第6話

 


 次の日家の玄関を出ると、廊下でミツルさんが薄毛の小太りの中年の男と何か熱心に喋っていた。 


「おぅ、昨日はどうも」ミツルさんは僕を見つけるなりそう言った。 


 僕は会釈して通り過ぎようとした。 


「ミツルさんのお知り合いの方ですか?」中年男はまるで平社員が社長に対するようにミツルさんに伺いたてた。 


「隣の部屋の子だよ。昨日から友達になったんだ。そう、友達。名前は・・・、忘れたな」 


「メガネさん、私こういうものでして」そう言って中年男は僕に名刺を差し出した。そこには根越勉と名前が書いてあり、ヘンリエッタ・マリー人材紹介という会社が表記されていた。 


「メガネさん、不躾で申し訳ないのですが、最近なにかお困り事などないでしょうか?私こう見えて、多方面に人脈がありましてですね。微力ながらメガネさんのお力になれると自負しております。お小遣いが足りないであるとか、友達に差を付けたいであるとか。何かございましたら、こちらに電話番号を乗せて頂いておりますので、お電話頂けたらと思うのですが」 


 目の前の根越さんは笑顔選手権があれば上位入賞間違いなしの笑顔を振りまいている。しかし残念な事に、胡散臭い表情選手権では断トツの一位だった。 


「根越さん、中学生相手に商売したら駄目ですよ」 


「あら、中学生でしたか。しっかりとした佇まいをされていらっしゃるので、高校生くらいかと思いましたよ」 


「いやいや、高校生でも駄目でしょ」ミツルさんはニヤニヤしている。 


「ご両親の育て方がいいのでしょう。私の愚息なんて、金がいる時だけ甘えてきて困ったものですよ」 


「メガネ君。根越さんはね。そんなに悪い人じゃないんだけど、悪い事やっているから関わらない方がいいよ」 


「もう、ミツルさん、そんな事言わないで下さいよ」 


「だって、根越さんのやっている事殆ど詐欺じゃないですか」 


「だからって、何もこれから関係を築こうとしている時に言わなくていいじゃないですか」 


「あの、僕学校いくんで」 


 僕は二人の気持ち悪い親密なやり取りを中断すべく、そう言った。実際、僕は親が離婚するかもしれないし、友達は行方不明、昨日はクラスの女子には殴られ、満身創痍の身なのだ。そんな僕からしたら、二人はあまりに能天気に見えた。 


「あああ、すいません。お引き留めしてしまいまして。どうぞ行ってらっしゃいませ」と根越さんは言った。 


 立ち去ろうとした時、ミツルさんが「メガネ君、今日雨降るから、傘持っていきなよ」と言った。 


 僕は面倒だったけれど、忠告通り玄関まで傘を取りに戻り、エレベーターへ向かった。ふとドアストッパーで開けっぱなしのミツルさんの玄関へ目をやり、大麻の鉢植えを見た。何故こんな所にあるのかと不思議な場所にあった。人目に付くし、日当たりも悪い。大麻は沢山の日光が必要だと聞いた事がある。もしかしてレプリカなのだろうか。そんな事を考えていると、突然鉢植えの影から、黒い物体が、まるで静かな水面から顔を出すように現れた。僕はぎょっとした。


 よく見ると瑠璃色の目をした黒猫で、じっとこちら見ていたのだった。 


  


 学校に着き、廊下を歩いていると、百瀬とすれ違った。百瀬はクラスの山下と喋っていて、用積みの僕の存在なんて、消しカスのように無視された。 


 退屈な授業を終え、さらに退屈な放課後になると、天気は曇り空になり、ミツルさんの言っていた通り雨が降り始めた。 


「クソメガネ」百瀬は帰る準備をしている僕の所へと来るなりそう言った。 


「なんだよ」 


「今からミツルさんの家まで行こうよ」


 昨日殴った相手に、よく言えるなと感心しつつ「塾があるから無理だよ。それに言っただろ?ミツルさんには関わらない方がいいって、ひょっとしてもう忘れた?」と嫌味っぽく言った。 


「昨日初めてミツルさんと喋ってみて、絶対ミツルさんは人を不幸にするような、ましてや人を殴るような人じゃないって確信したんだ」と百瀬はうっとりとした表情でそう言って「あんたと違って」と付け足し、僕を睨んだ。 


「今日喋っていた山下だつけ?そいつでいいじゃないか」 


「あいつしつこいから嫌い。あいつの頭を割ったらセックスの事しかでてこない」 


「お似合いじゃないか」 


「お前本当にムカつくな」百瀬は笑った。怒りを通り越すと笑いが出るようだ。 


「何にしても俺はいかないよ。ミツルさんとはこれっきりだ。今日だって得体の知れない詐欺師の中年と喋っていたぞ」 


「ミステリアスな男性って素敵だと思わない?」 


「アホらしい。雰囲気に酔ってるだけだよ。いい加減に目を覚ませよ。発情期の雌ゴリラ」 


「ねえ、塾で一体何を勉強しているの?暗号解読?そんな事ばっかりしていると頭が悪くなると思わない?」 


「お前こそ将来どうするんだよ。風俗嬢にでもなるつもりなのか?そんな事になると悲惨だぞ。俺はとりあえず良い大学を出る。日本はあきれるくらいに学歴が物を言うんだ。就職先だって選ぶ事ができる。一流企業に勤めれば、女にだってモテる。そのために、今のお前はとても邪魔なんだよ」 


「あっそ!もういい。私はクソみたいな人生を歩むかもしれない。でもあんたの人生だって種類は変わろうがクソみたいな人生よ。ほんとクソよ。クソばっかり。大嫌い」 


 百瀬は重戦車のようなけたたましさで去っていった。またクラスの連中が冷ややかな目で見てくる。もういい、気にしないでおこう。どうせ、脳の足りない奴等の肥溜めのような話題のひとつになるだけだ。それも3日も経てば忘れてしまう。なんだってそうだ。全て忘れて、記憶の隅にヘドロのようにこべり付くだけだ。勝手にするがいい。


 


 雨の中、煮え切らない気持ちの中、傘を差し帰っていると、道路の反対側に以前車の中で見た浮浪者のような男、夜の使者がいた。フラフラと何かを探すように歩いている。


 僕は将来ああなってしまうのだろうか。


『でもあんたの人生だって種類は変わろうがクソみたいな人生よ』百瀬の言葉が頭の中で反響する。


 いや勉強を頑張り、いい大学を出て、いい企業に就職すればああはならない。僕は呪いのように自分に言い聞かせた。


 家に帰ると誰もいなかった。最近母さんは一日を通し家にいない事がある。僕には、聞いてもいないのに、友達と会うだとか、習い事があるだとか、言い訳をしてくる。父さんはというと、リビングのソファーで寝起きして、寝室に寄り付こうとしない。なんとなく部屋全体を見てみた。衣服や、ゴミなどが雑然と置かれ、観葉植物は枯れ始めていた。まるで部屋が窓につたう水滴のようにゆっくりと、確実に死に向かっているようだった。  


 


 僕は居た堪れなくなり、部屋を出た。ツクモを探そう。僕のこのどうしようもない気持ちは、百瀬にはわからない。母さんにはわからない。父さんにはわからない。ツクモにしかわからない。でもツクモは一体どこにいるのだ。どこに行ってしまったというのだ。家にもいない。図書館にもいない。もしかしてどこか旅に出ているのかもしれない。気まぐれで山に籠っているのかもしれない。芸術家と知り合い修行をしているのかもしれない。けれどロリコンの変態に誘拐されたのかもしれない。アル中野郎の運転する車に轢かれ、山に遺棄されたのかもしれない。そんな考えが何万回とドラム式洗濯機みたいにグルグルと頭を回り、胸が詰まる。


「雨降っただろ?」その声で、ピタリ頭のグルグルが止まった。


 ミツルさんが、欄干にもたれ掛かり、黒猫を抱いていた。その姿は雨上がりの墨汁色の雲の隙間から差し込む光に照らされ、一枚の絵の様に綺麗だった。


「はい、ありがとうございました」と僕は返し、その後に続く言葉を探したが、こんな綺麗な人と何を話せばいいのか教科書には載っていないので、僕は黙ってしまった。


「君はとても寂しそうだね」


「はい?」


「失礼。そう思っただけだよ」


「そうですね。寂しい・・・、その通りかもしれません」


 僕は、自分の事を孤独に強い人間だと思っていた。昔から、友達と呼べる人はいないし、一人でいる事に苦痛はなかった。けれどツクモと出会い、ツクモがいなくなり、こんなにも辛いのは、寂しさという感情だったのかとミツルさんの言葉で気が付いた。


「孤独や寂しさに、判断を委ねてはいけないよ。君が本当に正しいと思う事を選ぶんだ。そして今度は間違うんじゃないよ」


「どういう事ですか?」


 ミツルさんは答えの変わりに薄く笑って、部屋へと入ってしまった。


 ミツルさんは、今まで会った誰とも違う、深海魚のように不透明で、冷たく深く謎に包まれている人だった。 


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