くるくるカプチーノ②

 私は親族から虐められていました。

 

 戦国時代の、妖怪あやかしを成敗することを生業なりわいとする百足ももたり家に私は生まれました。

 しかし、私には妖怪の血が混じっています──父が妖怪で母が人間です。当主の娘である母を身籠らせて姿を消した父は、殺すべき敵でした。

 当然、母は堕胎を望まれました。しかし、頑なに聞き入れず、産婆とお医者様に金貨を渡して殺さないように頼み込み、私を出産したのです。

 ですので、物心が付いたころには、お祖父様やお婆様、伯父様、他にもほとんどの血縁者から強い嫌悪を向けられている状態が当たり前で、子どもは皆こうなのだと──私が知らないだけで従兄弟や分家の子たちも同じような扱いを受けているのだと、稚児ちごの時分には信じていました。

 

 ところが、どうやらそれは違うようだと、いつからか理解していました。私の中に流れる妖怪の血が憎まれていたと知ったのです。

 当時の私は、どうしてそんなことに拘るのか、私は私なのにどうして、と不思議でなりませんでした。

 けれど、6つ、7つ、8つと歳を重ねるにつれ、その不思議は溶け、やがて諦念が現れました。

 仕方のないことだったのです。

 私の父はあまりに殺しすぎました。退魔をぎょうとする者だけでなく、ただ日々を懸命に生きる民を、まつりごとの中枢を担うお方を、あるいは咎人とがにんを、一切の差別なく平等に殺しました、何人も何人も。


 そのような男を愛した母は、愚かな女だったのでしょう。箱入り娘が、甘い囁きに囚われ、快楽に溺れ、狂ってゆく。珍しい話ではありません。

 けれど、今になって少しだけ母を憐れに思います。誰かを愛すると心がおかしくなってしまいます。それは愚かではあっても……、いえ、やめましょう。このような自己弁護こそみっともないことです。


 私の肉体的な成長は12歳で止まってしまいました。父の血がそうさせたのでしょう。

 その時から私を見る皆さんの目はより暗くなってゆきます。

〈なんとおぞましい〉〈人喰いの子め〉〈化け物の分際で人のふりをするな〉

 このようなことをよくおっしゃっていました。

 しかし、私は追い出されたり、まして殺されたりはしませんでした。 

 この時代の妖怪は今と違い、人間を殺すことになんの躊躇ためらいもありませんでした。中には尋常ならざる力を持つ者もいます。

 彼らに対抗するために、私が必要だったのです──半妖の私は、人間の霊力と妖怪の妖力をどちらも有しており、また、莫大であり、強力な術をいくつも使用することができました。


 正直に申し上げますと、逃げ出したいと思ったことは何度もあります。けれど、実際に逃げ出したことは一度たりともありません。

 私がいなくなると、なんの力も持たない民が真っ先に殺されてしまうからです。私には彼らを見捨てることはできませんでした。

 だから、耐えて、殺して、そうして生きておりました。


 そんな私に転機が訪れました。私をめとりたいと言う殿方が現れたのです。

 初めは、どんな下心があるのかと疑いました。けれど、彼は退魔とは関係のないただの番匠ばんしょう。その下心が何なのかついぞ分かりませんでした。

 

 結局、彼が百足家の婿になるという形で婚姻はまとまり、与えられた離れ座敷で夫婦として暮らしはじめました。

 彼との生活は私に潤いをもたらします。

 母が亡くなってからというもの、私は独りでした。淋しくないわけがありません。けれど、それを埋めてくれる方はどこにもいないのだから仕方がない、と諦めていました。

 彼は、愛してる、と言い、口づけをし、私を抱きました。それが毎日のように繰り返され、そして、いつしか私は彼を愛していました。

 彼に喜んでもらうために何でもしましたし、彼も私を喜ばせました。とても幸せな日々だったと思います。


 しかし、そんな日々は唐突に終わりを迎えます。ある日、私が暴れ天狗を退治し、帰宅すると、彼の生首がありました。腕も脚もあります。しかし、胴体はありません。


 私の中に殺意が生まれたその瞬間、離れ座敷を囲む結界が形成されました。

 そして、数人の人間が現れました。皆、知った顔です。その中の1人、私の伯父は、〈いせ、いせ、今、殺すゆえ、殺すゆえ……〉とうわ言のように繰り返していました。

 いせ、とは伯父の妻だった女性です。私の父に喰い殺された女性です。

 彼らは、父の悪行の怨みを私にぶつけたのです。

 私の殺意に不純物が混じりはじめました。それは、哀れみかもしれないし、罪悪感かもしれません。はっきりとは分かりませんでした。ただ、その時に感じた、はらわたを掻き回されたかのような不快な苦しみは、今でもしっかりと憶えています。


 彼らは私を殺そうとしましたが、それは叶いませんでした。

 私のお腹には夫との子がいました。この子を殺されるわけにはいかなかったのです。

 だから、私は彼らを殺しました。皆、殺しました。

 しかし、寿命を代償にする禁術を使った彼らは強く、私は子宮を破壊されてしまいました。見つけることはできませんでしたけれど、私たちの子は、そこかしこにある赤黒い血溜まりのどこかにいたかと思います。

 それだけでなく、彼らの怨念が呪いとなり、私をおかしました。〈悪逆な妖怪の血を決して残さぬように〉との想いが込められた呪いです。臓腑が再生しても、子をすことはできなくなりました。


 この事件は、妖怪が押し入って起こしたということにされました。本家の人間は、醜聞が広まるのを、また、おかみとの関係の悪化を危惧したのでしょう。


 夫と子を失ってからも私は退魔師として百足の家にいました。伯父のような悲しみを抱える人を増やしてはいけない、と思うようになっていたからです。

 私は懸命に戦いました。それは、あるいは憎しみや悲しみから目を逸らすためだったのかもしれません。

 周りの人間は今までよりも私を恐がるようになりました。老いることなく絶大な力を振るうのだから自然な感情でしょう。冷たい砂が肺を圧迫するかのような息苦しさを覚えましたが、仕様のないことです。


 私に対する恐怖や増悪はこのころが最も強かったと思います。私はまた独りになりました。小間使いの方との必要最低限の会話以外で誰かと話すことのない、そんな日々でした。

 しかし、それでいいと思う自分もいました。子を産めない女は、人殺しの半妖は、夫を、子を守れない女は誰かに愛されたいなどと願ってはいけないのです──烏滸おこがましいことだと納得していました。させていました。


 夫と子を失ってから10年が過ぎたころ、妖怪との大きないくさがありました。

 おびただしい血が流れ、しかし、京の仙理眼せんりがん使いの活躍もあって、なんとか人間側の勝利で終わることができました。この戦により妖怪たちは数を大幅に減らし、また、人間から隠れるようになり、無闇に人間を殺すこともほとんどなくなりました。

 需要が減ったことで退魔師もどんどん減少してゆきます。

 百足家も退魔業だけでは維持できず、他の事業に手を出しはじめました。意外なことに、百足の人間には商才がある者が多く、むしろ専業のころよりも財産は増えていきました。自分たちの真の適性を理解してしまった皆さんのなんとも言えない表情はなかなかに滑稽でした。


 やがて人々は、〈妖怪は滅んだ〉と、次第に、〈お伽噺の中だけの存在だ〉と思うようになり、かつての悲劇を忘れてゆきました。 


 穏やかな日々が訪れました。昔に比べ、随分と平和です。

 私に対する壁のようなものは依然としてありましたが、恐怖や増悪は長い時の中で減じてゆきました。やはり穏やかな日々でした。


 けれど、淋しい、その感情はずっと消えることなく、それどころか年々増しているように感じられました。

 とはいえ、それで何か具体的な害があるわけではありません。何より私のような女には独りが相応しい、そう思っておりました。


 520歳のころ、私は百足家の当主になりました。

〈1番実力のある旭様がやったほうがいいんじゃないか〉という意見が出たからなのですが、推測するに皆さん面倒くさがっていただけのように思えます。

 そういうわけで、私の仕事は少しだけ増えました。しかし、悪さをする妖怪はそう多くないので多忙ということはありません。

 

 空の高い日、東北の地に仙理眼を発現した者──13歳の少年──がいるという報告がありました。凡そ450年ぶりの開眼者です。

 私は複雑な気持ちになりました。

 たしかに戦力の大幅な上昇は喜ばしくはあるものの、今の世では過剰な力。彼がその才能を存分に発揮する日は来ないはずですし、また、来ないほうが良いのです。

 だから、少し可哀想に思いました。生まれる時代と才能が致命的にズレています。

 初めは、その程度の印象しかありませんでした。


 龍脈りゅうみゃくというものがあります。これは自然の気が流れる血管のようなもので、大地の中を通っています。そして、龍脈を流れる気が地表へと漏れ出る穴を龍穴りゅうけつと言います。

 これらは物理的にくだや穴が存在するのではなく、霊的な次元でそのような外形をしているにすぎません。

 仙理眼の少年の話を初めて聞いた日から丁度1年後の葉月はづき、西の地にある龍穴に異常が生じてしまい、私と少年が出向くことになりました。


 少年は、たちばな 景修けいしゅうと名乗りました。独特の霊力を持つ少年で、まだ14歳だというのに不思議な包容力を備えているように私には見えました。彼の近くにいると、まるで陽だまりの中にいるような心持ちです。


 私と少年、地元の退魔師で龍穴の問題の解決に当たることになりました。

 道中、少年と言葉を交わしました。初対面であったので当たり障りのないことしか話しませんでしたが、第一印象のとおり、彼の言葉は木漏れ日のように私の心に沁みてゆきました。

 それは、彼の霊力の質や雰囲気だけが原因ではありません。彼は、私に対して差別や偏見を砂粒1つほども持っていなかったのです。

 たしかに、昔に比べて妖怪への嫌悪や恐怖は減り、私への隔意かくいも目立たなくなりました。けれど、完全に無くなったわけではありません。私のような不老の半妖は、やはり本当の意味では受け入れてもらえません。

 人は残酷です。自分と違う存在を排除したがる、それが人という生き物なのです。

 しかし、少年は違いました。彼からはそのような意思や感情は微塵も窺えません。不思議な子です。そして、あたたかい子です。


 仙理眼で地底深くを透視した少年は、〈龍脈にしこりができてんだけど。何これ生活習慣病かよ〉と零しました。〈大地の生活習慣とは、つまり環境問題に対する人間の意識が原因ということでしょうか〉と私は訊きました。そうしたら少年は、〈言葉の綾です。忘れてください〉と笑い、〈旭様って割と変な人なんですね〉と更に笑いました。心がじんわりとしました。


 仙理眼使いが最強と謳われたのは、透視や幻術の看破ができたからではありません。龍脈に流れる自然の気を自らの身体に取り込み、術や身体強化に使用することができたからです。

 少年は気でできた痼を吸収し、その気で不格好な式神を作製しました。おそらくは蛙だと思い、訊ねると、〈……うさぎです〉と返ってきました。式神は苦手なのですね、と心の中で微笑みました。


 痼がなくなり、龍脈及び龍穴は正常に戻りました。流石は仙理眼、と皆さんは褒めそやしましたが、少年は居心地悪そうにし、時折私にすがるような視線を送ってきました。可愛らしいと思った私は、性格が悪いのかもしれません。


 東京に戻ってからも、少年とは〈すまぁとふぉん〉なる物で連絡を取り合っていました。


 私は、恥知らずにも少年に惹かれていました。私よりずっと年下の子ども相手に恋心を抱くなどどうかしています。それでも、彼と話している時は心の痛みが和らぎます。そこに嘘はありません。


 けれど、私は半妖です。我が子を見殺しにした母親です。愛する人を苦しめた女です。子を産めぬ不具者ふぐしゃです。

 だから、この想いは秘めたままに。そのように考えておりました。たまに彼の声が聞けたら、私に微笑みかけてくれたら、それだけで充分。そのはずでした。


 ある夜、布団の中で目をつぶっていた私は、もどかしい痺れに寝付けずにいました。

 熱せられてとろとろに溶かされた水飴が、身体の最奥で脈打つような、そんな甘ったるいうずき──私は酷く発情していました。

 寝る前に彼と話したのがいけなかったのかもしれません。彼のことばかり考えてしまいます。

 彼は私のことをどう思っているのでしょうか。どのような女が好みなのでしょうか。もう女を知っているのでしょうか。どのように女に触れるのでしょうか。どうすれば喜んでもらえるのでしょうか。

 

 気づけば、私はそこへ手を伸ばしていました。布団を被り、彼を想い、そして、達しました。


 数日後、蝦夷えぞの地で私たちは再会しました。精霊が雨──通常の雨とは内包する気が異なります──を降らし続けているとのことで、私と彼が派遣されたのです。

 仙理眼のおかげで精霊はすぐに見つかりました。

 話を聞いたところ、失恋してずっと泣いていたそうです。彼の手のひらの上──精霊は3寸ほどです──で一頻り感情を吐き出した精霊は、幾分か落ち着きを取り戻したようで、名残惜しそうに去ってゆきました。空は晴れ渡っていました。


 その日の夜のことです。予約していたホテル──ホテル側の手違いでツインの部屋に宿泊することになりました──にいた彼と私は、いつものように言葉を交わしていました。

 私は幸せでした。これ以上は望んではいけません。たしかにそう思っておりました。

 けれど、私の中には獣が住み着いています。獣は淋しがりで、そして、淫らです。

 獣は彼の心を、情愛を欲しています。押し入り、刻み込んでほしいと願っています。愛を信じさせてほしいと焦がれています。

 

 不意に目が合い、言葉が途切れました。

 私の吐息は小さく痙攣し、瞳はほとんでいました。ベッドに並んで座っていたため彼との距離はほとんどありません。誰が見ても、発情した雌が雄を誘っているのだと解釈するでしょう。

 意図して媚態を演じていたわけではありません。自然とそうなってしまったのです。

 目を逸らすことも動くこともできずにいると、彼が瞬きをしました。そして、唇に感触。一瞬だけ微かに触れる、そんな口づけでした。







 景くんと会うのは何日ぶりでしょうか、と私は子どものようにはしゃいでいました。予定よりも2日早く到着することができ、〈銀髪ちゃん〉の捜索のために訪れたはずなのに純粋に喜んでいました。


 しかし、その感情は長くは続きませんでした。私はそれを見てしまったのです。景くんを驚かせようと思い、気配を消して彼の家に向かっている時のことです。

 

 景くんと彼より2つ3つ年下の少女が楽しそうに街を歩いていました。

 

 たしかに、ただの友人や親類かもしれません。しかし、私の心臓はきしみ、鼓動のたびに痛みを覚えます。

 それは嫉妬心ゆえに、ではありません。

 違和感なく並び歩く2人を見て、景くんには私のような女ではなく彼女のような年頃の少女のほうが相応しいのだと、自然と思ってしまったからです。

 おそらくあの少女は妖怪でしょう。けれど、外見どおりの年齢のはずです。私のような例は極めて稀なのです。

 それに、彼女は子を産めない身体ではないでしょう。論理的な根拠はないですが、きっとそうに違いありません。私ではできないことも彼女ならばできるのです。

 そして何より、彼女は汚れていないように見えます、子を見殺しにした女とは違い──。


「……」息を殺し続けます。


 もう充分でしょう。充分、夢を見ました。たくさんの温もりを貰いました。もう終わりにすべきです。

 景くんの人生に私はいらないのです。もしかしたら、今までの優しい言葉も可愛い笑顔も全て、立場上逆らえずに嫌々やっていただけかもしれません。好きでもない女の情欲に付き合わせていただけかもしれません。

 

 罪悪感、悔しさ、安心感、憎しみ、愛情、自己嫌悪、淋しさ、悲しみ、感謝の念、他にも様々な、そして、身勝手な感情が心裏に生まれ、矮小な私を圧迫してゆきます。苦しい、ただただ苦しい。


「……っ」


 ──私は逃げ出しました。




▼▼▼




『もう終わりにしましょう』


 突然、そんなRINEが旭様から送られてきた。

 自室にて、明日は旭様に会える、とにやにやしていたらこれである。いったいどうしたというのか。


 直ぐ様、返事をする。『話がしたいです。今、掛けてもいいですか』


 1分、5分、10分と沈黙を続けるスマホを手に、マジかよやべぇよやべぇよ、と焦っていると、15分が過ぎたころ、ようやく通知音が鳴った。


『橘さんには私のような女は相応しくありません。昨日、それを改めて理解しました。これからはただの上司と部下です。今までたくさんの幸せをありがとうございました。さようなら』


 心臓が跳ね、海底に引きずり込まれたかのように息が苦しくなる。

 落ち着け、と平静を保とうと努力する。

 メッセージをもう1度読む。


「……昨日?」呟く。


 脳裏に閃くものがあった。

 つまり、もしかして昨日の透緒子との買い物を見られたんじゃないか。

 昨日は、駅前に透緒子の服や雑多な生活用品を買いに行っていた。何らかの理由で旭様の予定が繰り上がることもしばしばあることだ。あの場にいたとしてもそれほどおかしくはない。

 

「……浮気だと思った、のか?」


 もしかしたらそれもあるのかもしれないが、メッセージを読むに少し違う気がする。

 じゃあ、シンプルに俺に飽きただけで文章自体に意味はない? それにしては一昨日、通話した時は楽しそうだった。演技? いやまさかな。そんな雰囲気はなかった。俺が鈍くて気づいていないだけ? なくはないと思うけどしっくりこない。じゃあやっぱり……。


「……はは」不意におかしさが込み上げてきて、笑ってしまった。


 旭様に対して恋愛感情があるかどうか分からないとか、飽きられたら終わる関係だとか、そんなふうにカッコつけていたくせに、いざ振られてみると別れを素直に受け入れる気なんて微塵も湧いてこない。


「……」

 

 旭様のこと、大好きじゃん、俺。つーか、愛してるんじゃねぇか、これ。


 電話には出てくれなさそうなのでRINEを送る。『チャンスをください。会って、話して、それで駄目なら諦めます』


 しばらくして返信が来た。『初めてあなたのお家に行った日に、私が滞在していたホテルにいます』


「……」記念日を忘れるとめちゃくちゃ不機嫌になる人なのだろうか、という疑問が頭を過ったが、今はく。


 時刻は19時42分。

 立ち上がり、キレイめなズボンとポロシャツに着替えて──ドレスコードがあったような気がする──財布とスマホをポケットに突っ込み、部屋を出る。

 ホテルはちゃんと覚えている。とりあえずはそこに行って、それで……どうするんだ? 本心を明かしてくれるのか? 分からない。分からないけど、会いたい。許されるなら抱き締めたい。

 俺は家を飛び出した。







 俺の町には、所謂上流階級向けのホテルは2つしかない。そのうちの1つ、そびえ立つ摩天楼まてんろうと呼ぶには些か貫禄と資本金が不足しているホテルの前に、俺はいた。

 正面玄関口の付近では、警備員らしき人が暇そうにしている。


 部屋には宿泊客以外が入ることはできないので、『ホテルの前まで来ました。今、ロビーに来れますか』とRINEを送る。


 今度はすぐに、『はい』と返ってきた。


 よし行こう、ということで警備のお兄さんに、「こんばんは」と挨拶をしてホテルに入り、フロントに向かう。


「……いらっしゃいませ。ようこそニューガバリンホテルへ。本日はご宿泊でしょうか?」フロント係の茶髪の女性が、やや不審そうな趣で言った──中学3年生の子どもがこんな時間に1人だとこういう反応も頷ける。


 一瞬、仙理眼で幻術に掛けようかと思ったが、フロントの天井にある防犯カメラが、〈俺のレンズは誤魔化せないぜ? 舐めんなよ〉と威嚇してきたのでおとなしく、「宿泊客の百足 旭さんと約束があるので、ロビーを使わせていただいてもよろしいでしょうか」と訊ねる。


 フロント係のお姉さんは若干たじろぎつつも、「はい。どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ」と述べた。


「ありがとうございます」と応じ、振り返ると、エレベーターから降りる旭様が目に入った。

 

 ふい、と目を逸らされてしまった。悲しい。







「信じられません」ふかふかのソファに姿勢良く座った旭様は、言う。「それにあの少女が恋人であろうと友人であろうと、私の結論は変わりません」


 透緒子とは何もないということを説明したらこのように返ってきた。


「俺を嫌いになった理由を教えてくれませんか」


 旭様は何かを言おうと口を開き、しかし何の言葉も発せず、数秒の逡巡。そして、「理由はありません」と絞り出すように口にした。


 それはつまり、なんとなく嫌いになったから、飽きたから、あるいは、他の男に気持ちが向いたからということか……? と思う自分もいるけど、旭様の辛そうな顔を、腫れた目元を見ているとやはり違うのだろう。


 もしかして、というのはある。そうなのかな、と漠然と思いながらも、デリカシーに欠けると考えて気づかないフリをしていたことだ。


 でも、今はちょっとだいぶかなり余裕がないから、あえて踏み込ませてもらう。「旭様のお腹にある怨念まみれの霊力と関係がありますか」


「──っ」旭様の呼吸が一瞬だけ止まった、ように見えた。次いで彼女は、「……流石ですね」と困ったように眉を曲げた。


 旭様はその怨念塗れの霊力に隠蔽用の術を施していたようだけど、その程度では仙理眼の障害にならない。初めて一緒に仕事をしたときから、その存在は認識していた。

 そして、付き合ううちに覚えたもう1つの違和感──生理だから、とセックスを断られたことが1度もないんだ。

 それほど頻繁に会えるわけじゃないからタイミングを見計らっていただけかもしれないし、肉体的な成長の停止が原因で初潮を迎えていないだけかもしれないし、逆に数百年を生きる間に閉経しただけかもかもしれない。


 けど、おそらくは呪いの類いであろう霊力が子宮に絡みついていることを併せて考えると、生理のない身体、つまり──。


 旭様は溜め息をついた。泣きそうな顔で言う。「私は母親になることができません。私の子宮は呪われているのです」


「……」そんなことは気にしない、と喚きたくなったがこらえる。


「これは罰なのです」旭様は声を震わす。「私の父は多くの人を悲しませました。私もまた人殺しです。愛する人を、愛する子を守れなかった女です」そして、「今まで隠していてごめんなさい。こんな女でごめんなさい」と消え入りそうな声で続けた。


 それであのメッセージ──〈橘さんには私のような女は相応しくありません〉か。なるほど。だいたい分かった。

 

 頭の中を整理しようとして、整理するほどのことはないな、と気づき、何をやってんだ俺は、と内心で自分にツッコミを入れつつ、「旭様」と名を呼ぶ。


 浮世離れした美しい瞳が俺に向けられる。


 本当に綺麗だ、と微笑み、それから、バカみたいに単純な想いを言葉にした。


「愛しています」


「……」


 口にするとやっぱり恥ずかしい。けど、必要なときもあるのだと思う。多分。


「ガキだったんです。それで今まで自分の気持ちをよく分かっていませんでした」けど、と置く。「旭様にフラれて思い知りました。旭様のいない人生なんて考えられません。これからもずっとずっと旭様が必要なんです。旭様にどんな過去があったとしても、俺の知ってる旭様は、責任感が強くて、優しくて、ちょっと変わってて……」呼吸を挟む。「誰よりも可愛い人です。だから、愛しています」


 静寂が流れ、やがて一雫の涙が旭様の頬を伝った。そして、堰を切ったように溢れ出す。


 手で顔を覆い、声を押し殺して泣く旭様の横に移動し、背中を擦る。

 小さな背中だ。背負いすぎてしまう性格の旭様にはあまりにも。


 そう思う。







 しばらくして落ち着いた旭様は、「ごめんなさい、みっともないところをお見せしてしまいました」とはにかんだような笑みを浮かべた。


「みっともなくないですよ」俺は言った。


「ふふ」旭様は柔らかく息を洩らし、「景くん」と俺の名を口にした。そして、「私も愛しています」と。


「……」俺の表情筋はにやけないように踏ん張っているが、無理かもしれない。


 有り体に言って、ものすごくヤりたい。今すぐヤりたい。仕事も学校も放ってヤりまくりたい。


 のだが、旭様は纏う空気を変え、「ところで」と声色を暗くした。ぞくっとした。「昨日の子とは本当に何もないのですか?」


「何もないです。本当です」速やかかつ滔々とうとうと答えた。


「……ふーん、そうなんですか」旭様は唇を少しだけ尖らせ、「若い子のほうがいいですもんね。少しくらい許しますよ。だから気になさらないでくださいね」と圧(霊力と妖力)を放ってきた。


「誤解です。嘘じゃないです。頑張って我慢しま──」


「頑張って我慢したのですか?」旭様が意地悪な顔になる。「つまり、非常に強い劣情をあの少女に抱いたということですよね?」


 あ、あれ? 解決したんじゃなかったのか? おかしいな、と冷や汗を流しながらも、「違います。旭様のことしか考えていません。本当です。ロリコンではないので透緒子には魅力を感じません。旭様だけが特別なんです。嘘じゃないです。俺が愛してるのは旭様だけです」とまくし立てる。


「……ふ、ふーん。そうですか」と旭様は頬を朱に染め、この子はこれだから、などとぶつぶつ呟いている。


 一方、俺は、旭様って案外ちょろいのかも、とこっそり口角を上げ──。


「ひゃっ」旭様が控えめな悲鳴を上げた。透緒子がいきなり現れたんだ。


 相変わらずの、何を考えているのか分からない眠たげな顔をした透緒子は、至近距離で旭様を見つつ、「仲間」と小さな声を発し──そしてすぐに旭様にキスをした。

 

 え!? なんで?!


「んっ!?」悠久の時を生きてきた旭様でもこれは予想外だったのか、おもいっきり目を見開いている。いろんな意味でレアな光景だ。


 数瞬の後、透緒子は唇を離し、眠そうな表情のまま、「これからは・・・・・あなた一緒にお風呂入ろ……」と旭様を誘った──空気が凍る。


「……景くん?」旭様は笑った。ただし、目元は除く。


「はい……」俺は、直視できずにうつむいた。


 しかし、俺の顔を下から覗き込むようにした旭様は、「気持ち良かったですか?」と品のある笑みを深める。

 

「い──」俺が言い掛けるも、透緒子が、「すごく硬くなってた」と遮る。


「ふふふ……」


「……」


 どうすればいいんだろ……。

 

 ちらりとフロントに視線をやると、先ほどのお姉さんと目が合った──即、逸らされた。

 旭様に視線を戻す。怖い。

 

 けど、やっぱり。「旭様、可愛いなぁ」


「そんな言葉で誤魔化されませんからね?」と言いつつ、心なしか旭様の圧が和らいだように感じる。


 ちょろい。なんとかなりそう。


 俺は内心、ほくそ笑んだ──。


「景くん?」圧が増した。


 無理そう。

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