天秤を揺らす風 4

 



 飲み込まれた"厄"の、はらの中。

 底なしの闇に差した、一筋の光明こうみょう


 白い光を放ちながら、またたく間に闇を祓うそれは……





 ……氷柱つらら、か?


 いや…………


 水をまとった、槍……?





 汰一がそう思うのと同時に、彼を取り巻く闇が、音もなく弾けた。


 途端に明るく開ける視界。

 急に取り込まれた酸素に肺が驚き、ごほごほと咳が出る。

 すると、




「ありゃりゃ。汰一クン、大丈夫?」




 そんな声と共に、汰一の身体がふわりと浮く。

 何者かの肩にかつがれたのだ。

 顔は見えないが……汰一にはそれが誰なのか、既にわかっていた。


 屋上に軽やかに降り立ち、汰一を肩から下ろしたその人物は……



「遅くなってめんご。もう心配ないからね」



 案の定、へらっと緊張感のない顔で笑う、柴崎だった。



 彼の手には、蛇が巻き付いたような意匠の槍が握られている。

 周囲を見回すが、汰一を飲み込んでいたひるのような"厄"は跡形もなく消え去っていた。

 どうやら柴崎が、この槍で"厄"を祓ったらしい。


 いちおう助けられた形になるのだろうが……汰一は恨みたっぷりの視線で彼をめ付け、



「てめぇ……おっせぇんだよ! 呼んだらすぐ来いよ!!」



 渾身の怒りを込めて怒鳴りつけた。

 柴崎は両耳を塞ぎ、わざとらしく怖がる素振そぶりを見せる。



「ひぃん、そんな怒んないでよぉ。ボクだって超忙しかったんだから」

「ンなこと言って、どーせ好みの女監視してただけだろ! 彩岐に何かあったらどうするつもりだよ?!」

「違う違う、ほんとにヤバかったんだって。柴崎町で急に竜巻が発生して、停電して信号も電車も止まって、挙句の果てに特大の"厄"まで現れてさぁ。まじ周章狼狽しゅうしょうろうばいだったんだから」

「た、竜巻?」

「そ。原因不明だったけど……ここに来て、その理由がわかったよ。ね、艿那与比咩になよひめ



 と、柴崎が名を呼ぶと……

 屋上の室外機の裏に隠れていた艿那になが、ひょこっと顔を出した。

 何やらバツの悪そうな表情をしているが、すぐにけろっと笑って、



「よう、水神すいじんの若造。久方ぶりじゃの」



 そう、陽気に挨拶するが、



「……キミの仕業だね。竜巻の件も、巨大な"厄"の出現も」



 柴崎ににっこりと指摘され、「はうっ!」と動揺する。


 二人は知り合いなのか……それに、『艿那の仕業』とは一体どういうことなのか。

 汰一が視線で柴崎に問いかけると、それに答えるように語り始める。



「ボクたち"地主神とこぬしのかみ"が神候補である"エンシ"を護るよう上から命じられているように、"福神ふくのかみ"にも『"エンシ"の願いを極力叶えよ』っていう勅命ちょくめいが下っているんだ。徳を下げることなく大満足で往生し、気持ち良く神になってもらうためにね。端的に言えば、えこ贔屓ひいきのご機嫌取りだよ」

「ご機嫌取り……」

「そ。大方、柴崎町にいた"エンシ"の願いを叶えるために竜巻を起こしたんだろう。で、その後に神代町ここへ来て……彩岐蝶梨の願いを汲み取り、嵐を呼んだ」

「え……」



 それじゃあこの嵐は、彩岐自身が望んだものなのか……?


 未だ止むことのない雨風を汰一が見上げていると、艿那が観念したように声を上げる。



「あぁ、そうじゃ! 柴崎町にいた"エンシ"が『残業したくないなぁ』と呟いたから、竜巻で停電を起こし強制的に仕事ができないようにしてやったんじゃ! ここにいる"エンシ"も同じ! 雨を望んだから雨雲を呼んだまでじゃ!」

「そしたら、風に乗ってでっかい"厄"までついてきちゃった、と」

「うむ!」



 柴崎の補足に、開き直ったように頷く艿那。


 彼女のおかげで巨大な"厄"に気付くことができたと思っていたが……まさか彼女自身が元凶だったとは。


 汰一は雨に濡れた肩を落とし、ため息をつく。

 その横で、柴崎が槍を抱くように腕を組み、



「"エンシ"のご機嫌を取るのは結構だけど、加減を考えてくんない? これじゃあ無関係の人間が不幸になるじゃん」



 と、珍しく真っ当な説教をする。

 しかし艿那は、やはり子どもっぽい態度で「ふんっ」と顔を背け、



「誰かの幸福は、誰かの不幸じゃ。"福神ふくのかみ"と言えど万人に等しく幸せを与えることは不可能。この世は天秤じゃよ、天秤」



 と、これまた金言と言えなくもないセリフを返す。

 が、



「でも結局"厄"引き寄せて"エンシ"まで不幸にしかけてんじゃん。ぜーんぶボクが尻拭いしたんですけど」

「う゛っ」



 勝負あり。

 柴崎の正論に、艿那は言い返すことができなかった。


 敗者の悪あがきで、艿那は話題を変えようと両手をぶんぶん振り、



「というか、なんで柴崎町の"地主とこぬし"であるぬしが神代町ここにおるのじゃ?! この町の担当はどうした?! 何故この小僧が式神を使役している?!」



 そう、一気に捲し立てる。

 話の内容に合わせるように、風としてデッキブラシに留まっていたカマイタチが細長い獣の姿に戻り、汰一の首に巻き付く。

 その様子を、柴崎は横目で見ながら、



「それが、しばらく前から神代町ここの担当が行方不明でさぁ。それで隣町のボクが一時的に兼任しているんだけど、いかんせん範囲が広いから、昼の間は汰一クンに"エンシ"のボディーガードを手伝ってもらってんの」



 そう、簡潔に事情を説明する。

 すると、艿那は……



「…………、神の手伝いをさせているのか……?」



 信じられないといった様子で、汰一のことをまじまじ見つめる。

 その強張こわばった表情に、汰一は「どういう意味だ」と問いただしたくなるが、



「そうだよ。この町の神さまが見つかるまでの間、ちょっとだけ協力してもらおうと思ってさ。変化へんげもできないのにカマイタチと連携して、すごかったでしょ?」



 柴崎が呑気な声でそう言うので、汰一は聞くのをやめた。

 艿那は、どこか釈然としない顔で俯くが……



「…………ま、われには関係のないことじゃ。好きにするがいい」



 すぐにけろっと笑って、そう言った。

 それに、柴崎も満足げに頷き、



「んじゃ、これで解散ね。汰一くんもお疲れ。この後はボクが見守るから、もう帰って大丈夫だよ。あの扉を開けたら此岸しがんへ戻れるから、気をつけてね」



 と、ねぎらうように言う。

 汰一は、蝶梨にトイレに行くと言ってからだいぶ時間が経ってしまったことに気付き、慌てて駆け出す。



「おう、じゃあな。彩岐のこと、ちゃんと護れよ!」



 そう言い残すと、汰一はデッキブラシを手に屋上を後にした。













 ──汰一が去った、"亡者たちの境界"で。




「……本当に、どういうつもりじゃ? あの人間、ただの"にえうつわ"じゃなかろう?」




 残された艿那が、低い声で尋ねる。

 柴崎は、槍に変化へんげさせていた式神を蛇の姿に戻しながら、



「あれー? 『われには関係ない』んじゃなかったの?」



 と、とぼけたように言う。

 腕に巻き付けた蛇を撫でる柴崎に、艿那は鋭い視線を向け、



「……何を企んでいる?」



 再び、低い声で尋ねるが……

 柴崎は、やはり飄々とした口調で、




「企んでなんかいないよー。ボクはただ、失踪したこの町の神を早く見つけたいだけ。だから…………」




 ──にこっ。


 と、口元にだけ笑みを浮かべて、





「……これ以上、この町で面倒なこと、起こさないでね」





 そう、静かに忠告した。






 ♢ ♢ ♢ ♢






 校舎への扉を開けると、汰一の視界に色が戻った。


 屋上を振り返るが、柴崎と艿那の姿はもう見えない。

 どうやら此岸しがんに返されたようだ。



 さて、どれくらいの時間が経っただろうかと、ポケットからスマホを取り出し確認すると……教室を出てから、二十分が経過していた。



 ……トイレにしては長すぎる。

 何より、雨に濡れて全身びちゃびちゃだ。

 この状況を、彼女にどう言い訳しよう?



 頭を抱えながら、とりあえずデッキブラシを戻そうと男子トイレに入る。

 すると……



 突き当たりの小窓が割れ、トイレ内に雨が吹き込んでいた。

 床にはガラスの破片が散乱している。



 強風により割れたのか、それとも……

 あの"厄"が、校舎に突っ込みかけた影響だろうか。


 あのまま止めることができなければ、蝶梨のいる教室の窓が割れていたかもしれない。

 それを想像すると、背筋に冷たいものが走った。



 ……そして。

 汰一は、あの"厄"に飲まれた時に流れ込んできた感情を思い出す。


 何かに怯えるような、暗くて寂しい感情。


 "厄"は、死んだ人間の魂だ。

 あの悲しみを抱えたまま永遠に彷徨さまよい続けるよりは、ちゃんと祓って次の人生に送り出した方が、当人にとっても良いのだろう。


 それを実行するのが、柴崎たち神。

 そう考えると、あのチャラついた男もちゃんと神らしいことをしているのだなと、今更ながらに思う。


 ……まぁ、艿那のように後先を考えない神もいるようだが。



 と、彼女のせいで割れた窓を見上げ、汰一は半眼になる。



 まったく。ガラスは飛び散るわ、雨は吹き込むわでめちゃくちゃだ。

 更に濡れそうだが、誰かが来る前に片付けなければ……



 ……と。

 片付けを始めようとした汰一の脳裏に、蝶梨への言い訳が浮かぶ。


 ……そうだ。

 をそのまま言い訳にしてしまおう。


 汰一は掃除用具入れからを取り出し、デッキブラシを使って素早くガラス片を集める。

 それから濡れた床をモップでさっと拭き、ガラス片を載せたちりとりを手にトイレを出て、蝶梨が待つ二年E組の教室へと向かった。



 物証もある。我ながら完璧な言い訳だ。

 そう自画自賛しながら、教室の引き戸を開けようとした……その時。



「……ん?」



 廊下の突き当たり……階段を降りて行く人物の姿に、汰一は思わず動きを止める。



 茶色がかった短髪。

 横顔でちらりと見える眼鏡。

 見慣れた通学カバン。



 間違いない。あれは……


 腐れ縁な幼馴染、忠克ただかつだ。




「……あいつ、だいぶ前に帰ったはずじゃ……」



 疑問に思うも、忠克は汰一の方を見ることなく、階段を降り姿を消した。



 ……雨で帰るのが億劫になり、校内のどこかでスマホゲームでもしていたのだろうか?



 と、汰一は深くは考えずに、再び教室の戸へ手をかける。今は忠克のことを気にしている場合ではなかった。



 ……よし。



 覚悟を決めて、ガラッと引き戸を開ける。

 すると。


 蝶梨は、元の席に座ったままだった。

 扉が開いた音にハッと顔を上げ、汰一の方を振り返る。


 彼女が無事だったことを確認し、汰一はほっと息を吐くが……蝶梨の方は、



「…………何があったの?」



 眉をひそめ、彼の姿をまじまじと見つめ返した。


 無理もない。今の汰一はと言えば、頭から足先までびしょ濡れで、手にはちりとりを持ち、疲れ切った顔をしているのだ。教室を出て行った時と、あまりに様子が違いすぎる。


 怪訝な顔をする蝶梨に、汰一は困ったような笑みを浮かべながら、



「トイレに入ったら、風で窓ガラスが割れてさ。危ないから片付けていたんだ。お陰でびしょびしょ。俺ってつくづく不運体質だよな」



 そう、用意していたセリフを口にする。



「待たせてごめん。とりあえず先生に知らせてくるから、彩岐は先に帰っててくれ。まだ雨も風も強いから、気をつけてな」



 そのまま、汰一は再び廊下に出ようとする。

 ……が、



「待って」



 席を立った蝶梨が、すぐに引き止めた。

 そして、汰一へ近付くと、




「……大丈夫? 怪我、してない?」




 心配そうに、彼の濡れた身体を見回した。


 てっきり呆れられると思っていた汰一は、予想外の反応にドキッとする。



「だ、大丈夫だ。怪我はしていない」



 慌てて否定する汰一の顔を、蝶梨はじっと見つめ……



「……私も一緒に行く。刈磨くん一人だと、また良くない目に遭いそうだから」

「え?」

「私の運の良さで、刈磨くんの不運を相殺そうさいしなきゃ。でしょ?」



 そう言うと、小さく微笑んで。



「それに、先生のところへ行く前に身体を拭かなくちゃ。このままだと風邪引いちゃうよ。ほら、座って」



 汰一の手からちりとりを奪い、近くの席に座らせると、彼女は自分の鞄からタオルを取り出す。

 そして再び、汰一に歩み寄ると……



 汰一の正面に立ち、彼の濡れた髪を、拭き始めた。



 その近さに、髪を撫でられる感触に、汰一は息を止め硬直する。



「こんなに濡れて……一人でやらないで、先に誰かを呼べばよかったのに」



 頭上から降ってくる、澄んだ声。

 自分の身に起きていることが信じられず、汰一は気の利いた言葉を返すこともできなくなる。


 次第に、その優しい手つきが心地良くなり……

 汰一は、ふと目を閉じた。

 


 こんな風に、誰かに髪を拭いてもらうのなんて何年ぶりだろうか。案外、気持ちの良いものだ。

 ……いい匂いだな。どうして彼女の香りは、こんなにも胸をくすぐるのだろう?



 そんなことを考えながら、ゆっくり目を開けると……

 すぐ目の前に彼女の胸元があることに気が付き、心臓が跳ね上がる。



 眼前で揺れる、ワイシャツの胸元。

 そのボタンの隙間から、白い肌がちらちらと見えて…………



「…………っ」



 汰一は、咄嗟に顔を背けた。

 髪を拭いてくれている彼女の善意につけ込んでよこしまな気持ちを抱くなんて、彼の理性が許さなかった。


 しかし、急に横を向いた汰一に、蝶梨は……

 彼の頬を両手で挟み、ぐりんっと無理やり正面を向かせる。


 そして、




「聞いてるの? こないだ骨折したばっかりなんだし、無理するの禁止。わかった?」




 と……

 汰一の目を真っ直ぐに見つめ、言った。


 その近さと、自分のことを本気で心配している真剣な眼差しに……汰一は、目を逸らせなくなる。




 彼女のクールさは、彼女の努力によって造られたもの。

 しかし、この優しさと思いやりは、彼女自身が元来持ち合わせているものだ。


 だから……


 やっぱりどうしようもなく、彼女に恋をしてしまう。

 何を犠牲にしても護りたいと……そう思ってしまう。




『刈磨くんなら、どんなことにときめくのか……参考までに教えてよ』



 先ほどの問いに、今なら迷いなく、こう答えるだろう。





「…………そういうとこだよ」





 両頬を挟まれたまま、汰一が呟くので。

 蝶梨は「え?」と聞き返すが、彼は一度口を閉ざし、




「……わかった。無理はしないから……また勉強、教えてくれないか? 彩岐の解説、すごくわかりやすかった」




 そう、微笑みながら言う。

 蝶梨は、少し驚いたような顔をして……しかしすぐに笑みを浮かべて、



「いいよ。それじゃあ……続きはまた明日ね」



 言って、汰一の額の水滴を、優しくぬぐった。




 窓の外では雨が止み、雲の隙間から、夕陽が薄く差し始めていた。



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