第5話
朝は昨日の事なんて忘れたかのように、いつも通りだった。父さんはコーヒーを飲みながら新聞を読んでいるし、母さんは寝室でまだ寝ている。
僕はパンをトースターで焼き、バターとイチゴジャムをぬり皿に載せ、冷蔵庫から牛乳を出しコップに入れてココアを少し足し、それらを部屋へと運び、テレビを見ながら食べた。いつも通りだった。
学校に着くと、ここにも昨日を忘れた奴がいた。性懲りもなく百瀬がやって来た。要件はわかっていたので、僕は先に「ミツルさんの事は知らないからな」と言った。
「用件がわかっているなら話は早いわね。今日の放課後にミツルさんに会いに行くから、あんた連れていってよ」
「はあ?なんで俺が?ミツルさんとまともに話した事なんてないし、これからもそんな予定はない。頼む相手を間違っているよ」
「あんたも一緒にミツルさんと友達になろうよ」
百瀬は僕の目を覗き込んだ。僕は百瀬のマスカラに彩られた大きな目をチラリと見て「なんで俺が?」と聞いた。
「あんた友達いないじゃない」
「あのな、何でよりによってミツルさんなんだよ。友達になったらどうなると思う?あの人女からは凄くモテる人だよ。セフレにされて、捨てられるだけだぞ?」
「あんたが?」
「馬鹿か。お前の事だよ」
「じゃあ、このままあんたが来てくれないと私一人で行く事になるわね?」
「何が言いたいんだ?」
「そうなるとヤバいんじゃないの?やられて捨てられるんじゃないの?あれ?助けてくれないの?」
「俺は保険って事か・・・。結局一人じゃ恐いんだな。案外気が小さい事で」
「グダグダと、あんたもたまには口だけじゃなくて、実際に行動で男を見せたらどうなの?」百瀬は声のボリュームを上げた。するとクラスの連中の視線が集まる。ただでさえ百瀬は目立つ。目立つことに人生の努力の大半を払っているような奴だから当然だ。百瀬を見やるとほくそ笑んでいた。わざとだった。
「・・・わかったよ」と言った僕の声は弱々しかった。こういう具合に世の男は論理は破綻しているが、声だけは大きい百瀬のような奴の我が儘を聞き入れる事になるのだなと、身をもって知った。
憂鬱な放課後になった。放課後になるなと一応願ってみたものの、大いなる自然の摂理の前では、ホモサピエンスの個人的な願いの力はあまりに弱かった。
百瀬は、学校を出てからというもの、僕の存在を忘れたかのようにスマホをいじりながら歩いている。そして僕のマンションのエントランスに着くと声を出さず、犬にするように先に行けと目で指図した。僕は渋々ゲートの暗証番号を押し、百瀬を誘導した。ミツルさんの部屋の前まで行くと、百瀬は躊躇なくインターホンを押した。数秒たって出てきたのは、切長な目をしたストレートヘアーの若い女性だった。僕はこの人を知っていた。ミツルさんの姉さんだ。でも百瀬はそんな事知るよしもなく、ミツルさんの彼女だと思ったらしくわかりやすく焦っている。僕はその百瀬の表情が見れただけである程度満足し、助け船を出す事にした。
「あの、隣の部屋の志村ですけど、ミツルさんいますか?」
ミツルさんのお姉さんは、僕と百瀬を見比べ、目の前の情報でなにか想像し、後ろに向かって「おい、ミツル!」と怒鳴った。態度は悪いが綺麗なよく響く声だった。
ミツルさんはノソノソと気怠そうに出て来て、僕を見るなり「ああ、隣の・・・」と消えかけのガスコンロのようにボソッと言った。
ミツルさんは、年期の入っていそうな薄い黄色のTシャツに紺のスウェットズボンを履き、裸足だった。腕にはブレスレットと、Gショックをつけている。
「こんにちは、あのですね、こいつがですね・・・」と僕が拙く説明していると、百瀬が横から身を乗り出し「あの!さっきの人って、か、か、彼女さんですか?」と言った。
ミツルさんは、見慣れない動物でも見るかのように、百瀬を見て「姉貴」と一言低い声で言った。
「じゃあ、彼女いるんですか?」
「あー、君、名前なんて言うの?」
冷静なミツルさんに、空回りしている百瀬。この対比は少し面白かった。
「私、志村君の友達の百瀬っていいます。で、ミツルさんって彼女いるんですか?」
ミツルさんはフフっと小さく笑った。
「彼女はいないけど彼氏はいるよ」
「えっ」と百瀬は硬直した。
「冗談だよ。誰とも付き合っていないよ。猫が一匹、イグアナが一匹、レオパードゲッコーが二匹いる」
「私、ミツルさんとお友達になりたいんです。学校の奴等って、ガキで、根暗で退屈な奴ばっかりなんです。だからミツルさんみたいな人と知り合えたら、なんていうか、人生の勉強になる気がするんです」
「人生の勉強ね。夏休みの自由研究にでもするのかな。いいよ。友達か・・・、いいね。響きがいい。握手」とミツルさんは手を出した。その手を百瀬は両手で力強く握った。ミツルさんは続いて僕の前に手を出した。僕は仕方なくミツルさんと握手をした。おろしたてのマネキンの様な細く長い綺麗な手だった。
その時ミツルさんの部屋奥が目に入り、僕は息を呑んだ。
「ミツルさん、俺たち今日は用事があるんで、これで失礼します。いきなり押し掛けてすいませんでした」とミツルさんに言って、百瀬の手を掴み、無理矢理、僕の部屋の玄関まで連れて行った。
玄関まで来ると百瀬は僕の手を振り払い「ちょっと、クソメガネ。これから遊びに連れて行ってもらおうと思ったのに、いきなりなによ」と言った。
「ミツルさんの部屋の奥にあった鉢植え見たか?」
「鉢植え?それが何なのよ」
「あの葉の形、あれ大麻草だよ」
「マジ?」
「悪いことは言わないから、もうミツルさんに関わるのは、これっきりにしておけ。じゃないと酷い目にあわされるぞ」
「大麻がなによ。いいじゃない。人に迷惑かけてないんだったら個人の自由じゃない。ほら、国によっては合法なんでしょ。一度きりの人生なんだから楽しく生きないと駄目でしょ」
僕は百瀬の頬をビンタした。すると間髪いれず、百瀬の右手がジェット機のように飛んできた。頭がクラクラとする。暫くたって痛みと、拳でおもいっきり顎を殴られた事に気付いた。
「女を叩くなんて最低」百瀬はそう言って、玄関を開け去っていった。
僕は、痛さと恥ずかしさで玄関で暫くうずくまっていた。
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