第3話 星の夜
「びっくりさせてごめんね。」
風呂から上がり、自分自身に呆れたように苦笑いを浮かべながら彼女は言った。駅にいたときより顔色も良くなり、彼女らしい柔らかな雰囲気を取り戻している。
「ちょっとは落ち着いた?」
蓮がきくと「うん」と彼女は頷いた。
「本当に、助けてくれてありがとう。」
さっきまでとは別人のように、彼女ははっきりと俺の目を見て言った。幼さを感じていた大きな目が、やけに澄んでいて、大人びて見える。
でも、その海のように透き通った瞳の奥には大きな夜が沈んでいることを知っている。
「いいよ、気にするな。駅まで送るよ。」
「またいつでもおいで」
蓮がひなにひらひらと手を振った。
アパートを2人で出て、夜道を歩く。秋と冬の間。時刻は19時半。もう外はすっかり暗かった。先程まで降っていた雨は上がり、空気が澄んでいる。昼とは別の世界のようだ。
「寒くなったよなあ」
ちらほら見えている星を見ながら呟く。こんな都会に住んでいて、星を見上げることなんてまずなかった。横を見ると彼女も空を見上げていた。
その澄んだ目に、この世界はどんな風に映っているんだろう。ふとそんなことを考えた。彼女の心に寄り添うには、俺には何もかもが足りていない。何も知らない。彼女のことも、亡くなった彼のことも。
「ずっと大丈夫だったの」
ふと彼女が言った。俺は何も返せずに、彼女の次の言葉を待つ。
「もう半年経つの。彼氏が亡くなって。もちろん悲しかったけど、私大丈夫だったの。前を向けてるって思ってた。最後のお別れだって、私、ほとんど泣かなかった。あの人、お母さんがシングルマザーでね、そんなお母さんの前で、泣けなかったの。」
「うん」
「でも今日、急にだめになっちゃったんだ。立ち方も、息の仕方も、全部分からなくなって、もうダメかもしれないって思った。」
駅が近づくにつれて行き交う人が増え、星は見えなくなる。空を見上げる人もどこにもいない。彼女が必死に心を繋いできたこの半年は、どれほど過酷なものだったのだろう。どんな夜を越え、どんな朝を迎えてきたのだろう。
溢れそうな感情全てが薄っぺらいような気がして、かける言葉を見つけられないまま駅に着いた。
「本当にさっきはありがとう。」
そう言った彼女は涙目になっていた。
でも、笑っていた。
(だめだ)
また、彼女がどこかに行ってしまう気がした。今度こそ、もう戻ってこれないどこかへ。まだ何も、助けられていないんだ。
そう思った瞬間、こちらを見つめる彼女の手を掴み、胸の中で抱きしめていた。
(俺が出る幕ではない、ただの偽善だ)
頭の中が色んな言葉で埋もれた。それでも止められない。彼女が壊れそうで、守りたくて、それだけで体が動いた。
「え、彩瀬くん…?」
「そんな顔で笑わなくていい。大丈夫じゃなくたっていいんだよ。」
所詮俺は知人Aなのだから、薄っぺらくて当たり前なのだ。とにかく何か彼女に伝えないと。
今守るべきは、自分じゃなくて彼女なのだから。
腕の中の彼女の力が、ふっと抜けたのが分かった。崩れそうになる彼女を慌てて支えようとした時、横から自分ではない手が伸びてきた。その手は同じように彼女を支えている。
ハッと横を見ると、そこには同い年くらいの男がいた。身長は俺よりやや低い。そいつは鋭い目つきで俺を睨みつけていた。
「お前、何してんだよ」
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