天秤を揺らす風 3
「になよひめの、かみ……?」
汰一が聞き返すと、幼女は「うむっ」と頷き、
「そうじゃ。いい名じゃろ? 敬愛を込めて『
腰に手を当て、えっへんと胸を反らす。
その幼女然とした振る舞いに、汰一は思わず半眼になる。
この"境界"に呼び込んだということは、この子も神だと考えて良いのだろうけど……
柴崎といい、どうしてこう神らしくない神にばかり
などと少々呆れるが、考えている暇はなかった。
汰一は、急ぎ用件を聞くことにする。
「それで? でかい"厄"が来ているっていうのは本当なのか?」
それに、小さな"
「そうじゃ、今この建物の上空におる。ぬしの式神が祓おうと頑張っておるが、あの姿では効率が悪過ぎる。このままでは、あの"エンシ"にまで危害が及ぶぞ!」
どうやら先日の"影の
汰一はポケットに手を入れ、柴崎にもらった御守りを握り、
「おい、柴崎。彩岐がピンチだ、何とかしろ」
そう、呼びかけてみる。が……
反応は、返って来なかった。
あのチャラ神め、肝心な時に頼りにならない。
しかし、あいつの応答を待っている暇はない。
俺が……何とかしなければ。
屋上へ向かおうと、汰一は色を失くした廊下を駆け出す……が、すぐに足を止める。
この間のような戦い方が求められるなら、武器が必要だ。
当然、
汰一は
そして、一番奥にある掃除用具入れを開け、デッキブラシを一本引ったくった。
強度に不安はあるが、丸腰よりはマシだろう。
「何をしておる! 早く!!」
律儀にトイレの外で待つ
そして再び屋上を目指し、走り出した。
──施錠されていた屋上への扉は、艿那が念じただけであっさりと開いた。
デッキブラシを手に屋上へ出た瞬間、豪風と雨粒が汰一に吹き付ける。
思わず閉じた目を、すぐに開くと……
「…………なんだ、こいつは……」
眼前に広がる光景に、汰一は絶句した。
頭上を覆う、真っ黒な影。
雨雲と見紛う程に巨大なそれは、血を吸い膨らんだ
こんな大きさの"厄"がいるなんて……こないだの"
あまりの大きさに息を呑んでいると、視界に一筋の閃光が現れる。
カマイタチだ。細長い身体をピンと張り詰め、一直線に"影の蛭"へと飛んで行く。
そのまま何度か突進し、大きな口で"蛭"の身体を食い千切っていくが……
まるでクジラに楯突くコバンザメ。体格差がありすぎる。
食い尽くすのに途方もない時間がかかることは、一目瞭然だった。
この間のように、カマイタチをモップに纏わせ斬るしかない。
しかし問題は、どうやって空中に浮かぶ"厄"に近付くか、である。
汰一は、隣に立つ小さな神に助言を求めることにする。
「えぇと……になよの……」
「
「
すると、彼女はニヤリと笑って、
「任せろ。われは"
そう言うと、小さな手のひらに
その団扇を汰一に向け、円を描くと……
柔らかな風が生まれ、汰一の身体を包み込んだ。
直後、
「……うぉっ」
汰一の足が、ふわりと浮いた。
その隣で、艿那も重力を無視し浮き上がる。
「さぁ、このまま飛んでいくぞ!」
「まじかよ……どうやって?」
「こうじゃ!」
両手を上げ、ぴゅーっと上昇する艿那。
汰一も真似するように手を上げて、浮いた足で屋上の床を蹴る。
すると、水中で蹴伸びをするのと同じような感覚で身体が上昇した。
そのまま、みるみる内に頭上の"蛭"へと近付く。
汰一の接近に気付いたのか、"蛭"を喰らっていたカマイタチがびゅんと彼の元へ飛んで来た。
そのまま甘えるように腕に巻き付いてくるので、汰一はその身体に傷がないか確認する。
「……よかった、怪我はしていないみたいだな」
「呑気なことを言うている場合ではない! 早う
ぱたぱたと手を振りながら、艿那が急かすが……
しかし汰一は、苦笑いをして、
「それって、武器の姿に形に変える、ってやつか? 悪いが、俺にはそれができない」
「何故じゃ! そやつの
真名……というのは、このカマイタチの本当の名前という意味だろうか?
なるほど。式神を
しかし……
「
汰一の言葉に合わせるように、カマイタチの身体が
そして、
「……
手にしたデッキブラシに、風と化したカマイタチが竜巻のように纏わり付いた。
その時、悠然と漂っていた"影の蛭"が動いた。
空中を泳ぐように身体をうねらせると、頭と思しき方を汰一たち向け……
歯のない巨大な口を、ばかっと開けた。
「ぎゃーっ! 気付かれたーっ!!」
叫びながら、ぴゅーっと離れる艿那。
汰一は、風を纏ったデッキブラシを構え……
宙を蹴るようにして、"蛭"へと向かって飛んだ。
飲み込もうとしているのか、大きな口を開けたまま迫り来る"蛭"。
それに、汰一はギリギリまで近付き……
口に飛び込む直前に急下降し、"蛭"の身体の下へと入り込む。
そして、デッキブラシを横薙ぎに振るった。
刹那、ブラシの
鋭利な刃が"蛭"の身体を斬り裂き、さらにその断面がボコボコと
抵抗し、逃げようと動く"蛭"。
それを追いながら、汰一はブラシを何度も振るっていく。
「す、すごい……」
"風の
が、"蛭"も大人しくやられているだけではなかった。
軟体動物のような動きで身体をしならせ、逃げる速度を急速に上げる。
しかも、その向かう先は高校の校舎……蝶梨がいる二年E組の教室の方だ。
「まずい……!」
足止めしようと併走しながらブラシを振るうが、"蛭"は止まらない。
なす術もなく、あっという間に校舎へ到達してしまう……かと思われたが、
「えぇーいっ!!」
そんな声と共に、艿那が団扇を下から上へ掬うように振るった。
直後、猛烈な向かい風が巻き起こり、"蛭"の身体がひっくり返る。
「今じゃ!」という艿那の声より早く、汰一は動いていた。
動きを止めた"蛭"を目掛けて宙を駆けると、勢いを殺さないまま尻尾から胴体にかけてを乱れ斬っていく。
"風の
「このまま、頭まで斬り裂けば……!!」
額に汗を滲ませながら、汰一はブラシを振るい続ける。
そうして、長大な全長の半分程まで消し去った……その時。
"蛭"が、再び動いた。
最後の足掻きを見せるように、残った半身をビクビクッと痙攣させると……
弾けるような速さで起き上がり。
そのまま、口を大きく開け……
汰一の身体を、丸呑みにした。
「……! 小僧!!」
艿那の叫びが、濁って聞こえてくる。
"蛭"の口の中は、底なしの沼のようだった。
闇をドロドロに溶かしたような、黒い水。
息ができず、もがけばもがく程に
「(まずい……早く斬らなきゃ……!!)」
汰一は息を止めながらデッキブラシを振るうが……"風の
水中だと、風が起こせないのだろうか?
カマイタチの様子を確認したいが、一寸先も見えぬ程の闇に包まれ叶わない。
焦る汰一の耳に……どこからか、声が聞こえてくる。
『…………暗いよ……』
それは、幼い声。
小さな子どもが、何かに怯えているような声。
『怖いよ……』
『寒いよ……』
『寂しいよ……』
『お母さん、どこ?』
『なんで見つけてくれないの?』
『僕はここにいるのに……』
声と共に、様々な感情が汰一に流れ込んでくる。
不安。
孤独。
恐怖。
絶望。
そして……
憎悪。
これは、この"厄"の……霊魂の感情か?
"厄"は、この世に強い未練を残し、転生を拒む魂が悪霊化したもの。
この魂は……幼い子どものものだったのだろうか?
しかし、その思考も闇に飲み込まれる。
酸素が足りない。身体が、ひどく冷たい。
暗い。
怖い。
寂しい。
気が狂いそうな程の絶望が、汰一の心を
どこからが"厄"の感情で、どこまでが自分の感情なのか、境目がわからなくなる。
駄目だ。飲まれるな。
彩岐を護らなきゃ。
こんなでかい"厄"に触れられたら、どんな
耐えろ。抗え。
飲まれる前に、飲み込め。
そうやって、ねじ伏せたじゃないか。
汰一は、目を閉じる。
そして、自らの魂の深いところに触れようとした────その時。
「──お待たせ、汰一クン」
あの、癪に触る声が聞こえ……
周囲を包む闇を、閃光が斬り裂いた。
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