6-2 ささやきに耳を傾けて
「……じゃあ、うしろ乗るよ?」
背後から、蝶梨の遠慮がちな声が聞こえる。
それに汰一は、「あぁ」と、わざと短く答えた。
もちろん、緊張と鼓動の高鳴りを隠すためである。
汰一が跨る自転車──その後ろの荷台へ、蝶梨は近付く。
そして、スカートの裾を丁寧に押さえながら……ゆっくりと、横向きに座った。
僅かに沈む後輪。
すぐ後ろに彼女の存在を感じ、汰一は鼓動を全身に響かせる。
さらに、
「……つ、掴まってもいい?」
と、彼女に聞かれ、心臓がさらに強く脈打つ。
そ、そうか。掴まるのか。
そうだよな、危ないもんな。そうした方が良いに決まっているよな。
などと自らに言い聞かせながら、汰一は「おう」と答える。
緊張に身体を強張らせ、彼女の動きを待っていると……
白く細い腕が、後ろからそっと、彼の腰に回された。
瞬間、汰一は全身が粟立つような、ゾクゾクとした感覚に襲われる。
シャツ越しに伝わる、生々しい体温。
背中に感じる、柔らかな身体の感触。
ふわりと漂う、甘い香り。
"後ろから、彼女に抱き付かれている"。
その事実を、温度と感触と匂いとで感じ、汰一は息をするのも忘れる。
……駄目だ、落ち着け。意識し過ぎるな。
まずは安全に運転することだけを考えるんだ。
汰一は大きく息を吸い、ゆっくりと吐いてから……
「……危ないから、しっかり掴まっててくれ」
そう、声をかけ。
ペダルに置いた足にぐっと力を入れ、自転車を漕ぎ始めた。
ハンドルを握る手に汗が滲む。
思えば二人乗りなんて、まともにしたことがなかった。自転車で自由に出かけられる歳になる頃には自身の不運体質を自覚していたため、誰かを後ろに乗せることなど怖くてできなかったのだ。
それが……
まさか、片想いをしている相手を乗せることになるとは。
漕ぎ出しは多少ふらついたが、スピードに乗るとすぐに安定した。
自転車で走るという久しぶりの感覚に、汰一は少し気分が高揚するのを感じる。頬を撫でる風からは、夏の匂いがした。
『重い』なんて謙遜していたが、後ろに乗せた蝶梨は驚くほど軽くて、重さにハンドルを取られることも全くなかった。
後ろから回された彼女の手は、汰一の腹の前でぎゅっと握られている。
安定して座ることができているようだと、汰一は安堵するが……
運転に余裕が生まれると同時に、その意識は再び蝶梨の身体の感触へと奪われる。
彼女と触れ合っているところすべてが、火傷しそうな程に熱い。
時折背中に当たる柔らかな感触……その正体を深く考えないよう、汰一は何か話題を振ろうと頭を働かせる。
しかし、彼が口を開く前に、
「……なんか、ドキドキするね」
蝶梨の声が、後ろから聞こえてきた。
そのセリフに、汰一は変な声が飛び出しそうになるのを堪えながら答える。
「そ、そうだな。警察に見つかったら怒られるだろうし」
「……そういうドキドキも、ないわけじゃないけど……」
「え……?」
「……私、こんな風に男の子と二人乗りするの初めてなの。だから……ちょっと緊張してる」
それを聞いた途端、汰一の胸に隠しきれない喜びが込み上げる。
彼女と初めて『二人乗り』をした相手が自分なのだと、そう思うだけで、彼女を乗せたまま隣の県まで走れそうだった。
「……そうか。実は俺も初めてだ」
内心舞い上がっていることを悟られぬよう、汰一は落ち着いた声に努め答える。
すると蝶梨は、「えっ?」と驚いた声を上げる。
「刈磨くんも、初めてなの?」
「そうだけど……そんなに意外か?」
「えっと……お花買いに行くのに、裏坂さんを乗せたりしたことあるのかなぁ、って思ってた」
「ないない。いつも一人で買いに行ってたから」
「そっか……じゃあ、私が初めてなんだね」
「そうだな、彩岐が初めてだ」
そう答えた後、蝶梨が小さく笑った気がしたが……
自転車を漕ぎながら振り返るわけにもいかず、それを確かめることはできなかった。
代わりに、
「腕、本当にもう痛くない?」
蝶梨がそう尋ねるので、汰一は前を向きながら頷く。
「あぁ、もうすっかり大丈夫だ。早く自転車通学に戻りたいんだが、親に『夏休みに入るまではバス使え』って言われててさ。なかなか新しいチャリ買ってもらえないんだ」
「きっと親御さんも心配なんだよ、また自転車で怪我したらどうしようって。そう考えると、やっぱり刈磨くんにこんなことさせるわけには……」
「いや、もうすぐセールで自転車が安くなるんだと。どうせ買い直してもまた壊す可能性があるから、極力安い時に買おうって考えているらしい」
「そ、そっか……」
「確かに不運体質のせいで、親には金銭的にも迷惑をかけているからな。大人しくバスを使うことにするよ」
「そういえば……最近はその不運体質、どう? 『私の運気で不運を相殺する』なんて言っちゃったけど、かえって悪いことが起きたりしていないか気になってて……」
「それが……」
「…………」
「彩岐と過ごすようになってからは、全くと言っていいほど不運な目に遭っていないな。むしろ嬉しいことばかり起きている。間違いなく彩岐の強運のおかげだよ、ありがとう」
……と、カマイタチが"厄"を喰っている事実を伝えるわけにはいかないため、そう答えるが……
汰一にとっては、蝶梨が側にいることこそが最上の喜びであり幸福なので、あながち嘘というわけでもなかった。
はっきりと答える汰一に、蝶梨は「よかった」と安堵してから、
「その『嬉しいこと』って、例えばどんなことがあったの?」
そう、何気なく聞いてくるので。
汰一は言葉を詰まらせ、運転がふらつきそうになるのを堪える。
「そ、それは……」
君と過ごす時間の全てが、『嬉しいこと』に他ならないよ。
……なんてキザなセリフを言えるはずもなく。
「…………『ぶたぬきもち』という愉快なキャラクターに出会えたこと……とか?」
苦し紛れに、そう答えた。
ちょうどその時、赤信号の交差点に差し掛かり、汰一はブレーキをかけ停車する。
どんな顔をしているのだろうかと、恐る恐る蝶梨の方を振り返ると……
彼女は、「ぷふっ」と吹き出して、
「あはは。刈磨くん、そんなに『ぶたぬきもち』を気に入ってくれたんだ。やっぱりあのぬいぐるみ、もらわない方がよかったかな?」
そう、楽しそうに笑った。
目と鼻の先で花のように笑う彼女に、汰一は思わず見惚れながら、
「……いや、欲しかったらまた獲りに行くよ。だから、あれは彩岐が持っててくれ」
言いながら、前方へ向き直り、ハンドルを握る。
赤だった信号が青に変わり、汰一は左右の安全を確認してから再びペダルを漕ぎ始めた。
彼の腰に回した手をきゅっと握り直し、蝶梨は、
「……うん、大切にする。もし、刈磨くんがまたゲームセンターに行くのであれば……私も一緒に行きたいな」
そう、風の音に掻き消されそうな程の小さな声で囁いた。
汰一は、再び胸が高鳴るのを感じながら、
「もちろん。もうすぐガチャガチャが出るんだろ? どの店舗に設置されるのか、調べておくよ」
と、彼女との約束がまた一つ増えたことに、思わず頬を緩めるのだった。
──そうして、汰一と蝶梨は誰に咎められることもなく、無事にホームセンターへと辿り着いた。
人目につく国道を避け、裏道を使ったのが功を奏したのだろうが、蝶梨の強運スキル・"神の加護"が働いたのかもしれないと、汰一は思う。
駐輪場に自転車を停め、二人は園芸コーナーへと向かう。
花の鉢植えや苗は店の外に置かれているので、駐輪場から目と鼻の先だった。
「わぁ、どれも綺麗だね」
陳列された花の苗をきょろきょろ見回し、彩岐が言う。
愛らしいランタナや、夏が見頃のアサガオやハイビスカスが綺麗に並んで咲いている。
その中から、汰一は御目当ての花を探し、
「お、あったあった。これがストレプトカーパスだよ」
そう言って、目の前にある花の苗を指さした。
一言で言えば、小さなラッパのような花だった。
色は、紫やピンク、青や白など様々ある。
花弁の先が五つに分かれており、それが緑の葉の上で重なり合うようにいくつも咲いていた。
蝶梨も汰一の横へ歩み寄り、その花を覗き込む。
「これが……初めて見たけど可愛いね。ちょっとスミレに似てる?」
「確かに似ているけど、スミレ科じゃないはずだ。なんだっけな……イワタバコ科?」
「いわたばこ?」
「元々は熱帯の岩場に根を張る種らしい。これからの夏の季節にも育てやすい花なんだ」
「さすが刈磨くん、詳しいね」
「花のことだけはな。今日は予算的に三つしか買えないから、彩岐が選んでくれよ」
「えっ、私が?」
「うん。好きな色のを選んでくれ」
汰一が促すと、蝶梨は真剣な表情で一つ一つの苗を観察していく。
その横顔もやはり可愛いと、汰一が密かに見つめていると、
「……じゃあ、これとこれと、これ」
蝶梨は、ピンク、青、紫色の苗をそれぞれ指さした。
「お、いい色だな。それじゃあレジに持って行こう」
汰一は買い物かごにそれらの苗を入れながら……ふと考える。
今思えば、「好きだ」と言ってしまいそうな口を無理矢理捻じ曲げて『ストレプトカーパス』と叫んだのがきっかけだったが……まさか一緒に買いに来られる日が来るなんて、あの時は思ってもいなかった。
あれ以来、彼女とは随分と親密になれたように思う。
それも全て、彼女が"素"を出すための練習なのだとわかってはいるが、こちらにも『彼女を"厄"から護る』という使命がある。
多くは望まない。ただ、それらを言い訳に少しでも側にいられたら……
こんな穏やかな放課後が、もうしばらく続けばいいのにと、そう思う。
……しかし。
自分が彼女の側にいるのは、失踪したこの町の"
カマイタチも元々は失踪したその神が有していたらしいし……元の飼い主へ返されるのなら、俺はただの"不運な刈磨汰一"に逆戻りすることになる。
そんな俺に……ただ不幸を撒き散らすだけの俺に、彼女の側にいる資格はない。
この苗を花壇に植えて、花がもっともっと増えた頃……
俺はまだ、彼女の隣にいられるのだろうか?
「…………」
そんなことを考え、汰一は……
彼女の選んだ色鮮やかな花の苗を、愛おしげに見下ろした。
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