第31話 あなたがいる


12月も下旬に差し掛かった。


あと1週間もしないうちに年が明ける。


奏多は、病室でミカンを剥いていた。白い寝巻に包まれた隙間から、包帯が覗いている。


窓から見える景色は快晴だが奏多の心は晴れ渡ってはいない。


「いや、マジでビビったわ」


丸椅子に腰かける兄が肩をすくめる。


「バイト帰りになんか空に光の玉みたいなのが撃ちあがっててさ、なんだと思ったら子供のころよく遊んだボロ家の広場から上がってるし、そこに行ってみたらお前が重傷で倒れてるし、わけわかんなかったよ」


「うん……」


力なくそう言う奏多を見て、兄は発する言葉のトーンを落とした。


「何があったのか、まだ思い出せないのか?」


「うん……」


兄の言う通り、あの日奏多は体中汚れ、落雷にでも撃たれたような重傷を負って廃墟の広場に倒れていたらしい。


だが、奏多にはなぜそんなことになったのかも、そもそもその日何をしていたかの記憶も曖昧だった。


「でも……なんだか不思議な感じ。そんな変なことがあったのに、全然怖い感じがしないや」


「勘弁してくれよ……。あんなの見せられて俺のほうが死ぬかと思ったよ」


「ごめんて」


本当に不思議だ。外傷は明らかに雷に撃たれたものだった。それなのに、あの日奏多のいる街に雷どころか雨すら降っていない。


運ばれた当時は不整脈。体には内臓や筋肉まで傷がつく雷撃傷と呼ばれる内部へのダメージ。左側の鼓膜の破裂。体表には明らかに雷に撃たれた証拠となる樹状の火傷跡が左肩部から右の太ももまで刻まれている。重症も重症。しばらくは絶対安静を命じられている。


奏多は少し上着を捲ってみる。腹部の包帯の下には、昔背中に刻まれたものと同じ火傷跡がついている。


こんな重症を全く自分の記憶のない場所で負ったというのに、恐怖も何も感じないのは、いったいなぜだろうか。


奏多は窓の外を見る。病院前の駐車場で仲のよさそうなカップルが笑いあって歩いている。


自然とため息が漏れていた。


得体の知れないものへの恐怖感の代わりに、奏多の心にはポッカリと穴のあいたような虚無感があった。


何かが足りない。自分が怪我を負った日の記憶だけじゃない。それ以外でもここ数か月間で記憶があいまいなことがいくつもあるが、そんなものよりももっと大きなものを喪失している気がしてならないのだ。


昼前に兄は帰っていった。なんだかんだ2日に1回来てくれるのは、ちゃんと心配されているようでどうにも気恥ずかしい。冬休みに入っているから、親友の千草や陸上部のメンバーももしかしたらこの後来るかもしれない。


差し込む日の光に眠気を誘われつつも、奏多はあまり興味のないニュース番組へ目を向ける。


携帯端末は雷に撃たれたらしい日に壊れており、ゲームや友達との連絡もできない。はやく新しいものを買ってもらわなければ、暇を持て余して仕方がない。


『続いてのニュースです』


テレビから音声が漏れてくる。


『以前、御神体である大岩が割れてしまったことで話題になった巌澄神社ですが、なんと、先日本神社のもう一つの御神体である大岩も割れてしまったようです。神主は、警察へ届け出をしたものの、人為的な破壊である可能性は低いと――』


ドクンッと奏多の心臓が強く脈打った。


何か、頭の奥で記憶が語り掛けているような、そんな感覚が彼女を包む。だが、何も思い出せない。いや、思い出せているようで、認識できないような、そんな感覚ばかりが駆け巡っている。


奏多は頭を抱えた。


ないはずの記憶を探っているような、異様な感覚だった。テレビに映る巌澄神社の光景に見覚えがある気がする。


そのとき、ふと奏多の脳裏に見たことがないはずのイメージが浮かぶ。それはどこかの山道。その分かれ道で、誰かが見たこともない半透明の板を落としていくイメージだ。


そんなものを見た覚えがないという感情と、あの板がすごく重要な役割を果たしたような感覚が混ざって何とも言えない奇妙な気分に陥る。


わからない。ただ、自分の心に空いた穴の渇望がより強くなった。


強く、強く何かを求めていた。


焦がれるほどに、何かを。


気づけば奏多は病院を抜け出していた。寝巻のままで早足に陽光が降り注ぐ道を歩いていく。目指す先は、奏多が倒れていたというあの廃墟だ。あの場所に行けば何かがわかるような、いやそれ以上に、あの場所に行きたいという衝動が彼女を動かしていた。


「うっ……!」


足を動かすたびに針に刺されるような痛みが全身に走る。筋肉までダメージが入っている証拠だ。それでも奏多は必死に足を動かした。


入院してからしばらく走れていない。たったそれだけで脚力や体力がずいぶん落ちたように感じた。


廃墟前の通りにたどり着いた。路地を進んでいき、子供のころ遊んでいた広場に向かう。


ここに来るのは、子供のころ以来なのになぜだが久しぶりに来た感覚がない。


いや、最近来ただろうか、確かここの足場に引っかかった傘を取りに来たはずだ。だが、あのあとどうなったのか思い出せない。


路地を進んでいく間。奏多の心臓の鼓動が強くなっていく。


ここに大切な何かがある。そんな確信があった。


路地を抜ける。そして、雑草生い茂る広場に足を踏み入れる。


そして……


「……!」


奏多の目にあるものが飛び込んできた。それを見たとたん、奏多の目が大きく見開かれた。彼女が見たのは、廃墟の壁面。そこには、ペンキで書かれた『何か』があった。




『ここにいる』




奏多の目から涙が溢れだす。


何が書かれているのか、奏多には分からなかった。それが文字なのか、絵なのか……。だが、それでも、奏多はその書かれたものを見て、どうしようもないほど様々な感情が湧きあがり、とめどなく涙が溢れてきて仕方がなかった。


何かはわからない。ここに込められた意味もわからない。ただ、何かが彼女に伝わり、彼女の心の穴を満たした。


嗚咽を上げながら彼女は何かが書かれた壁に近づく。


その壁には、一枚の小さく折りたたまれた紙が釘で打ち付けられていた。それを手に取って、紙を開く。その紙は、どこの神社のものともしれない大凶のおみくじだった。


このおみくじが何なのかはやはり分からなかったが、奏多にはとても大切なもののように感じた。


そのおみくじの「恋愛運」にこう書かれていた。


『今の人と結ばれる見込み薄し。ただし、秘めたるが伝わる思いあり』


その一文に、奏多は声を上げて泣きとおした。

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