後編

線香のにおいが鼻先から喉の奧に流れ込んでいた。お経を読む声が朗々と響いている。

『ここは寺…』

目を覚ました僕の横に誠二が寝かされていた。前には祭壇があり、お坊さんがお経を唱えている。もう夜なのか、天井には裸電球が黄色く光っていた。


「さて」

お坊さんが振り返った。

「目が覚めたようだね。君にはきちんと説明しなければな」


七十歳をとうに過ぎているだろう、しわだらけのその顔には見覚えがあった。先ほど、錆だらけの鐘をめぐって話をしていた無鐘寺の住職だ。ということは、ここはその寺の本堂だろうか。


「このような場所で目を醒まして、さぞ驚いたことだろう」


『どうして僕はここに…』

「いやー、危ない所だった。もう少しで濁流に流されてしまうところだった…」

僕が口を開く前に、住職はいきさつを説明し始めた。


住職は、寺の境内から追い出され、自転車で走り去った僕らの後ろ姿を見て、奇妙な胸騒ぎに襲われたそうだ。

不安に導かれるように軽トラで潜水橋に駆けつけると、助けを求め続ける昇を見つけた。それで、軽トラを橋の途中まで進め、積んであったロープを命綱にして、気を失っていた僕と誠二を助けてくれたのだ。


「それで昇…もう一人の子は?」

助けてもらったお礼を言った後で、僕は姿の見えない友人のことを尋ねた。


「彼は大丈夫だった。災いが憑りついている気配はなかった。だからに家に帰ってもらった」住職は言った。

「ということは、僕と誠二には、何かが憑りついて?」

「まあお待ち。話には順番というものがある」

住職は痩せた腕を上げて僕を制した。


「わしが何故に、黒蛇川の潜水橋に駆けつけたかだが…、

君たちも見たあの錆だらけの鐘は、実は壊れた橋の柱の下に埋められていたものでな。その因果が、わしを潜水橋に向かわせたんだ」


「鐘が橋の柱の下に埋められていた。因果?」

首を捻った僕の前で、住職はこくりと頷いた。


「ずっと昔、江戸時代の出来事だよ。この地方を治めていた殿様が、城で大切な会合を開こうとしていたんだ。ところがこの寺の若い僧が、居眠りをしていて時の鐘をくことを忘れてしまった。そのせいで家臣の侍たちは集まらず会合は流れ、隣の国の大名に領地の一部を取られることになってしまった。激怒した殿様は、僧を捕まえ、当時、暴れ川だった黒蛇川に架ける橋の人柱ひとばしらにしたんだ。

僧はこの寺の鐘の中にくくられて、生きたまま沈められた。それを土台にして橋は作られた。時代が流れて橋が改修工事されても、いわくつきの土台だけは変えることはなかった。

君も知っているかもしれないが、あの橋では何人もの人が、理由もないのに川に転落して溺れてしまっている。これまで幾度も、成仏のための祈りが捧げられたが効果はなかった」


住職の言う通りだった。つい先日、大雨の降る前も、散歩に出ていたお年寄りが川に転落して亡くなっていた。乾いていたはずの橋の上に、足を滑らせた跡が残っていたそうだ。


「そして僧と一緒に川に沈められた鐘は、長い歳月を経て寺に戻ってきた。だが奇妙なことに、鐘には怨念おんねんの「気」はなかった。君たちが自転車で走り去った後で、わしははたと思った。怨念は黒蛇川の潜水橋に残っていて、君たちを呼んだのではないかと」


「僕、水中から得体の知れない物が、這い上がってくるのが見えたんです。もしかしたら、それが…」

住職の話に僕はつけ足した。知らぬ間に歯がガチガチと鳴っていた。


「おそらく。そして君たちは、【それ】に見入られ、帰るべき場所にそれを運んできた。つまり、わしも怨念に呼ばれ、その思いに手を貸したのだ」

「住職さんが手を貸した?」

「物事の流れというものだよ。そしてその流れに従い、わしはここで君らに取り憑いているものを成仏供養する。すまないが、家に帰ってもらうのは、それが済んでからになるが…くっ」


急に住職が身もだえしながら突っ伏した。


「ああ、そんな」

隣に横たわったままの誠二の少し開いた口から、例の黒いものが流れ出ていた。


【怨念】は誠二の体に入り込んでいたのだ。その触手のような片手が長く伸びて、住職の首に巻き付いていた。


ピチャーン ピチャーン

どこからともなく、水が滴る音が響いた。


祭壇の蝋燭が消え、天井の電球もふと消えた。


闇の中で、僕の背中にぬるりと湿ったものが張り付いた。すうっと青白く光るものが目の前に浮かんでいる。人魂ひとだまだった。


…ひとつかえ ふたつかえ…


誠二を助けようとした時に聞こえた声が、耳元で囁いている。

視線を横にずらすと、ぬるめいた塊が肩の後ろから首を出していた。


「くっ」

それを払いのけようとしたが、体は凍りついたように動かなかった。

と、人魂ひとだまが後に流れた。同時に僕は立ち上がった。自分の意志ではなかった。背中に張りついているものが、僕の体を動かしていた。


障子の戸を開け、裸足のまま本堂の外に降りた。砂利をすりながら進んだ先に見えたのは、鐘突堂に置かれたあの鐘だった。人魂はその中に消え入った。

僕の体は鐘撞堂の石段を登って、鐘の前にしゃがみこんだ。

ぐぐっ ぐぐっ

無理矢理に伸ばされた僕の手が、鐘の縁を掴んだ。

あり得ない…あり得ない事だが、僕は鐘を持ち上げた。そしてぐらつきながら鐘突堂の屋根の下のフックに引っかけた。

途中、ボキボキという嫌な音が体中から響いた。尋常を超えた重さに骨が耐えられなかったのだ。

限界を超えた激痛…しかし、僕は呻くことも、気絶することもできなかった。体はただ壊れていく操り人形のように動き続けた。


…ひとつかえ ふたつかえ…

突き棒の綱を握らされた僕の耳元で、舐めるような声がささやかれ続けた。


僕は気づいた。怨念は尋ねていたのだ。何回、鐘を撞いたらいいのかを。でも、そんな事を知ろうはずがない。


大きく後ろに引かれた腕の筋肉がきしんだ。骨が折れるだけでなく、腕が奇妙に凹んで千切れかかっていた。


『いったい正解は幾つなんだ!』

動かない唇の奥で叫んだ。


その時、鐘の中から低い声が漏れた。


『我が恨みの心に応じてはならぬ。我が本望は、ただただ安らかに眠る事』


激痛がかすかに遠退いたようだった。

腕は千切れてしまうかもしれない。ただ気力だけを頼りに、僕は綱を前に突き出した。


『どうか成仏を!』


ゴーワーンーー

低い雷鳴のような音が響いた。

体を操っていた力が弱まっていく。その場に崩れた僕は、鐘の中からこぼれ落ちたものを握り締め、芋虫のようにのたくりながら鐘突堂から這い降りた。


長く続いた鐘の音が止まるのと同時に、お堂の柱が折れ、鐘は地面に落ちて砕け散った。


硬く強ばっていた手を開くと、仏様が手を合わせたような形の骨の欠片かけらがあった。

青白い人魂が、揺らめきながら骨の中に消え、同時に僕の意識も闇に消えた。


・・


…怨念。真の成仏の時までは、暫くこの世を浮遊することあり…


今宵こよい、あなたの背後または枕元で、数を尋ねる声があっても、決して応えてはならない。このことの世の人への拡散を望むばかり…

                                                          了

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無鐘寺の鐘 @tnozu

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