6-1 ささやきに耳を傾けて

 



 ──ゲームセンターで遊び、クッションから飛び出す奇妙な"黒い獣"と遭遇した日から、一週間が過ぎた。


 これまで同様、柴崎があの"黒い獣"について説明をしに現れるものと汰一は考えていたのだが……

 柴崎は、一向に現れなかった。



 思い返してみると、最後に柴崎が現れたのは数週間前──屋上で巨大な"厄"と戦った、あの雨の日が最後だった。

 その後、生徒会室に閉じ込められたりもしたが、その時も柴崎は現れなかった。


 一体、どうしたというのだろう。

 生徒会室での軟禁も、実体を持つ"黒い獣"が現れたことも、それほど危険な事象ではなかったということなのか。

 それとも、単にサボっているだけなのか……



 いずれにせよ、今まで通りカマイタチが側にいる状況を作るに越したことはない。

 汰一は、蝶梨の周囲に変わったことがないか警戒しつつ、共に放課後を過ごす日々を送った。





 そして──




「おわったぁああっ!」



 チャイムが鳴るのと同時に、二年E組に浪川なみかわ結衣ゆいの元気な声が響き渡った。

 今日は期末考査の最終日。帰りのホームルームを終え、生徒たちは晴れやかな表情で席を立つ。



「んふふー、これでようやく我慢していた漫画が買えるっ。さっそく本屋さんへゴー!」

「何を言ってるの、結衣。今日から部活再開でしょ?」

「はっ! そうだった!」



 そんな賑やかなやり取りをしながら、教室を出て行く女子たち。

 蝶梨も生徒会へ向かうため、結衣たちと共に教室を後にした。


 その後ろ姿を、汰一が密かに眺めていると……



「はー終わった終わった。これで心置きなくキャラ育成に時間を回せるぜ」



 その視線を遮るように、忠克ただかつが目の前に現れた。

 相変わらずソーシャルゲームのことで頭がいっぱいらしい彼を、汰一は面倒くさそうに見上げる。



「そんなこと言って、どうせお前はテスト前でもゲームしていたんだろ?」

「へへ、バレたか。さすが俺のことわかっているな、親友」

「親友だと思うなら授業のノート貸すなりしてくれてもよかっただろ……二週間分の遅れを取り戻すの、まじで大変だったんだからな」

「お。ってことは、試験範囲の勉強は間に合ったのか?」

「……ギリギリ、なんとか」



 それもこれも、彩岐がポイントを絞って教えてくれたお陰なんだけど……

 という補足は、胸の内に留めておくことにする。

 忠克は、鞄を肩にかけながらニシシと笑って、



「ま、とりあえずテストお疲れさん。お前も庭いじりばっかしていないで、さっさと帰れよ」



 そう言い残すと、軽く手を振り去って行った。



「庭いじりばっかり、ね……」



 確かに今日は、花壇の手入れだけでなく、他にやりたいことがあった。

 試験が終わったら実行しようと、前から決めていたことが──


 汰一は忠克が教室から出るのを見届けると、中庭へ向かうべく席を立った。






 * * * *






「──刈磨くん、お待たせ」



 午後の日差しが照りつける花壇に、涼やかな声が響く。


 花に水やりをする手を止め汰一が振り返ると、生徒会の仕事を終えた蝶梨が立っていた。

 学校内にいるためか、あの日ゲーセンで見せたメイド姿が嘘だったかのように、無表情で凛とした雰囲気を醸し出している。



「今日は、どんな作業をするの?」



 平坦な声で尋ねる、クールモードな彼女。

 それに……


 汰一は、手にしていたジョウロを足元に置いて、頭を深々と下げた。



「……彩岐さん。いや、彩岐さま。これまで僕の勉学を指導してくださり、本当にありがとうございました。お陰で無事、期末考査を乗り切ることができました」

「えっ?!」



 いきなり仰々ぎょうぎょうしく礼を言われ、蝶梨はクールな表情を崩しながら驚く。



「つきましては、本日はそのお礼をさせていただきたく、今日この後のお時間をお借りできればと考えているのですが……いかがでしょうか?」



 顔を上げ、真剣な表情を向ける汰一に、蝶梨は慌てて手を振る。



「い、いいよそんな、お礼だなんて。私も授業の復習になって助かったし、そうでなくても刈磨くんにはいろいろお世話になっているし……」

「いや、何かさせてもらえなきゃ気が済まない。球技大会の仕事を代わりにやってくれたことも、中庭ここで気絶していたのを助けてくれたことも、ずっとお礼したいと思っていたんだ」

「で、でも……」



 蝶梨が狼狽うろたえていると、汰一は苦笑して、



「と言っても、大したことはできないんだけどな。今日はこれから、前に言っていたストレプトカーパスの苗を買いに行くつもりなんだ。その帰りに、彩岐の食べたいものでも奢らせてもらえたらな、って思ってさ」

「奢ってもらうなんて申し訳ないよ。この間『ぶたぬきもち』のぬいぐるみを獲ってもらったし、あれがお礼ってことで……」

「駄目だ。あれは自分のために獲ったものを彩岐に引き取ってもらっただけだから。な? テスト終わりの打ち上げも兼ねて、なんか一緒に食おうぜ。彩岐、何が食べたい?」



 有無を言わさない口調で尋ねる汰一を、蝶梨は困ったように見つめ返してから……観念したように、口を開く。



「……本当にいいの?」

「あぁ、もちろん」

「じゃあ…………甘いものがいい、かな」

「よし、じゃあ甘味にしよう。花は国道沿いのホームセンターに買いに行くんだが……その近くに美味いたい焼き屋があったな。そこで良ければ寄るけど、どうだろう?」



 その提案を聞いた途端、蝶梨は目を輝かせる。



「うん、たい焼き好き。食べたい」

「よかった。それじゃあ早速出発だ」

「でも、国道沿いのホームセンターって、ここからだとちょっと距離あるよね? 大丈夫?」

「あぁ、問題ない。花の苗を買いに何度も行っているし、自転車なら十五分くらいで……」



 ……と、そこまで言って。

 汰一は、ハッと気がつく。



「……しまった。俺、自転車ないんだった」



 事故で自転車を壊して以来、バス通学していることがすっかり頭から抜けていた。

 汰一はスマホを取り出し、バスで向かう場合のルートを検索し始める。

 その慌てた様子を、蝶梨はじっと眺め……




「……私、自転車あるけど…………?」




 と、少し緊張した声で尋ねる。

 汰一はスマホをいじる手を止め、ゆっくり顔を上げて、




「…………え?」




 喉を鳴らし、震える声で聞き返した。






 * * * *






 校庭から、しばらくぶりに運動部の掛け声が聞こえてくる。

 用のない生徒はとっくに帰ったらしく、正門の横にある駐輪場には誰もいなかった。


 まばらに停まっている自転車の中から、蝶梨は自身の赤い自転車へと近付き、鍵を差し込む。

 それを少し離れたところから眺める汰一は……ドキドキと鼓動を高ぶらせていた。



 自分と彼女の二人。

 しかし、自転車は一台。

 それにということは……


 彼女と『二人乗り』をするということで、間違いないよな?



 ごくっと喉を鳴らし、手に汗を滲ませる。

 当然、自分が運転することになるわけだから、彼女に怪我をさせないように、という緊張もあったが……

 それ以上に、『自転車の二人乗り』という青春ど真ん中なシチュエーションと、彼女に後ろから密着されるであろう状況を想像しただけで、脳が沸騰しそうだった。



 落ち着け。意識しすぎると、それこそ運転に支障をきたす。

 まずは安全第一に走ることだけを考えるんだ。平常心、平常心……



 そう自分に言い聞かせながら深呼吸をして、はぁーっと息を吐いてから瞼を開ける……と。



「……ん?」



 ふと、一台の自転車に目が留まる。

 シルバーの塗装に、歪んだ前かご。剥がれかけたゲームキャラクターのシール。

 それは、中学時代から幾度となく目にしてきた……忠克の自転車だった。


 忠克は、だいぶ前に帰ったはずだ。

 それなのにどうして自転車が残っているのか、汰一は疑問に思う。



 そういえば、あの雨の日も──屋上で蛭のような"厄"と戦った時も、帰ったはずのあいつが階段を降りて行くのを見かけた。

 帰るふりをして、まだ学校内にいるのだろうか?

 しかし、なんのために……?



 首を傾げ、その理由を考えようとする……が、それはすぐに中断された。

 自転車を押した蝶梨が、「お待たせ」と目の前に現れたのだ。

 再び、汰一は『二人乗り』の重圧に身体を強張らせて、



「お、おう。裏門から出ようか。俺、自転車押すよ」



 と、彼女と交代するように自転車のハンドルを握った。






 ──自転車を押しながら、汰一は蝶梨と共に人通りの少ない裏門から校舎を出た。


 さすがに学校を出てすぐに二人乗りするわけにはいかない。教師や知り合いに見られては厄介だ。

 かと言って、ずっと歩き続けるのも大変な距離なので……汰一は二人乗りを切り出すタイミングを見計らい、ますます緊張を高めていた。


 静かな住宅街に響く二人の足音と、カラカラと空回る自転車の音。

 緊張に沈黙が重なるとさらに息苦しく感じられ、汰一は無理矢理話題を振ることにする。



「自転車がないこと、頭からすっかり抜けていたから助かったよ。この距離を苗抱えたまま歩いて帰るのは現実的じゃないからな」

「お役に立ててよかった。花壇のお花、いつも刈磨くんが買いに行っていたんだね」

「あぁ。委員会を担当している先生から会費を預かって、月一くらいで買いに行っている」

「さっき言ってたたい焼き屋さんにも、よく行くの?」

「花を買うついでに、たまにな。季節ごとに限定の味を出しているから、見かけるとつい買ってしまうんだよ」

「わかる……私も『季節限定』に弱い。今しか食べられないと思うと、買わずにはいられなくて……」

「そうそう。今の季節は何味があるんだろうな? 楽しみだ」



 とりあえず沈黙を回避することには成功し、汰一は安堵する。

 しかし、ここからどうやって自転車に乗ることを切り出そうか……


  と、汰一が考え始めた、その時。



「…………ねぇ。刈磨くんはさ……」



 隣を歩く蝶梨が、ごくっと喉を鳴らし、




「その……たい焼きを、どこからかじるタイプ? 頭? 尻尾? それともお腹……?」




 ……と。

 頬を上気させ、ハァハァと息を荒らげながら、そんなことを尋ねてくるので……

 汰一は、思わず固まる。



 これは……もしかして、いつものあの反応か?

 何故このタイミングで……何がトリガーになった?

 わからない……わからないが、とりあえず質問の答えを返さなければ。




「えっと、俺は……」



 困惑しながらも、汰一が口を開くと……

 その瞬間、蝶梨がバッ! と手のひらを向け、それを制止する。



「待って! やっぱり後の楽しみに取っておく」

「た、楽しみ?」

「うん。実際に見て答え合わせしたいから。あぁ、楽しみだなぁ……大丈夫かな、売り切れたりしないかな、たい焼き。せめて一つだけでも買えれば、刈磨くんに食べてもらえるよね……」

「いや、俺は彩岐に食べてほしいんだが……」



 支離滅裂なことをブツブツ呟き続ける蝶梨を、汰一は不思議そうに見つめる。

 が、とにかく『売り切れる前に買いたい』という気持ちだけは汲み取ることができたので……困惑しつつも、それを利用することにする。



「売り切れないか心配なら……そろそろ自転車に乗るか? 学校からもだいぶ離れたし」



 緊張を隠しながら、さらりとした口調に努め、言う。

 そのまま押していた自転車に跨り、蝶梨の方を振り返りながら、



「こうして押さえておくから、後ろに乗ってくれ」



 そう促した。


 我ながら自然な誘い文句で二人乗りを切り出すことができたと、汰一は自画自賛する。

 二人乗りは彼女の方から言い出したことだし、早くたい焼き屋に行きたいのならすぐに乗ってくれるだろう。その方が、こちらも変に構えずに済む。


 そう、思っていたのだが……



「う……うん。それじゃあ…………」



 そう言って、蝶梨は後ろの荷台部分に座ろうと近付く…………が。




「…………やっぱり、私が漕ぐ!」




 突然、そんなことを叫んだ。

 思わず汰一が「えっ?」と聞き返すと、蝶梨は顔を真っ赤にし、取り乱した様子でこう続ける。



「やっぱり私が漕ぐよ! これ、私の自転車だし!」

「それはそうだけど……さすがにそんなことさせるわけにはいかないよ」

「で、でも、妹と乗る時はいつも私が漕いでるし……」

「それは妹だからな」

「刈磨くん、骨折してるし!」

「とっくに治っている」

「……私、きっと重いし!」

「それはない」

「うぅ…………やっぱり申し訳ないから、私走るよ! 刈磨くんは自転車に乗って!!」

「それこそ、これは彩岐の自転車だろ? なら、俺が走るべきだ」

「でも……でも……」



 おろおろと、次の言い訳を探す蝶梨。


 どうやら、いざ『二人乗り』という場面を前にした途端に緊張が押し寄せたらしい。

 これも"クールで頼れる彩岐蝶梨"を演じてきた弊害なのだろうか。頼るのが苦手というか、甘え下手というか……


 汰一は一度自転車から降り、狼狽える蝶梨の正面に立つと、



「『男だから、女だから』と決めつけるのは好きじゃないが、この件に関しては明らかな筋力差から男である俺が漕ぐべきだと断言する」



 そう、真っ直ぐに言う。

 それでも蝶梨は「でも……」と言いかけるので、



「前に言っただろ? 少しは頼ってくれって。さすがに彩岐よりは力あるんだから、俺に漕がせてくれよ。その方が、男としてのプライドも傷付かずに済む」



 と、蝶梨が納得しやすい言葉を選びながら微笑みかける。

 その言い方が効いたのか、彼女は申し訳なさそうに俯いて、



「…………重かったら、すぐに言ってね」



 ほんのり頬を染めながら、そう言った。



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