6-6 ささやきに耳を傾けて
蝶梨の背後──汰一の視線の先。
そこに現れたのは、三体の……
『ような』と汰一が思うのは、手放しに『犬』と呼んで良いのかわからない姿をしているためである。
墨汁を零したように黒い身体は、中型犬に近い形をしているが……輪郭が曖昧で、確かにそこにいるのに、どこかぼやけて見える。
ピンと立った耳に、鋭い牙が覗く口。しかし漆黒の体色のせいか、
それだけ黒い毛並みをしているのに、後ろ足の付け根にはうっすらと白い模様が浮き上がっている。
その奇妙な模様が……汰一には、無数の
「きゃっ……い、犬? いつの間に……?」
汰一の声に蝶梨も振り返り、怯えた表情を浮かべた……直後。
三匹の"黒い獣"が、二人に向かって一斉に飛びかかってきた。
「危ねっ!」
汰一は蝶梨の身体を抱いたまま横に飛び、"獣"の攻撃を
彼女の制服を汚さぬよう背中から受け身を取り地面に倒れ込むと、ぬかるんだ土がビチャリと跳ねた。
胸の中の蝶梨が無事であることを確認しながら起き上がると、三匹の"獣"が二人を取り囲むようにしてにじり寄って来る。
大きく裂けた口からよだれを垂らし、牙を剥き出しにして低く唸る黒い異形……
その姿に、汰一は先日ゲームセンターの帰りに遭遇した、謎の"黒い
そこにいるはずなのに存在が希薄な、気体のような身体。
獣を
"厄"に似ているが、
ゲームセンターの時のあれも、今目の前にいる"獣"も、柴崎の言っていた『実体を持って此岸に現れるヤバいヤツ』なのだろうか?
だとするならば……こいつらの狙いは、"エンシ"である蝶梨のはずだ。
「……彩岐、俺の後ろに下がっていてくれ」
蝶梨の前に立ちながら、汰一が低く言う。
同時に、汰一の周囲をザワザワと風が取り巻き始める。
カマイタチが、動き出したのだ。
風は、汰一の周りを駆け巡ると一気に上昇し、頭上を覆う木々へと突っ込み……
ヒュッ、と高い音を鳴らしたかと思うと、汰一の目の前に木の枝が落ちてきた。突然のことに、驚いた蝶梨が小さく声を上げる。
木刀大の、丈夫そうな枝だ。どうやらこれを使って戦えと、カマイタチは言いたいらしい。
汰一は枝を拾うと、両手で握り剣のように構える。
せっかく人生最大の幸福に浸っていたというのに、帳尻を合わせるように不幸が襲って来やがった。
まったく、どうしてこう嫌な予感ばかりが当たるのか……
汰一は自身の運命を呪いながら、ポケットの中の御守りに意識を向ける。
「(おい、柴崎。いつまでもサボっていないで、たまにはすぐに助けに来たらどうだ?)」
そう脳内で呼びかけるが、やはり返答はない。
またこのパターンか……と、汰一は額から汗を流す。
逃げようにも、来た道は目の前の"獣"たちに塞がれている。カマイタチと協力し、柴崎が対処に動くまでの時間を稼がなくては。
その前に、この
俺が……やるしかない。
枝を握る手に、ぎゅっと力を込める。
すると、それに応えるようにカマイタチの風が汰一を取り巻き──
ヒュルヒュルと音を立てながら、握った枝の周りに轟風が纏わり付いた。
「か、刈磨くん……」
風に髪を揺らしながら、蝶梨が不安そうな声を上げるが……
汰一は答えないまま、"獣"に向かって駆け出した。
「はぁあっ!」
気合を吐きながら、三匹の内、左側にいる二匹を目がけて枝を振り下ろす。
が、二匹とも大きく後退し
二匹が飛び退いた直後、
「ガゥウッ!」
残された右の一匹が、汰一へ飛びかかって来る。
これも狙い通り。汰一は手首を返し枝を持ち替え、その一匹に向けて横薙ぎに振るった。
枝は、"獣"に当たる直前で空を切る。
だが、それで十分だった。何故なら……
汰一の目的は、
振るった枝の軌道から鋭い風が放たれ、飛びかかって来る"獣"へと向かう。
刹那、「ギャウンッ」という悲鳴と共に、漆黒の身体に裂け目が生まれた。風の刃が"獣"を斬り裂いたのだ。
やはり……と、汰一は思う。
カマイタチの風が効くということは、この"獣"たちは"厄"に近い存在なのだ。
ならば、枝で叩く物理攻撃よりも、カマイタチの風を駆使する方が確実に対処できるだろう。
そのためには、今のように一匹ずつ相手していくしかない。
これまでに邂逅した"
風の刃を喰らった一匹の動きが鈍ると、他二匹が唸り声を上げながら同時に駆けて来た。
汰一はすぐに横薙ぎに一閃、枝を振るう。
そこから放たれた鋭い風が一匹に当たり、接近を止めた。
しかしもう一匹が、汰一の予想を上回るスピードで迫り来る。
枝を振るう暇もないままに飛びかかられ、汰一は咄嗟に枝を両手で持ち替え盾にし、その衝突を防いだ。
鋭い牙で枝に食らい付いてくる"獣"──至近距離で見ても眼球らしきものの位置は確認できない。
闇を凝縮したような朧げな身体は、見れば見るほどに不気味だった。
「くっ……」
汰一は押し返すように枝を振るい、食らい付いていた"獣"を引き離す。
その勢いに乗じてカマイタチが風の刃を放ち、"獣"は斬り裂かれながら石畳の上を転がるように吹き飛んでいった。
その時、先ほど風で侵攻を止めたもう一匹が横から駆けて来た。
汰一は枝を構え直し、正面から応戦しようと準備するが……
「グルル……」
背後から、唸り声。
最初に風の刃で斬り付けた一匹が、汰一を挟み討ちするように迫って来ていた。
先ほど斬り裂いたはず箇所は、もう半分ほどが塞がっている。傷口から黒い気体が漏れ、裂け目を修復しているようだった。
「(こいつら……再生するのか……?!)」
驚愕している間にも、二匹の"獣"はみるみる内に汰一へと駆けて来る。
前からも後ろからも脅威が迫り、汰一の額に汗が滲む。
こんな得体の知れない化け物を、一人で二匹同時に相手するなど不可能だ。
ましてや相手はこの世ならざる者。勝算がなさすぎる。
……そう。
あくまで、
今ならきっと……上手く連携が取れるはず。
汰一は目の前の一匹と対峙し、枝を構える。
その背後からはもう一匹がスピードを上げ迫るが、汰一はそちらを見ない。
「刈磨くんあぶない……っ!」
蝶梨の悲痛な叫びがこだました──直後。
正面の一匹が、汰一に飛びかかった。
汰一は枝を横に持ち、迷いなくその牙を受け止める。
同時に、背後からのもう一匹が飛びかかってくるが……
「(頼む、カマイタチ……!)」
枝を握りしめ、汰一は強く念じる。
すると、それに応えるように枝の周囲を逆巻いていた風が離れ……
瞬時に、背後の"獣"を斬り裂いた。
「ギャンッ!」と悲鳴を上げ、動きを止める"獣"。
その隙に、汰一は枝に喰らい付いた正面の一匹を振り回すようにして回転し、
「うぉぉおお!」
枝ごと手放し、背後の"獣"に思いっきりぶつけた。
重なり合うようにして吹き飛ぶ二匹。
地面に落下するまでの僅かな隙にも、カマイタチの風がさらに"獣"たちを斬り付ける。
そして、ズザーッと音を立てながら、二匹の"獣"は地面を滑るように転がった。
汰一は息を吐き、胸の内でカマイタチに礼を述べる。
おかげで何とか窮地を脱することができたが……安心するにはまだ早い。
"獣"たちを吹き飛ばした反動で、汰一の手からは枝が離れてしまっていた。
今は倒れているが、いつまた"獣"たちが動き出すかわからない。まずは新たな得物を手にしなくては……
と、カマイタチに再び手頃な枝を用意してもらおうとした……その時。
「グルルゥ……」
石畳の上へと吹き飛ばしたはずの一匹が、ゆっくりと汰一ににじり寄って来た。
先ほど斬り裂いたはずの身体の傷は、驚くほどに再生されている。
さらに、今しがた倒した二匹もすぐに起き上がり、汰一の方へ唸りながら近付いて来る。
恐るべきタフさ……これでは切りがない。
さすがに汰一も後退りをし、三匹の"獣"を順番に見つめる。
こいつらは、一体何者なんだ?
"厄"に似ているが、此岸に実体を持って現れ、
柴崎の言葉通り、『ヤバいヤツ』だ。
柴崎は、このような敵が現れることを予見していたのだろうか?
ならば、もういい加減助けに来たっていいはずだ。
斬っても斬っても再生するヤツらを相手にしていては……彼女を護り抜けるかわかったものではない。
「(柴崎……いい加減にしないと、本当に彩岐が危ないぞ?)」
三匹の"獣"から蝶梨を護るように、汰一は警戒しながら後退りする。
「(こんなわけわかんねぇヤツらに彩岐の命を奪われるくらいなら…………
どこにいるかもわからない神に向かって、汰一は訴えかける。
やがて、三匹の"獣"にジリジリと距離を詰められ……
蝶梨を背に隠すようにしながら、汰一は
このまま一斉に飛びかかられたらお終いだ。
仮にカマイタチが防いでくれたとしても、こいつらはすぐに再生する。やられるのは時間の問題だ。
「刈磨くん……」
怯えた声と共に、蝶梨が汰一の背中にしがみ付く。
奥歯を噛み締め、汰一がもう一度柴崎に念を送った──その時。
三匹の"獣"が、ぴたりとその動きを止めた。
目のない顔を、汰一たちの頭上──神社の
そして、びくりと身体を震わせ、耳を弱々しく垂らすと……
何かから逃げるように、石畳の向こうへと走り去って行った。
「…………」
"獣"たちが去って行く様子を、汰一は唖然と見つめる。
そして、その姿が完全に見えなくなったことを確認してから、自らも社を見上げた。
雨が止み、曇天から差す薄日に照らされながら、屋根の上に佇んでいたのは……
一匹の、蛇だ。
とぐろを巻き、赤い両目で汰一たちを見下ろしている。
日光のせいで白く光って見えるが……その身体は、水で
どうやら"獣"たちは、この蛇を恐れて逃げ出したらしい。
水のような身体を持つその姿に、汰一は既視感を覚え、
「(……遅ぇよ)」
と、胸の内で悪態をつく。
それを感じ取ったのかはわからないが、蛇は赤い舌をちろりと出すと……
屋根の向こうへと這い、静かに消えて行った。
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