28.恋人に告ぐ ◆日本国旧東京・杉並区・ハニーポット地下 NH.TK.sb9900:558hp,ug
――アルティレクト
人類守護を目的としたアイギス計画により、開道誠樺を有機脳体として作成された
――マザー
堂上澪子を有機脳体としてラクロワ・アヴニール社で作成された
――
扉を強く破壊する音が彼を強くこわばらせた。
「あんたかい」
それははなから襲撃ではないと知っていた。来訪者は琳瑚であると。それに彼は、琳瑚に真実を伝えきれれば、もう命に用はない。
「琳瑚。私がわかるか。私は」
そう語り始めた彼の名は、服の名札からもわかるように、浅見涼司。皺が出始めた初老の見た目は、年相応の表年齢だ。
「浅見涼司。私は開道誠樺に人生をささげ、彼を狂わせたものに人生を狂わされた。皮肉にもならないよな」
気付いたように頭に着けていた
「世紀の天才は、蜂の巣社にその強大すぎる知能を利用されたんだ。彼はいっそ殺されればよかったと願っただろう。だけどな、彼の脳に知脳回路が融合されたとき、その複雑な思考はおろか、全ての思考・知恵がほぼパーになった。代わりに、開道誠樺だったころの有機脳体は、そのかすかな異物としての感情を増幅させ、知脳体がこれまた異なる方向に自己解釈した。それが今のアルティレクトの行動原理だと、私はこの二十数年間の研究で辿りついたというわけだ」
「あたしが、マザーと関係があるというのは」
最大の重要度を持つがゆえに言い出すのがもはや怖かった疑問。それは彼、浅見博士も同じだった。彼にとってのかけがえのない人に、何もかも思い出させるというのは。彼は手が震えないよう、力を加えながら資料を進めた。
「マザーは、開道誠樺の娘:堂上澪子の脳と、妻開道天寧の脳を素材とした融脳の後継だ。
アレクサ・プランク。彼女は天寧という仮の名で開道誠樺と結ばれた。夫と共に融合脳の基礎を確立し、最期は自ら、当時まだ起動する術がなかった融合脳となったのだ。
そうしたような説明に次いで、モニターでは未だ、単純すぎるのではないかと思われる世界デザイン記号が、博士の説明を追って形状を展開しては畳みを繰り返し、それなりの物語を作り出していた。今は、開道夫妻の娘の名字が開道ではない理由を表していた。
「天寧さんは素晴らしく、母性溢れる方だった。内部に秘めた究極の知識をまるで見せない。すべては誠樺のためと言わんばかりだった。そして澪子は、私の同僚だった。主に知脳神経学と
博士は、研究機関「
「脱線してしまっていたな。すまない。澪子は、それでアルティレクトに対抗するための守護者として、母の遺伝子共々引き継いだ形で、そして彼に強い執着心を抱いた状態で誕生させられた。その強烈な情念が、人類の存続へ向かうように。そして父を――家族を救おうとしたために命を落としたのが、君、だ」
堂上凛子、それが琳瑚の、生前の真名だ。
「なあ、頼む。マザーの作戦を、どうか止めてくれないか。先ほど彼女から、通信が入った。何を企んでいるかは、わからない。だが、彼女は、おそらく人類の存続のために、自身の機能停止をもってしてこの危機を乗り越えるつもりだ」
そこには過去の久しさというものが、しっかりと切り込まれて埋められていた。その顔と雰囲気と、においと声色。すべてが彼だ。彼は、
「いい加減なものだ。だが、同僚の勘と言えばいいか、彼女は、おそらく自身の停止をもってアルティレクトを白痴化しようとしている。それは実の娘であり、また彼の妻だ。彼女の本性が、そうさせているのだろう。マザーがアルティレクトに強烈な執着を持つと同時に、アルティレクトもマザーへ活動するための執着を持っているはずだと。確率は当然五分五分だ」
琳瑚は、鼓動の高鳴りを聞く。彼を実感したことによるものだ。
「いや、だめだ。やはり……、無理を言って、すまない」
「なに、良いってことよ。好きでやってるこった。ね、あんたあたしのこと知らなくても、元のあたしは知ってんだろ? 心配すんな、恋人らしくない」
片頬で笑う。秋の夕方の香りが、ここ地下にも届くくらいに強くなっている。博士には、言わずとも知られていた、その琳瑚の勘の良さがたまらなく憎たらしかった。それは昔日の、凛子の背中。それと丸きり同じように、通路を失踪と駆けり去る琳瑚を見送る老科学者は、二度と戻らない若き日に胸を締め付けられた。たまらず、決して彼女の後を追うようにはせず、あくまで自分の意志で外に出かかった。
「やあ、ご機嫌はいかがでしょう?」
ヘルメスとエリスの、邪悪な眼差しに後ずさる。それでも、彼の一生涯のけじめはついていた。目にも写らぬ速さで、彼は何やら端末を叩き始めた。エリスは、それを無言で阻止する。男一人が浮き上がるほどの衝撃が、当然男一人に襲い掛かる。エリスはその反作用もものともせず、さらに蹴り続けた。
「はあ!? くそ、こいつコード入力しやがった」
「あの二人に続いて、最後もダメでしたか。だから遊ぶのは後にしなさいと言ったではありませんか」
甲高い解除音。彼はどんなに蹴られようが、決して端末を手放さなかった。その苦痛にまみれた努力が、とうとう実体化をして、エリスの感情を怒り一色に染め上げる。もう一度だけ、彼女が博士を思い切り蹴り上げる。男一人が浮き上がるほどの衝撃は、当然男一人に襲い掛かる。エリスはその反作用もものともせず暴言のみを吐き続けた。
「もう無駄です。ほら、行きますよ」
エリスは、去り際に固い唾を吐きかけたが、博士にそれが感知できるほどの力はもうない。意識が介在しない二者行為の間には、どのような脳神経をも刺激する要素までも起こりえなかった。
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