第8話
次の日、学校の休み時間、僕は上坂とすれ違った。僕は意識してしまったけれど彼女は僕の事なんてまったく意識してない風で、すーっと街ですれ違う何の関わりもない他人のようにすれ違って行った。少しくらい頬を染めるものかと思ったけれど、やはり百瀬の悪い冗談だったのだろう何の反応もなかった。けれど、授業が終わると上坂は百瀬に連れられ僕の席へとやってきた。そして昼間すれ違った時とは一転し、俯き黙って百瀬の影に隠れ、緊張の表情を浮かべていた。
「葵」百瀬は上坂をつつき、僕の前へと誘導した。
「あの、志村くん。私、料理部なんだけど・・・」上坂の声は小さく少しかすれている。
「百瀬さんから、志村くんが、その、食事を毎日コンビニ弁当で済ませているって聞いて、その・・・」
「もどかしいから私が言うね」百瀬が割って入って来た。
「葵が料理を教えてくれるから、あんた、少し教わったら?どうせ家事なんてやったことないんでしょ?」
「迷惑だよね?」上坂が精一杯、僕の顔を覗いた。
「そんな事ないけど」と僕は言った。
「だってさ。じゃあ後は、葵に教えてもらいな。私は帰るから」と百瀬は言った。
「百瀬は来ないのか?」僕は慌てて聞いた。
「私は忙しいの。それでは後は2人で楽しんで下さい」百瀬は甘ったるいにやつき顔を残し、場を後にした。
殆ど、初めて喋る相手と残され、僕は困った。上坂は先程よりも、俯く角度を強めている。あと10分もすれば、頭が地面にめり込んでしまうのではなかろうか。
僕は「あのさ、4時くらいから塾に行かなくちゃいけないんだ。それまで、その・・・、教えてもらっていい?」
上坂は小さく頷いた。
家までの道、上坂は僕の二三歩後を一定の距離を保ちながら着いてきた。途中、スーパーに寄り、食材を買ったが、何の会話もなく、気まずい雰囲気で僕のマンション前まで着いた。マンション名のプレートがあるレンガ造りの植え込みには、ミツルさんがタバコを吸いながら、ぼやっと座っていた。
「今日も涼しいな」ミツルさんは、僕を視認するとそう言った。
僕が会釈を返すと「こんにちは」と上坂も小さな声を出した。
「彼女かい?」ミツルさんは、弾んだ声でそう言った。
「いえ、違います・・・」と僕が返すと「まだ蕾か」とミツルさんは含みを持たせた言い方をした。
「所で君、ギター欲しくないか?使っていないギターが何本かあるんだけど、部屋でオブジェの役割りは飽きたと言っている。弾いてもらえる人を探しているんだが、どうだい?」
「今は特別欲しくありません。また欲しくなったら、相談します。僕らはこれで」
ミツルさんは、話を聞いていないようなアンニュイな表情で僕を見つめ「なるほど」と一転、無邪気な笑顔でそう言った。上坂は不思議そうな顔でそれを見ていた。
「三鷹先輩だよね」ミツルさんと別れ、エレベーター内で上坂は言った。
「知ってるの?」
「有名人だし」
「このマンションの同じ階なんだ。百瀬のせいで最近喋る事が増えたんだけど、関わると怖い気がして、あまり関わらない様にしてるんだ」
「百瀬さんのせい?」
「百瀬の気になる人なんだ。俺はそれに利用されてる」
「だからか・・・」上坂は聞き取れないくらいの声でそう言った。あまりに小さな声だったので、あるいは違う事を言ったのかもしれない。
上坂を僕の家へと招き入れると、台所へと案内した。母さんは今日もいなかった。台所には、洗い物が溜まっていた。
「えっと、何からすればいいんだろう」
「えっと、まず、シンクを片づけるね。それから簡単な煮物と味噌汁の作り方を教えるね」
「和食が得意なの?」
「栄養のバランスがいいし、基本を覚えれば、あとは応用で色々作れるから」
「じゃあ、お願いします」
上坂は包丁の握りから教えてくれた。包丁は柄を根元まで深く握り込む方が、扱いやすいらしい。次に出汁の取り方。昆布は水の状態から鍋に入れ、火にかけるとえぐみが少ないといった事を丁寧にわかりやすく教えてくれた。
華奢で上白糖のように白い腕。家事など無縁のような綺麗な上坂の手だ。けれど手際は良く、いつもオドオドとした上坂からは想像しにくい姿だった。
その後、肉じゃが、かき揚げ、わかめとしらすの和え物、いわしのつみれ汁と作ってもらい。その行程を僕はメモしていった。何にしても、僕はパンをトースターで焼く事には定評があるのだが、それ以外の事はまったくといっていい程できないし、想像をした事もなかったので、食材から料理に変わっていく様は、納得と発見の連続で、思った以上に勉強になった。
2時になる頃には全ての行程が終ったので、少し遅めの昼食を上坂と一緒にとる事にした。まさか上坂と2人で僕の家で昼食をとるなんて、想像もしなかった事だった。
料理が並び、久しぶりの家庭的な雰囲気に、嬉しさを感じた。かき揚げはサクサクとした食感の中、野菜の甘味がじわっと舌に広がり、つみれ汁を飲むと、つみれからいい出汁が出て、心まで暖かくなった。僕は夢中で食事を続けた。
食事の後、満腹感の中テレビをつけ、意味なく2人でワイドショーを見ていた。僕は上坂のような母親だったら、今頃こんな風に母さんと食後の一時を過ごしていたのかもしれないなと、そんな事を考えていた。
「美味しかった。それにとても勉強になったよ。ありがとう。ていうか、ちゃんと喋ったのって今日が初めてだね」と僕は言った。
「うん」
「百瀬とは仲いいの?」
「百瀬さんは、誰とでも仲いいよ。私のような暗い子でも気にかけてくれるし。いい人」
「そうなのか」
「志村君の事も気にかけてるよ。今、大変なんでしょ?百瀬さん、私に力になってあげてって、自分は家事ができないからって」
「大きなお世話だよ・・・」僕は呟いた。
「ごめんなさい」
「違う。違う」僕は焦って取り繕い「上坂に言った訳じゃないんだ。百瀬に・・・、いや百瀬にも感謝しないといけないんだけど・・・。ついつい百瀬には悪態をついてしまうんだ」と言った。
「正反対の人間だからじゃないかな。でも根本はとても良く似ているし、気が合うんだよ。だから上面の部分を、言葉で剥がして、自分に近づけたいんじゃないかな」
「そんな高尚な関係じゃないよ。僕は最近回りを馬鹿にしてばかりなんだ。そんな中、百瀬だけは、傷つけても平気な顔してるから、言いすぎてしまうんだ。それだけだよ」
「本当はそんな事ないんだよ。百瀬さんは優しい分、弱い面もあるから少し優しくしてあげて欲しい」
百瀬が優しく、弱いか・・・。
「考えとくとしか、今は言えないな・・・」僕は笑って誤魔化した。
「志村君はやっぱり百瀬さんの事・・・」
「何?」
「ううん、私、そろそろ帰るね。余った食材、日持ちするよう下ゆでしたから、また使って」
「今日はありがとう。また教えてもらってもいいかな。また百瀬と来てくれよ」
「うん・・・」
玄関まで上坂を送り、冷蔵庫を開け、そこに並んだ食材に少し気分が良くなった。僕は予習をしようと自室の椅子に座った。すると玄関のチャイムが鳴った。最近椅子とチャイムが連動するようになったのだろうか。モニターに向かうと、ミツルさんが映っていた。
僕は玄関まで行き「どうしました?」と訝しんで尋ねた。
ミツルさんは長い前髪を掻き上げ、高原の木々のように薄く笑っている。僕は綺麗な人だなと、純粋にそう思った。
「ただの退屈しのぎのお節介だよ」
「はい?」
「さっきの女の子、下ですれ違ったんだけど、君達何かあった?」
「いえ、何も・・・」
「目にいっぱい涙浮かべてた」
「えっ、何で?」
「てっきり喧嘩したんだなと思ってさ。友達のために恋愛のアドバイスでもしてやろうと思ったんだ。でもその様子だと、傷つけた自覚がないみたいだな。そういうのは良くないな。女の子は綿菓子のように丁寧に扱わないと。特に言葉に一喜一憂する生き物だから、言葉には十分に注意しないといけない」
「でも俺、思い当たる事がなくて・・・」
「そっか、なら俺の見間違いかもしれないね」そう言うと、ミツルさんは、去ろうとした。
「あの・・・」僕はあわてて引き留めた。
「どうした?」
「いえ、別に」
「そっか、何かあったら何でも相談してくれよ、君は悩みが多そうな顔をしている。でも力になりたい人間だって多くいる。君はもう少し人に頼る事を学んだ方がいい。せっかく友達になったんだからさ」
「・・・ありがとうございます」僕は顔が赤くなった。百瀬がミツルさんに惹かれる理由がわかる気がした。
「じゃあ」ミツルさんはヒラヒラと手を振り帰って行った。
僕はその後塾に行ったのだが、上坂の泣き顔や、ミツルさんの顔が頭に浮かび、勉強はツルツルと頭から出て行ったのだった。
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