16.上司と部下 ◆東京国治央区・慈愛医療院・一般治療室 TK.CH.8889JIhp:3445pp21


 一人に割り当てられるには十分すぎるほどに広い個室で、クレアはただ白い壁や床に窮屈さを覚えた。一昔前の閉鎖病棟、そのさらに最奥部にある精神病患者のための「白い部屋」。もはや絶望的な状況としてミーム化しつつあるそれに、この状況は近いと彼女は思った。人間は、ある一定の刺激がないと知覚能力が低下する。それどころか自己認知能力を保つことができなくなる。それほどではなくとも、クレアは暇を持て余している。たまらずコールをすると、機人体ヒューマノイドがグラス一杯の水と、いかにも病院食といった見た目の菌糧ミールを配膳してきた。水を飲み干すと、白以外の刺激に脳が活性化する。途端に腹が空き、痛みと違和感とが感知される。脇腹には半液状のギブスが装着されていた。備え付けの端末を見る。どうやらあれから丸一日経っていたらしい。

〈コールマンさん、カーネル・アダムスと名乗る方から、通信が入っていますが〉

「知らない人だから、切っといてください」

「かしこまりました。お大事にどうぞ」

 急に始まっては急に切れる、嵐のような会話だった。思えば今のが、入院して初めての会話だった。

そういえば、自分の端末はどこに行ったのだろう。クレアは再度コールを入れて、看護師に確認をする。答えは、ここにはないとのこと。万が一落としていたとしても、最悪雲居クラウドに上がっているものだけなら記録は取り出せる。落とした端末の事後処理のほうが面倒だ。やっぱり、通話で確認を取ったほうがよかったのか。

「はあ」

 思い出すことで、すずしろやグエン、またハベルたちの安否が気になる。少しだけ満ち足りた体に気だるさが重くのしかかった。

〈コールマンさん、たびたび申し訳ございません。グエンと名乗る方から、通信が入っています〉

「ええ、わかりました」

 面倒なので繋いでもらおうとする。しかしそれでもカーネルがグエンの名を借りていろいろ言ってくることが明白に予想できてしまったので、これも切る。メッセージとして、「私は大丈夫」とだけ残し、通知を切った。

 もちろんカーネルに腹が立っているということもあるが、今は彼女にとって、そんなことよりも警察へ思うように出勤ができてないことと、あの二人の襲撃者のほうが気になる。有休で賄いきれなかった休みをどう言い訳するか、そしてファッションの多様化した今ですら、異様ないでたちの二人は何者だったのだろうか。強化パラレルの攻撃をも一切受け付けない、あるはずがない運動能力。あれは。

「お邪魔するよ」

「え、跡部さん!」

 突然の上司の登場に、慌てて背筋を伸ばすクレア。跡部はしかし、それを止めに、肩を抑えた。

「やめてくれ、怪我人にまで礼儀を求めないさ。俺が悪く映るだろ」

「うん、でもどうして」

「部下が襲われたってなれば、駆けつけるのが上司だ。その襲撃者についても聞きたいし、ついでにこの前の更谷署の混乱、お前も関わってたそうじゃないか」

「えー、それは。でもわざわざありがとう! ただ遠隔通信アウトでもよかったんじゃないの?」

「キャンベルのやつがうるさいだろう。それに」

 一呼吸の後、警察辞めるか、と問われる。いきなりの深刻な話し合い。当然だった。ここ一週間で、高速での一件や更谷署及び駅での一件など、警察への反逆とみなせる事件に彼女が深くかかわっている。さらに更谷署の件から彼女は遠隔通信アウトを含めて一切出勤していなかった。

「これまでは俺が何とか上に掛け合ってやってきたが、それももう手いっぱいだ。俺だって言ってやりたくないんだ。だが、休職……、するか? あるいはそろそろ、辞めるか」

 カーネルとつるんだら、結末はその狂人と同じだった。これから彼女は一つずつ何があったかを報告していくが、それがどう転がっても事実が良い方向へ転がりだすなどありえない。

 退職まっしぐらの彼女は、それでもこの窮屈な苦しさの中、信頼のおける上司に会えたことを心から嬉しく思った。何もかも心の中を吐露する行為が、束の間痛みを忘れることができる時間なのだ。


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