり、学校から帰っても誰もいなくて、音が凍っているように静かで、ひんやりとしていた。僕は自分の部屋へと行き、いつもの様に塾の用意をしていた。夏休みまであと少し、塾の夏期講習の予定表を確認すると、夏期講習はみっちりと組まれていた。


 何故だろう頭がだるい。心がモヤモヤとする。僕はゲーム機を起動させた。人を殺さなければいけない。街を破壊しなければいけない。ゲームを進めると幾分心が落ち着いた。時間が迫る。時計の針に追い詰められているような気がする。4時までにはここを出ないといけない。


 


 僕は父さんと母さんの部屋へ行った。父さんの机にはアルバムが出されていた。めくると、小学生の僕と父さんが、ホースを持って水浴びをしている写真があって、父さんは昔のファッションに身を包んでいる。次の写真は、母さんと僕が並んだ小学校入学の写真。


 どんどん古くなる。父さんの青年時代の写真だ。本当にこんな時間があったのか、不思議に思った。それくらいに、断片的で、繋がりがなく、どうすれば、今のような結果になるのか上手く理解できなかった。僕が生まれる前、僕はこの世に存在していない。父さん母さんそれぞれの人生があった。それが結びつき、僕のせいで全てが終わったのだ・・・。


 4時まであと五分だ。秒針が重力に逆らい、上がっていく。やっと頂上に着くと、休む間もなく、下っていく。モヤモヤとする。僕は勉強しなくちゃいけない。勉強していい大学に入らなくちゃいけない。 


「そんなクソみたいな人生送ってどうするの?」百瀬の声が耳元で聞こえた。 


「俺はお前とは違うんだ。優秀な人間なんだ。だからあと3分したらここを出なくちゃいけない」 


「そんな事言って、もう4時すぎてるじゃない」百瀬は嘲笑った。 


 急いで時計を確認する。4時3分になっていた。 


 僕は反射的に立ち上がり、玄関を出て、駐輪場に向かい、自転車に乗り、駅方面へと急いだ。僕は百瀬みたいにはならない。ミツルさんみたいにはならない。根越さんみたいにはならない。母さんみたいにはならない。父さんみたいにはならない。20分かけて塾の前まで来ても、僕の足は止まらなかった。自動ゼンマイの様に自転車をこぎ続けた。僕は塾を素通りした。同じく塾に向かっている奴らに顔を見られた。笑われている。笑われている。僕は人間から離れたい一心で、自転車を飛ばした。人間が嫌だ。


 ツクモに会いたい。僕の唯一の友達。どこにいるのだ。僕は街を抜け、人気のない所へ進んだ。もう5時だろうか。いやまだ4時半くらいかもしれない。塾から家に電話が入るかもしれなない。でも家には誰もいないから関係ない。あのからっぽの冷蔵庫には何も入っていない。

 日が暮れてきた。西日が僕の右半分を焦がしている。Tシャツがずぶ濡れになっている。とっくに、足は疲れきって、自転車は、蛇行している。ツクモはどこにいるのだろう。こんな事をするのは今日だけだ。明日からはきちんと塾へ行く。塾が終わったら少しだけ人を殺して、眠るのだ。 


 僕の足が止まったのは、どっぷりと日が暮れた頃だった。結局自分の街をグルグルと周り、たどり着いたのは、あの神社だった。神社から続く道を歩き、裏手に回る。  蚊がうようよとよってくる。カエルの声が五月蝿い。3時間は走ったせいか、汗でシャツがぐっしょりと濡れ、それが肌に張り付いて気持ち悪い。

 僕は靴を脱いで池の中に入り、タールのような真っ黒な水の中を覗いた。その中には何も写らなかった。僕の足はそこから動かなかった。まるで木になったようだ。それから何分経ったのかわからない。僕を木から人間に戻したのは、池の中心にぽわっと浮かびあがった何かの光だった。 


「蛍だ」僕は呟いた。 


 でも少し大きすぎた。そして蛍の光というよりも、ゆらめき、炎に近い気がした。その光は水面に触れる直前に浮かびあがり、まるで遊んでいるようにゆらゆらと動いていた。僕は凝視した。でも僕が意識して見つめれば、見つめる程、光は弱くなった。


 光は、池の中を出て、池の畔にある、木のまわりを回りだした。木は大きく枝を張り出し、風でゆれていた。光はというとその木に吸い込まれる様に消えてしまった。


 一体何だったのだ。もしかして火の玉という奴なのか。それを見てから、心は少し落ち着いている。好奇心が出てきた。確かプラズマ現象というものがあった。気になる。すぐにでも調べたい。好奇心と一緒に空腹も戻って来た。汗の不快さや蚊に刺されたかゆみも戻ってきた。 


「・・・」 


 家に帰ろう。あの冷蔵庫のようなマンションの部屋も、今では少し暖かみを感じられる。僕は急いで池を出る事にした。


 池を出る前、誰かに呼ばれたような気がして、後ろを振り返った。


巨木が風を受けザワザワと揺れていた。


 


 家に戻り、濡れたズボンと靴下を洗濯機に入れ、ネットで一通り、プラズマ現象を調べた。そういえば僕は小学生の頃は科学者になりたいと考えていた。量子力学の本を父さんに買ってもらい、その不可思議な世界に魅了され、夜も寝付けず興奮した感覚は今もまだかろうじて残っている。僕は一生をかけ先程見たプラズマ現象について調べようかと思った。バカみたいだけど悪くないと思った。普段目には見えないが、確かに存在している事だってある。今はそれが当たり前のように思われる。僕はおかしくなってゲラゲラと笑った。


 ツクモ・・・、お前と一緒に見たかったよ。


 


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