第9話
日曜日、今日は百瀬が家へと来ていた。
「で、どうなったの?葵とは」百瀬は、デニムのショートパンツに、薄い紫の七分袖のTシャツを着ている。サイドの髪を耳にかけて、僕の歴史のノートを気だるそうに写している。開いた窓からは涼しい風が入り、カーテンを揺らしている。
「どうもこうも、料理を教えてもらって、別れたよ」
上坂が泣いていた事は黙っておく事にした。
「なによそれ。普通、お礼に電話くらいするんじゃないの?」
「番号知らないし」
「そんなの私に聞けば、どうにでもなるでしょうに」
「その発想はなかった」
百瀬は僕にノートを投げつけた。
「なんだよ。痛いな」と見た百瀬は、スマホでどこかに電話をかけていた。
「あ、もしもし。今志村とバッタリ会ってさ、葵の事気にしてるみたいだから、代わるね」と言って僕に、スマホをよこした。
僕は百瀬に小声で「誰?」と確認した。
「葵」と百瀬は言った。
僕は渋々電話へと出た。
「もしもし志村だけど」
「あ、志村君・・・」と、息を吹きかけたらそのまま消えてしまいそうな、か細い上坂の声が聞こえてきた。
「この前はありがとう」
「うん・・・」と上坂は小さく答えた。
僕はそれから何を言えばいいのかわからなくなり、百瀬に小声で助けを求めた。
百瀬はノートに何か書き、それを僕に見せた。
『デートに誘え!』と丸い文字で書いてある。
「あのさ、お礼したいから、どこか一緒に行かない?」
「悪いよ。そんなたいした事してないし・・」
「いや、嬉しかったんだ。僕も新しい事を始めてみたい気になれたんだ。だからさ。いつならいいかな?今日は?」
「夕方なら」
夕方か、忙しい子なのかな。
「わかった。今日の夕方ね」
その後、待ち合わせ場所だけ決めて電話は終わった。
「なあ、百瀬」
「何よ」
百瀬はだるそうに額を押さえている。
「上坂が俺の事好きって本当なのか?」
「うん?本当・・・」
「それで、お前は俺と上坂をくっつけたい訳?」
「あんたも家事を教えてもらえて、助かるでしょ?」
「そういうの何て言うか知ってる?」
「お節介」
「わかってるんだ」
「何も無理やり、くっつけようとしてる訳じゃないし、あんたに葵の事を知るきっかけを作っただけ。それで葵の事だから一生懸命料理を教えてくれたんでしょ?それに対してどんな形であれ誠意を見せるのが、男じゃないの?」そう言って百瀬は桃色の唇を尖らせ、ボールペンで僕の額を突いた。
「なあ、じゃあ何でお前はここにいるんだ?上坂が知ったら嫌じゃないか?配慮が無いんじゃないか?男と女が二人でいるんだぞ」
「ハハハッ」と百瀬は一笑して「何が男と女よ。あんたはまだ男未満でしょ。そもそもミツルさんが留守じゃなかったら、こんな所にいないわよ。ただ葵とどうなったか聞きたかっただけだし、それを男と女だなんて意識しちゃって、思春期の僕ちゃん」と言って百瀬は僕の頭を撫でた。
僕は沸々と怒りが込み上げてきた。こいつのどこが優しくて弱いんだ。
僕は冷静になるため一呼吸置いた。
「なあ、百瀬」
「なによ」百瀬は細い茶色の眉毛の間に皺を寄せ僕を見た。というより正確に言うと睨んだ。
「百瀬は優しいな」
「は?」百瀬は目を丸くした。
「本当は俺の事心配してくれてるんだろ?」
「は?私が心配してるのは葵。あんたじゃない」
「上坂から聞いたんだ」
「ちょっと待って、何をよ?」
百瀬の耳が赤くなっている。
「百瀬、耳が赤いよ」
「は?ちょっと何言ってるの。そんな訳、あっ、私用事があったんだった。帰らないと。いい?葵の事傷つけたら許さないからね」百瀬は立ち上がり、乱雑にカバンにテキストとノートを入れ、あわてて、部屋を出ていった。
百瀬が帰ると、たまらず僕はふき出した。そして一通り笑うと気がついた。胸の中にロウソクの火のような暖かいものがある事に。
夕方4時、上坂との待ち合わせ場所にした駅前の広場へと着いたが、上坂はまだ来ていなかった。今回は映画を見て食事をしようと思った。上坂は映画が好きだろうか、どんな映画を見るのだろうか。人生初のデートなので、僕はいささか緊張をしていた。空を見上げると、西の空が墨汁色に染まっていた。早く来てほしかったけど、15分経っても上坂は姿を見せず、その間どんどんと、墨汁色の雲は空を覆い、ついに雨が降りだした。
僕はバスターミナルの方へ走り、発着場の屋根で雨宿りをした。痛いほどの雨は地面を打ち付け、肌寒さを覚えた。
4時半になった。上坂はまだ現れない。雨は弱まること知らない。僕は雨に追い立てられる人々をただ見て時間を潰していた。5時になる少し前に上坂はやってきた。傘もささずに、息も絶え絶えに、走ってやってきた。
上坂は僕の前まで来ると、肩で息をし「・・・ごめんなさい」とやっとの思いで声を絞り出した。上坂は雨の中、傘もささずに走ってきたので勿論、充分に濡れていた。メガネはしておらず、紺のワンピースはぐっしょりと濡れ体に張り付いている。水滴が顔、髪の先から滴っている。
「傘はどうしたの?とにかくそんな恰好だと風邪ひくよ」
「家の用事で遅れちゃって・・・何度も連絡したんだけど・・・」
「えっ」僕はポケットをまさぐった。「スマホ忘れて来たみたいだ・・・。ごめん。とにかくそこで待ってて、傘とタオル買ってくるから」そう言って僕は、駅に併設されているコンビニへと走り、傘とタオルを急いで買い、上坂のもとへと急いだ。
上坂は、紺のワンピースの裾を束ね、水を絞っていた。上坂の華奢な白い足は、水に濡れ薄く照って、なんともなまめかしく、僕は上坂のその姿を何時間でも見ていたい気持ちになった。けれどそういう訳にもいかないので、買ったタオルの包装を外し渡した。
「本当にごめんなさい。迷惑ばかりかけて・・・」
上坂は、いつも言葉の端が聞き取り辛い。
「用事があったなら仕方ないよ。俺がスマホ忘れなきゃ、こんなに濡れなくてすんだんだ。その恰好だと今日は無理そうだから、家まで送って行くよ。家はこの近く?」
上坂は、どれに対してかはわからなかったが、一度だけ頷いた。
上坂の家はここから15分程の所にあるらしい。上坂は相変わらず無口で、何か質問しても一言で終わってしまう。百瀬なら、何か一つ質問しようなら、三倍の暴言で返ってくるのだけど、上坂は僕と一緒にいても楽しいのか、苦痛なのか良くわからなかった。そういう僕もこの子と心を通わせたいのか、友達にしたいのか、彼女にしたいのか、何なのか良くわからなかった。
上坂の案内で雨の道を歩いていくと、幹線道路から離れ、車一台がやっと通れるくらいの旧街地帯へと入っていった。
僕の街は、平成の宅地開発でできた駅を中心にした新興住宅地が街を占めており、駅から延びる幹線道路沿いの住宅は綺麗に区画整理されているが、それには及ばなかった、昔からの住宅地は迷路のようなとても複雑な地形になっており、それらがなかば無理矢理に融合させられていた。
旧街の道は曲がりくねり所々アスファルトの質が変わり、起伏が激しい。昭和に建てられた劣化し、くすんだ色のコンクリート作りの家と電柱が所狭しと並んでいる。
僕は、あまりこの地区に入る事がなかったので、自分の街だがこんな場所に沢山の人が住んでいるのは不思議な感覚があり、振興住宅地に比べ時間の流れがここだけ少し遅いように感じた。
そんな中、生垣に紫陽花が沢山咲いている家があり、どうやらここが上坂の家のようだった。上坂はお茶でも出すからと家へと招き入れてくれた。上坂の家も昭和にできた家であり、日の当たりが悪いのか、コンクリートの門や玄関の柱は苔むし、ひび割れていた。
引き戸の玄関を上がると、右手にはキッチンがあるのだろう、のれんがかけてあり、左手に居間、僕は居間を超えた所にある6畳程の客間へと通された。客間には天然木の上にガラス板を置いたテーブルと、一人掛けのソファーが二つあり、刺繍の施されたクリーム色のカーテンがかかった窓からは庭が見える。庭は随分とほったらかしにされているようで、雑草が窓の高さまで見えている。
ソファーに腰かけ、10分程すると上坂が紅茶のポットを持って現れた。服は白のワンピースへと着替えており、メガネをはめていた。髪はまだ少し濡れていた。
「今日はごめんなさい」と上坂は琥珀色に輝く紅茶を丁寧に注ぎながら言った。
「気にしないでよ。俺がスマホを忘れたのがいけなかったんだよ。俺さ友達いないから、スマホがあまり必要なくてよく忘れるんだ。それより今日は家の人はいないの?」
「おばあちゃんが奥の部屋で寝ている。お母さんは妹の病院に行っている」
「妹さん、病気なの?」
「生まれた時から、小児麻痺があって、ここ数日体調を崩していて、今年持たないかもって先生が言ってる」
「それは悲しいね・・・」
「別に、あの子は産まれた時から施設と家を行き来しているし、言葉も話せない。ずっとどこか違う所を見ているだけ。それでお父さんもお母さんもずっと頑張って働いている。私も家事をしなくちゃいけない。あの子がいなければ、良かったと私は思う」
そんなはっきりとものを言う上坂を初めて見た。いつもオドオドとした雰囲気の上坂からは思いもしない発言だった。それだけ、消化できない辛い思いをしてきたのだろう。
「今日も、お母さんの仕事が終わるまで、病院で付き添わなくちゃいけなくて、それで約束の時間過ぎちゃって」
僕はとつとつと、不満を言う上坂が怖くなった。でもここで、命の大切さだとか、姉妹の愛だと言う気にもなれなかった。そんな事を言ってしまうと、僕は消えてしまう程の軽い人間になってしまう。それが恐かった。だから、ずっと上坂の話を聞いていた。
「ごめんなさい。こんな話聞きたくないよね。志村君も、もっと明るい子の方が良いよね。百瀬さんみたいな。無理に私に付き合わなくていいよ」
「俺、正直恋愛とか良くわからなくて。それ以前に、友達も一人しかいなくて、でも今思いかえせばその友達の事も良くわかっていなかったのかもしれない。百瀬の事だって知らない事だらけだ。勿論君の事も。俺、無関係を決めこんで、物事を知った気になってた。でも俺、包丁の握り方も、出汁のとり方も、人が何故泣くのかも、何故耳が赤くなるのかも、知らない。上坂、また遊びに行こうよ。俺、上坂の事もう少し知りたい」
上坂は俯き、顔を真っ赤にしている。それを見て僕は自分の発言が恥ずかしくなり、暫く何も言えなくなった。
1時間程して、僕は上坂の家を出た。雨は上がっていた。
「道わかるかな?このあたりとても複雑だから。駅まで案内しようか?」
「大丈夫だよ。多分あの丘を越えると、僕のマンションの裏手に出ると思うんだ。案外、10分もかからないんじゃないかな」
「そんなに近いんだ・・・」
「そういえば、この近くに神社があるよね?」
「神社?」
「そう、肝試しで有名な」
「それがどうかしたの?」
「ううん。友達と行った事を思い出してさ。いいんだ。じゃあ、またね」
「ありがとう」と上坂は微笑んだ。その笑顔はまるで雨に濡れた紫陽花のようだった。
僕は家に帰る前に、以前ツクモとキャンプをした神社の裏手にある森を訪ようと思った。ここからそう遠くないはずだ。少し、坂を登るとその付近へと出る。・・・はずだった。けれど以前はツクモの案内で簡単に行けたのだが、坂を登っていったものの、途中から道はまた下り坂になり、右に曲がり、左に曲がり、何とか道を探したけれど、それを繰り返す内に見事に迷ってしまった。だいたいの場所はわかっていたつもりだったけれど、一向に着かない。まるで悪い夢のようだった。頼みのスマホも家に置きっぱなしだ。誰かに道を訪ねようにも、誰もいない。まるで住民全員が何かで避難した後のようだった。
古い家屋の二階には洗濯物が干されたままだ。空き地には錆びた廃車があり、それを雑草が隠している。電柱は傷だらけだ。
そんな中、闇雲に歩いて行くと、神社に続く、錆びたクリーム色の手すりの付いたコンクリートの狭く急な階段がふいにあった。階段は日当たりが悪く、影が落ちた所はそのまま、違う世界に繋がっているようだった。僕は苔で滑りがよくなった階段を上がっていった。
階段を上がるとすぐに小さな石造りの鳥居があり、奥に今にも倒壊しそうな社殿が見える。僕は社殿の裏へ続く道を進んだ。社殿の裏は森になっている。森へと入っていく道の途中に、開けた場所があり、澄んだ、幅50メートル程の浅い池がある。その池の畔には大きな木が一本茂っていた。その木は楠木だ。大きく枝を張り出し、葉が布切れのように垂れている。幹は複数の蛇のように複雑に絡み合い、その姿はいつ見てもおどろおどろしかった。
日が暮れはじめ、カラスが鳴きだした。僕は身震いを覚えた。この木があるせいで、綺麗な池があるのにここには誰も近づこうとはせず、肝試しのスポットになっていた。でもツクモはこの場所、特にこの木を気に入っていた。
ツクモと最後に会ったのは、この場所だった。そしてツクモは自分がいなくなったら、この場所に来てと言っていた。
まさかその時はツクモが行方知れずになるなんて思ってもいなかった。けれど今思えばツクモは、何か問題を抱えていて、あんな事を言ったのかもしれない・・・。
ツクモ、あれから僕は百瀬や上坂、ミツルさんと出会い、みんなに優しくしてもらっている。けれど君がいなきゃ困る。困る・・・。
「志村は手がかかるな。よし、私が死んだら会いに行くよ。そしてメソメソしてたら、元気付けてあげる」
ツクモ、僕はメソメソしているよ。会いに来ないって事はどこかで生きてるって事だよな。僕は木を見上げ呟いた。
その日の晩、こんな夢を見た。朝日の中、街を見下ろせる高台に女の子と二人でいる。冬の風が冷たく、彼女はマフラーをし、ジャケットのフードをかぶっている。朝日に照らされて、頬はきれいに赤く染まり、走ってきたかのように見える。僕らは身を寄せ合い彼女は笑っている。誰なのかわからないけれど、僕は彼女に恋をしているのだけはわかった。
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