第二章 近づく距離と彼女の秘密

1-1 蝶と向日葵

 



 六月も、もう半ばである。


 先日の大雨以降、空は再び梅雨時期を忘れたかのような晴天を見せていた。

 気温も高く、中庭の石畳みが太陽熱を反射し、ゆらゆらと陽炎かげろうを生み出している。




「──今日は何をする予定なの?」



 花壇に着くなり、蝶梨が汰一に尋ねる。


 ここ数日、教室で一緒に勉強をしてから花壇へ向かうというのが習慣になりつつあった。

 今日も蝶梨による課題プリントの解説を終え、ここからは汰一が庭いじりを教える番である。



 蝶梨の質問に、汰一は「うーん」と花壇を見回し、



「ヒマワリの手入れかな。先月種を植えたのがいい感じに育ってきているんだ。花が咲くのはまだ先だけど、追肥ついひをして、虫除けを撒いて、摘心てきしんもしないと」

「てきしん?」

「花の芽を摘み取ることだよ。主枝しゅしにできた芽を摘むと脇芽が出てきて、花の数が増えるから……」

「芽を、摘み取る……?」



 ピクッ、と反応する彼女。

 それを見た汰一は……息を呑んで、



「もしかして……『ときめき』の予感か?」



 尋ねる。

 蝶梨は、神妙な面持ちで頷き、



「うん……なんか掴めそう」

「よし。じゃあ今日の作業は摘心てきしんに決まりだ。はさみ取ってくる」

「私も準備してくるね」



 そう言って、汰一は物置へ、蝶梨はジャージを穿くためにトイレへと向かった。



 蝶梨の『ときめきの理由』を探すため、汰一は彼女の反応を見ながらその日の作業内容を決めていた。

 これまでに試した中で彼女の反応があったのは、草むしり、硬くなった土の掘り返し、蔓性つるせいの花を支柱に括り付ける作業、などだが……



 ……だめだ。

 こうして思い返してみても、まったく共通項が見えてこない。



 と、汰一は物置小屋を開けながら、ため息をつく。


 手先を使う繊細な作業に反応があったかと思えば、くわを振るうような力強い作業にも反応を示す。

 いろいろ試せば試す程、答えに近付くどころか迷宮入りしていく。

 彼女の『ときめきの理由』は、想像以上に難解だった。


 こうして毎日のように彼女と放課後を過ごせるのは、個人的な感情としても、"厄"から護るという意味でも喜ばしいこと。

 しかし……

 と、汰一は目を閉じ、彼女のを思い出す。




 ほんのり上気した、白い頬。

 桃色の唇から溢れる、はぁはぁという甘い吐息。

 何かに悶えるように眉をひそめ、黒目がちな瞳をうるうる潤ませる、あの反応……




 ……正直、勘弁してもらいたい。


 あの熱に浮かされたような艶っぽい反応を目の前で見せ続けられるのは……理性的に辛いものがあった。



「今日の作業で、少しでも答えに近付ければいいが……」



 呟きながら、物置小屋から園芸鋏や肥料、虫除けの薬剤を取り出す。

 そしてそれを、ヒマワリが植わっている場所へと運ぶ。


 ヒマワリは、花壇の中でも一番日当たりのいい場所に植えてあった。

 苗の数は全部で四つ。

 始めは可愛い双葉だけだったのが、今や本葉が青々と茂り、高さも十センチ程に成長していた。


 汰一はしゃがんで、葉を裏返したり、茎の太さを見るなどして状態を確認する。



 見たところ、順調に育っているようだ。

 彼女の着替えを待つ間、先に追肥をしよう。

 それから、腐葉土も撒きたい。こうも日照りが続くと乾燥が心配だ。



 立ち上がり、汰一は中庭から少し離れた校舎の裏へと向かう。

 陽の当たらない、薄暗い校舎裏。そこに、木の板を組み合わせて作った簡易的な木枠がある。中に落ち葉を溜め、腐葉土を作っているのだ。

 近くに置いていた荷車に適当な量の腐葉土を乗せ、花壇へと押し運ぶ。花壇の手入れは、こうした重労働も意外に多かった。



「(……少し身体を動かすだけで汗が出るな)」



 校舎裏を出た途端、強く照りつける西日に思わず目を細める。

 このまま梅雨をすっ飛ばして夏が来てしまうんじゃないか?

 なんて考えながら、校舎の角を曲がったところで……汰一は、固まる。



 そこには、着替えを終えた蝶梨が立っていた。


 半袖のワイシャツにネクタイ。

 制服のスカートの下に、学校指定のジャージを穿き…………




 長い黒髪をにし、左右の肩から垂らしていた。




 荷車を持ったまま、ぽかんと放心する汰一に……

 蝶梨は、眉を寄せて。




「…………や、やっぱり、変かな……?」




 と、恥ずかしそうに言う。


 汰一は、荷車からパッと手を離し。

 軍手を素早く脱ぎ捨て、その手を叩きながら、




「……良い。良いしかない。ありがとう。本当にありがとう」




 キリッとした表情で、謎の謝意を述べた。


 顔を引き締めているのは、少しでも緩めると情けないデレデレ顔になり、涙や鼻血が流れる恐れがあるからだ。



 だって、三つ編みである。

 この間の雨の日に話した、あの三つ編み……


 普段の結っていないストレートな髪型ももちろん魅力的だが、三つ編みにした途端、一気に少女らしい愛らしさが増した。

 クールで大人びた雰囲気の彼女が、三つ編み一つでここまで印象が変わるとは…… 少し幼くなったようにさえ見える。『綺麗』というよりは『可愛い』と愛でたくなる、そんな雰囲気だ。


 これをジャージを穿くついでにこっそり結ってきたのかと思うと、汰一はもう愛しさと可愛さとでどうにかなりそうだった。



 真顔で拍手する汰一に、蝶梨は居心地悪そうに身体を縮こませる。



「……刈磨くんて、やっぱり髪型フェチなの?」

「そのつもりはなかったが、今まさに開花したかもしれない」

「……どういうこと?」

「とても似合っている、ってことだ」



 愛しさのあまり、口から溢れた本心。

 蝶梨は驚いたように目を見開くが、汰一は優しく微笑みかける。



 本当は好きなのに、『私らしくないから』と、『可愛いのは似合わないから』と遠ざけていた髪型。

 それに、彼女は学校で初めて挑戦した。


 普通の少女なら髪を結うことなんてありふれたオシャレの一つなのだろうが……

 彼女の過去のトラウマを考えれば、想像以上に勇気のいる行動だったはずだ。


 "本当の自分"を曝け出そうと踏み出す、その勇気を。

 汰一は、ちっぽけな恥などは捨て、最大限称賛するべきだと思った。


 だから、





「……似合うよ、三つ編み。すごく可愛い」





 真っ直ぐに、そう伝えた。

 その途端、蝶梨は顔を赤く染めて、



「あ、ありがとう……」



 と、照れながら俯く。

 その声も、普段のクールな彼女からは考えられないような弱々しいもので、汰一はますます愛おしさを感じる。



 この髪型も、表情も、声も、クラスの連中が見たら驚くだろう。

 そして、彼女の可愛さにますます魅了されるに違いない。


 そのことが、わかっているから。

 まだしばらくは、自分の前でだけその素顔を曝け出してもらおうと、



「……この調子で、自分を曝け出す"練習"をしような」



 汰一は、優しい笑みの裏に醜い独占欲を隠しながら、そう言った。







 ──脱ぎ捨てた軍手を再び嵌め、腐葉土を積んだ荷車を押して。


 汰一は、蝶梨と共にヒマワリのある花壇へと戻った。



 緑の葉を茂らせる小さな苗を、蝶梨は腰を下ろして眺める。



「これが、ヒマワリの葉っぱ?」

「そう。花がついていないと何の植物かわからないよな」



 汰一の返事を聞きながら、興味深そうに葉を観察する蝶梨。

 隣にしゃがむ彼女の姿をあらためて眺め……汰一は、思わず頬を緩める。



 手にはぶかぶかの軍手を嵌め。

 スカートの下に学校指定のジャージを穿き。

 三つ編みおさげで、花壇にしゃがみ込む彼女……



 ふっと漏れた息に、蝶梨は見られていることに気付き、



「……何ニヤニヤしているの?」



 と、眉を顰めて言う。

 汰一は、笑みを隠せないまま、



「いや、その格好、素朴そぼくでいいなと思って」

「……『芋っぽい』って言いたいの?」

「まさか。『親しみやすい』って意味だよ」

「そうかしら。そのニヤニヤは、そういう前向きな視線には感じられないけど」

「それは…………田舎の中学生みたいだなって、ちょっと思っちゃって」

「やっぱり三つ編みやめる」

「うそうそ、冗談だよ。すごく似合っているからやめないでくれ」

「……もう」



 ジトッとした目で汰一を睨む蝶梨。

 ほんのり頬を染め、恨めしそうに自分を見るその表情が……汰一はクセになりつつあった。



「……それで、まずは肥料を追加すればいいの?」



 ヒマワリに視線を戻し、蝶梨が尋ねる。

 汰一は頷き、物置小屋から持ってきた肥料の袋を持ち上げた。



「あぁ。苗の周りに満遍なく撒くだけでいい。その後、乾燥を防ぐために腐葉土を撒いたら……いよいよ、花芽を摘む」

摘心てきしん……」



 ごくっ、と蝶梨の喉が鳴る。

 軍手を付けた手をぎゅっと握り、緊張気味な視線を向ける彼女に……

 汰一は、神妙な面持ちで、こう捕捉する。




「……が、その前に。思ったより雑草が増えていたから…………まずは草むしりからだ」




 その言葉に、蝶梨は、




「くっ……草むしり……っ」




 ぴくっ、と身体を震わせ。

 微かに目を輝かせた。


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