第4話

 次の日もあまり気温が上がらず、涼しく感じた。登校の途中、さらに涼しい顔で散歩をしているミツルさんに出会った。何故か近所の老人連中と仲が良く、タバコを咥えながら大袈裟に身振り手振りで、80歳近い老人と笑いながら会話し、こちらに歩いて来た。僕は目を伏せ通り過ぎた。今度は声をかけられなかった。しかし一体あれほど歳の離れた人と何を話すのだろうか。僕は不思議で仕方がなかった。


 


 学校に着いて、授業までの間、ぼんやりと校庭を見ていると、昨日に続き百瀬がやって来た。 


「ねえ」百瀬は媚びるような表情で、僕を見つめ「あんたのマンションに三鷹ミツルさんっていう人住んでるでしょ?」と言った。 


「知らないな、そんな人」 


「嘘をつくんじゃない。証拠はそろっているんだ」百瀬は刑事のコントのように、僕の机を叩き、身を乗り出した。 


「はい、すいません。知っています」僕は、演技に乗せられ白状した。 


「カッコいいよね?」


「誰が?」


「ミツルさんに決まっているでしょ。何なの、あんたの事だとでも思った訳?」百瀬は怪訝な顔をした。 


「そうか?」 


「そうよ。背が高くてウェーブのかかった黒い長髪。そしてどこかミステリアスな雰囲気。最高じゃない。軽く見積もって、あんたの十倍はカッコいいわ」 


 僕は面倒に「何?好きなの?」と言った。 


「うーん、まだそこまではいかないかな。気になっているっていうのかな。最近良く見かけるんだ。もしかしたら運命っていうのかな」百瀬は恋する少女はこういうものだと言わんばかりの態度をしている。


「そういえば、俺も最近良く見かけるな」 


「そんな事聞いてない」 


 ミツルさんの十分の一の魅力しかない僕に発言権は与えられていないらしい。 


「でもやめといた方がいいよ。君は転校生だから知らないだろうけど、とにかく無茶苦茶な人だよ。あの人のやった事でここの教師はみんなノイローゼになった」 


 百瀬は世界の全ての問題を解決する魔法の言葉のように「でも、かっこいいじゃん」と言った。 


 僕は呆れて「馬鹿だな。自分が空っぽで空虚だから、雰囲気で人に惹かれているだけだよ。悪い事言わないから、身分相応の相手を探せって。クラスにもいるだろ?馬鹿だけど、顔は良い奴くらい」と言った。 


 百瀬はみるみる頬を紅潮させ「何が悪い事言わないよ。さっきから毒ばっかり吐いているじゃない。それにこの学校に私に釣り合う人間なんている訳ないでしょ。毎日毎日、アニメやアイドルやゲームの事ばっかり話してバカみたい。先に言っておくけど、あんたはその中でも、断トツの最下位だからね。勉強はできるかもしれないけど、人を見下して、捻くれて」 


「じゃあ、俺にかまうなよ」 


 百瀬は自身の興奮を無理やり押さえつけ、冷静な態度で「そうさせてもらうわ。ガリ勉クソメガネ」と言って、大きな足音を立てて去って行った。


 クラスを見渡すと、チラチラと視線を感じる。あいつの大きな声と目立つなりのせいだ。僕は居心地の悪さを感じ、トイレに逃げ込む為に立ち上がった。トイレに行く途中、何人もの生徒とすれ違った。各々、友達と馬鹿みたいにはしゃいでいる。僕だけが枯葉だった。


 


 学校が終わるとすぐに家に帰り、塾の支度を終えると、バス亭近くのコンビニに寄り弁当を買う。そしてバスに乗って駅前の塾へと行き、十時まで勉強をする。そして母さんが車で迎えに来てくれ、家に帰る。そして少しゲームをして2時頃に眠る。これが僕の一日だ。もう習慣になっていて、大変かどうかなんてもう考えなくなっていた。ただ立派な大人になるには勉強は必要な事だと、昔両親に言われた事を馬鹿みたいに守っているだけだった。 


 習慣といえば、リビングから聞こえる両親の怒鳴り声もここ半年くらい毎日のように続いている気がする。もともと仲の良い夫婦ではなかったけれどここ最近は、この世で一番憎い相手のように罵りあっていた。僕はヘッドホンをしてゲームに集中する。そして画面の中で戦争をして、人を殺す。それでもヘッドホンの外の世界より平和なような気がする。外で起こっている現実はゲームと違い、感動もなければ、ドラマ性もなく、救いがない。ただ純粋な憎しみしかないのだから。 


 ゲームに没頭していると、僕の部屋のドアがゆっくりと開いた。ヘッドホンを取り目をやると、父さんが情けない笑顔を覗かせた。 


「五月蝿かったかい?」と父さんは言った。 


「ヘッドホンをしていたから聞こえなかったよ」 


「勉強はどうだ?」と言いながら、父さんは僕のベッドに腰掛け、僕を覗き込んだ。額に脂が浮き、髪がベタリとしている。目の下は劣化したゴムのように弛んでいる。 


「面白くはないけど、特別嫌でもないよ」 


「まだ科学者になりたいのか?」 


「いつの話だよ」と僕は笑った。 


「で、父さんはどうなの?」 


「俺か?」そういうと、父さんは少し間を置き、覚悟を決めた顔になった。僕は聞かなきゃ良かったと思った。 


「もしかすると、母さんとの関係は修復できないかもしれない」 


「それって、どういう意味?」 


「離婚するかもしれないって事だ」 


  僕は胸が苦しくなった。 


 いつかそんな日が来る。僕はそう覚悟していたものの、実際父さんの口から離婚という単語を聞くと、僕は思っていた以上に動揺してしまった。


 また僕は失うのだろうか。 


 暫くの沈黙の後に、父さんは「勿論、離婚しないよう、父さんも母さんも頑張っている。ただ、いつかはそうなるかもしれないって事をお前には伝えておかなければいけないんだ」 


「そんなの勝手だよ。エゴだよ」


 自分の声と言葉が幼く聞こえる。 


「ごねんな」 


「ごめん、出て行って」 


 父さんは、ゆっくりと立ち上がり、もう一度「ごめんな」と呟いて部屋を出て行った。 


 僕はゲームのスイッチを切り、ベッドへと寝転び、ぼんやりとした。ベッドが腐食し、トロトロになり、そのまま得体のしれない闇の中に落ちていくような気がして急いで立ち上がり、ベランダの窓を開け、闇が垂れ込める街を眺めながら、ツクモから貰った12面体ルービックキューブを解いた。5月の朝のような冷ややかな風が僕の髪を揺らす。


 パズルを解いていくうちに僕は、ツクモが初めて僕の部屋に来た日の事を思い出した。


 


「さあ志村観念しろ」


「観念とかそういう問題じゃないだろ」


「君は少しシャイだな」


「思春期相応の反応だよ。ツクモがおかしいんだよ」


「そりゃそうだ。私は学校に行ってない。同世代のボーイフレンドは志村しかいないんだよ。だから君に頼むしかないだろ?わかったならズボンとパンツを脱いで」


「嫌だよ。絶対に嫌だ」


「ちょっと性器を見せるだけだよ。頼むよ」


「だからそれが無理なんだって」


「志村が見せるなら私も見せるよ」


「えっ?」


「あっ、その気になった?」


「いや、君ののっぺりとした体を見たって何も面白くないよ」


「そうなんだよ。だからなんだよ。私の体凹凸がほとんどないの。まるで風の抵抗を受けないように設計されてるみたいに。だから突起物に憧れるの。太陽の塔とか、エッフェル塔とか」


「僕にはそんな立派なものついてないよ」


「いいから見せて」


「勘弁してくれよ」


 


 僕は思い出を掘り返すうちに、心が暖かくなっていくのを感じた。しかし、冷夏の風がすぐに心を冷やしていく。ツクモの丸い大きな目、伸びやかな少し甲高い声、それらの記憶が薄ぼんやりと感じる。


 ノンレム睡眠の街の中、遠くで電車の音が聞こえる。空には半分欠けた月がさ迷っている。まるで僕のようだ。


 ツクモ、会いたいよ。今一体どこの時空にいるんだい?


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