罪と野獣と美女と罰 第11話




 翌日。曜日で言うなら水曜日。四時間目の授業中。

 体育の時間にも関わらず、僕は汗を流すこともせずに体育館の端に座っていた。本来なら今こそ体育座りの出番だろうけど、それではどうにも不憫に見えるかと思い、あぐらの姿勢で一人、壁に寄りかかっている。

 体育教師は当初、天気が良いから時間いっぱいまでグラウンドをぐるぐるとマラソンしてみようかなんて、神話時代の拷問みたいな授業を提案していたのだが、「はいわかりました。屋外に出ればすぐにでもマラソンを始めてみせましょう。それでは先生、早速私をグラウンドに出してみてください」という果奈の発言を受け、意味もわからぬままにカリキュラムを体育館での自由運動に変更させられていた。

 一瞬、屏風と虎の話のようなとんちでうまくマラソンを躱したように思えたが、よく考えるまでもなく果奈の発言はただの立てこもり宣言であり、触れれば折れてしまいそうな彼女をどうすることもできなかった先生が、泣く泣く折れた形である。

 その最終決定を受けて僕らのリーダー里々様が「わやハレルヤ!」と両手を広げて沈黙を破ると、あっけにとられていた他の生徒たちもそれに続き、それぞれの形で喜びを爆発させていた。 宙に舞う上着やマフラーを見上げながら、学級崩壊ってこんな感じなのかなぁなんて思いが頭をかすめた。

 今日の体育は一組と二組の合同授業だったから授業中の果奈と里々の様子を楽しみにしていたのだけど、果たして二人は二人のままであった。

 ひとしきり喜びを爆発させたクラスメイトたちがぞろぞろと用具室から色々引っ張り出して楽しんでいる中で僕が一人壁際に陣取ったのは、全体を見渡してなにも見逃さないようにするため。

 お目当ては、なぜかボクサーの剣幕で縄跳びに精を出す里々ではなく、なぜかバレーボールを射出する機械を僕に向ける果奈でも、っておい。


「待てーい!」


 大慌てで軌道から逃れ、無様に床に転がった。

 まさか実際に撃ってくるはずはないだろうけど、誰だって銃口を向けられれば怖いだろう。しかも銃を握ってるのがあいつときた。イケると踏めば、あいつのトリガーはいつだってフェザータッチ。だから僕のこの間抜けな体勢だって誰にも責める権利はないはずだ。

 地面すれすれから抗議の視線を送っていると、灰色のジャージに灰色のマフラーという格好の果奈が名前もわからないその装置から手を離し、見下ろしたままあざ笑うように、見せつけるように優雅にこちらに近づいてきた。


「せっかく私が屋内での運動を勝ち取ったというのに、どうしてのんびり座ってるのよ」


 そう言って僕の頭上に毅然として構えた果奈は、冥土の土産を渡すような顔とは裏腹にか細い手を差し出してきた。


「勝ち取ったんじゃなくて恵んでもらったんだろ。おもちゃ売り場で転げ回ってる子どもと同じだよ」


 照れ隠しに悪態を吐き、差し出された手を取って元の姿勢で壁に体を預ける。


「なによ。転げ回ってたのは空音じゃない。さては私が手柄を立てて喝采されたものだから羨ましいんでしょ。妬いてるんでしょ」


 僕の横に、適切な距離を保って腰を落とす果奈。女の子の体育座りは男と違ってどうしてこうも愛らしいのだろうか。


「妬いてないし、別にサボってたわけでもないよ。見逃さないようにしようと思って」


「見逃さないって、繰り返し系の擬態語的なやつを?」


「なにそれ。擬態語?」


「チラチラとか、バインバインとかよ。どーせアレ見てムラムラしてるんでしょ」


 よくわからない台詞と同時に伸ばされた白魚のような指の先に目を向けると、ぬばたまの黒肌を汗で濡らしながら懸命に縄跳びを行う、鬼のような形相の里々の姿があった。

 息も絶え絶え、一跳びごとに限界のその先に跳び込んでいるかのようなその姿は、鬼気迫るというか死期迫るというか。


「ムラムラってかヒヤヒヤするんだけど。さっきからどうしちゃったのあいつ」


 二つくらい階級を下げたボクシングの試合でも控えてるのか?

 僕は女子のダイエットには頑として異を唱えるぞ?


「きっとああすることで地球を守っているのよ。縄跳びをやめた途端に地球が爆発するんじゃないかしら。私の読みだから、もしかしたら違うかもしれないけれど」


「もしかしたらってなんだよ。違うに決まってんだろ。もうお前は隅っこで大人しく漫画でも読んでろよ」


 果奈のジャージのポケットには、体育の時間にも関わらず漫画本が一冊しまい込まれている。


「あなたもしかして漫画を馬鹿にしてる? かっちゃくわよ? このサボリ魔」


「僕が馬鹿にしてるのはお前だよ。それにサボリ魔って、お前も座ってるだけだろうが」


 バスケにバレーボールに、卓球。体育館内では小さなコミューンがいくつも形成され、それぞれが嬉しそうにスポーツを楽しんでいる。里々はまぁ、規格外だし論外だ。


「私はほら、あの変な機械を倉庫から引っ張り出した時にあばらとか二、三本持ってかれたから、それで今はちょっと休憩なの。少し休めば治るわ。肋骨だもの」


「肋骨だものってなんだよ。やっぱお前もう漫画読むの控えろ」


「なによ。読めって言ったり読むなって言ったり、支離滅裂だわ」


「支離滅裂じゃなくて臨機応変だ。お前らに対する処世術だよ。常に頭回してないとお前らが退屈するだろうが」


 こいつらとは末長く付き合っていきたいからな。こっちだって必死なんだよ。


「ふーん」


 淡白な台詞を吐き、抱えた足を自身の体にいっそうグイッと近づける果奈。顔はマフラーにすっぽりとうずめられ、なにやら体をもじもじとよじらせている。

 またおしっこでも我慢してるのか、それともまさか照れちゃったりしてるのかななんて思った矢先、急に勢いよくうずくまって体育館の冷たい床に耳を当てた果奈が、


「しっ! この足音は……追っ手! 数は十……いや、二十!」


 とほざき始めた。


「……」


 甘々のラブロマンスは夢のまた夢。ほんと、こいつといると苦労も笑いも絶えないよ。


「どうして黙ってるのよ。常に頭回すとか偉そうなこと言ってたくせに、全然ツッコんでくれないじゃない。死体より役に立たないわ」


「死体が役に立つかよ」


「あら知らないの? 世界レベルの雪山登山なんかでは、死体が目印になったりして登山者の助けになっているのよ」


「いやそれにしたってだな……」


 それでも死体よりは役に立っているんじゃないかという滅多にないであろう不思議な弁明をしようとしたところ、ある異変が目に飛び込んできた。


「あれ、地球が爆発するんじゃないのか?」


 体育館のほぼ中央。力尽きたのであろう里々が地べたに派手に倒れこんでいた。


「ほら、やっぱり私の読みはまた外れたわ。読みが外れるという読みは当たるのだから、皮肉なものね」


 呑気に答える果奈だけど、それどころじゃないんじゃないか? あいつちょっと湯気出てるぞ? 


「仕方ないな……」


 のそっと立ち上がり、里々回収の意思を見せてみる。

 幸か不幸か、他の生徒たちは各々のスポーツに夢中で黒ギャルの異変には気づいていない。というかなんであいつらもあんながむしゃらに体を動かしてるんだ? 里々の意欲は伝染するのか?


「んっ」


 甘えた声を出して、伏せたままこちらに手を伸ばす果奈。

 僕は黙って彼女を床から引き離し、手のひらに感じる温もりに心を溶かされながら里々の元へ向かった。


「里々ちゃん、大丈夫?」


 恐る恐る里々の元に歩み寄り、精も根も尽き果てたといったその姿を見下ろす。


「こりゃあ薬草レベルじゃどうにもならなそうだな」


 速い呼吸に合わせて胸の海抜が大きく変動しており、ジャージがめくり上がった腹部がキラキラと汗で輝いている。こいつは腹も黒いんだな。いや、そういう意味じゃなく。


「里々ちゃん、聞こえてる? ねぇ、里々ちゃん!」


 しゃがみ込み、里々の頭を両手で小刻みに揺らす果奈。意識確認の方法としてはちょっと見劣りする手法だろう。


「大丈夫? お肉買ってくる? お肉食べたら治る?」


 満身創痍の里々は返事もままならずに口をパクパクさせて、地震が起きたら真っ先に向かいたくなるくらいの連峰をただ波打たせるだけであった。


「おい里々、大丈夫か? 状況はさっぱりだけど、僕たちになにかできることあるか?」


「できること……ある」


 やっとのことで音を発した里々は続けて、


「わり……きって……」


「割り切って? なにが? なにを?」


「円周率……割り切って……」


「できるか! 僕はスパコンか!」


 はぁはぁと全身で酸素を取り込む里々。筋肉にはまだ行き渡っていないようだが、頭は少しだけ回復してきたようである。


「とりあえず大丈夫そうだな。ほら果奈、このままじゃ邪魔くさいから端まで運ぶぞ」


 僕の言葉を受け、里々のお腹をしまってあげていた果奈がきょとんとした顔を見せる。


「運ぶってこのデカブツを? 冗談。あなた一人でやりなさいよ」


「デカブツってお前な。ガリバーじゃないんだから、女一人くらい二人がかりならすぐだろ」


「空音まさか、ガリバーが巨人だとでも思ってるの? だっせ」


「え、違うの?」


「ガリバーは普通のサイズの人間よ。小人の国に行った時の話が有名だから、そんな印象が植え付けられてるのかしらね。だっせ」


 すげーバカにしてくるじゃんこいつ。たまたま漫画で得た知識があっただけのくせに。


「この際だからお姫様抱っこしてあげればいいじゃない。意識が朦朧としている今しかそんなチャンスはないわよ? 掴み取りなさい」


「そんな惨めなチャンスいらねーよ」


 それに僕が男だからか、お姫様抱っこにはなんの感慨もない。


「多分こいつ意識ははっきりしてるぞ。それにもしそうじゃなくても、そんなことしたらそのうち夜道で襲われそうで怖いんだが」


 認知はしていないが、里々ならファンクラブとか親衛隊とかが校内にあってもおかしくないんだぞ。今はこんなひっくり返ったカエルみたいになってるけども。


「意識がしっかりしているなら、なおのことチャンスじゃない。意識はあるけど体だけは動かないなんて、悪者たちが長年挑み続けていまだ完成していない秘薬の効果みたいじゃない」


「それは確かに……」


 ゴクリと生唾を呑み込んで、目の前で倒れ込んでいる肢体を脳内へ正確に転送する。

 すると身の危険を感じたのだろうか、「だいじょぶ……」と口を開いた里々が力なく寝返りを打ち、体勢をゆっくりとうつ伏せへ変容させた。


「ウチは……動かなきゃだから……」


 数年ぶりに大地に降り立ったナマケモノみたいにのそのそと動き出した里々は、そのまま体育館の端に向けて匍匐前進のような動作を始めた。なにがこいつをこうまで突き動かすのだろうか。

 その光景に、倒れそうになりながらもゴールへ向かうマラソンランナーを見ているような熱い感情が湧き上がった刹那、里々の前に立ちはだかった果奈がいきなり、「三千九百一……三千九百二……」とほざきながらスクワットを始めた。

 対抗心。里々のヘロヘロの匍匐前進をボケだと捉えた果奈が、とりあえず負けじと行動を起こしたのだろう。

 僕の中の温かい感情は一気に消し飛び、空いた胸の隙間を、なんでそんなことを考えてしまったのだろうという後悔と羞恥の念が補った。

 体育館内には「イッポーン!」やら「まだまだ!」やらの怒号が飛び交い、目の前には死に物狂いでハイハイする里々と、こちらをチラチラ見ながらスクワットをこなす果奈。

 僕は一体ここでなにを見せられてるのだろうか。そして僕は一体なにをすればいいのだろうか。ウサギ穴に落ちたアリスになった気分だよ。


「あの、僕ちょっと水でも買ってくるよ。必要だろ? 必要だよな?」


 いてもたってもいられずに、アリスのように夢オチとはいかないこの現実から逃れるようにして購買へと向かう僕であった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る