第21話 終焉の音


ガアアアアアン……。と重苦しい音が空間に響きわたった。


「え、な、何⁉︎」


落雷ではない。巨大な鐘の音のようなその音は、大して大きな音でもないのに、雨音にかき消されるわけでもなく耳に届いており、まるで空間そのものから音が発されているようだった。


「もうそんな時間か……」


戸惑う奏多を他所に、そう呟いたのはユルカ。彼は憎々しげに暗い空を見上げていた。


鐘のような重低音は何度も何度も響いている。規則正しくもなく、自然現象のようにその音は何度も空気を震わす。


視界の端で何かが動く。視線を走らせると、歩道橋の真下あたりで陽炎のように景色が揺らいでいる。みるみるうちに揺らぎは大きくなり、やがて揺らぎが収まったと同時に真っ黒な「何か」がそこに現れた。人間ほどの大きさのそれは、街灯の真下にあるにもかかわらず不自然なほど真っ黒で全く立体感を感じられない。一応円の形をしているが、それが円であるか球であるかもわからない。


「何、あれ……」


「『お迎え』だよ。奏多、走るぞ!」


「え、ちょちょっと!」


わけのわからないままユルカに手を引かれ、黒い物体とは反対方向に駆け出す。振り返ると黒い物体は車ほどの大きさにまで膨れ上がっており、ウニのようなトゲまで生えている。


「‼ あぶねぇ!」


「わっ!」


突然ユルカが横に飛んで奏多を抱き寄せる。急な動きについていけずに足を縺れさせた奏多はそのままユルカを巻き込んで倒れてしまう。


何かと思ってさっきまで自分のいた場所を見れば、そこには黒い物体から伸びた触手のようなものが空を切っていた。奏多がトゲだと思っていたのは、この触手だったのだ。


奏多の背筋が冷える。あれが何かはわからないが触れてはまずいものであることはわかる。それが気づけないうちにこんな形で近づいてきていたのだ。この黒い物体は全く光を反射しないのか、どの位置にいても遠近感が全くわからない。夜の闇も手伝って視認が非常に難しい。


恐怖とわけのわからなさでパニックになりかけるが、ユルカに迷惑をかけまいと必死に自分を押さえ込む。


「立て! 早く!」


言いながらユルカは懐から幾何学模様が書かれた紙を二枚取り出すと、自分に貼って奏多にも同じものを渡す。


「これつけてろ。行くぞ!」


再び手を引いて走り出したユルカの体の表面が、体に貼った紙から発生した光の膜で覆われる。


ユルカについていきながら、同じように奏多も紙を体に貼るが――


バスッと気の抜けた音と共に爆発のように勢い良く光の膜が一瞬で周囲に広がった。


「なっ⁉︎」


「うわっ!」


驚いて奏多が顔の前に手をかざす頃には光は収まる。ユルカに渡された紙はバラバラになって消えてしまった。


「今のはなん――」


突然のことに足を緩めてしまったのは失敗だった。意識を奏多の方へむけてしまっていたユルカの顔、の前の光の膜に、伸びてきていた黒い物体の一部が接触した。


「ユルカ!」


黒い物体は、接触部から光の膜の表面に広がっていく。まるでユルカを飲み込もうとしているかのように……。


「くっ……! 走るぞ! いいからここから離れるんだ! 全力で走れ!」


恐怖にすくみそうな足に鞭を打って奏多はユルカに続いて走り出す。陸上に注いだ経験を全て爆発させ、一心不乱に足を回す。


すぐさまユルカを追い越し、その背にユルカが駆ける音を聞きながら全力疾走した。時折黒い物体が来ていないか振り返りつつ、二人は300メートルほど走り続けた。


「もう大丈夫だ」


走りに走り、走った先にあった道脇の公園に駆け込んだところで、二人はようやく足を緩めた。振り返ると道の先に黒い物体はもう見受けられず、ユルカを覆う光の膜にも黒い物体は付着していない。


数本の街灯が明滅して錆やハゲの目立つ遊具を照らし出す。ユルカが来るまで雨に濡れていた遊具たちは、明滅に合わせて付着した水滴をキラキラと光らせる。夜とはいえ誰かが来てくれたことを喜んでいるようであった。


奏多の心臓は破れそうなほど早く鼓動を刻んでいた。300メートルの全力疾走に加え、未知のものへの遭遇の恐怖も心拍の激しさを後押ししている。


「なんなの……あれ……」


ブランコ前の金属柵にもたれかかりながら、激しい呼吸の隙間から言葉を吐き出す。


同じように短い呼吸を繰り返しているユルカは、息を整える間を少し開けてから、彼は口を開いた。


「何って言われると、俺にもよくわからない。ただ、同じ世界に長くいすぎるとあいつが来る」


ユルカは尻が濡れるのも構わずに、タイヤの遊具の上に座り込む。


「それで、あれに呑まれると、俺は別の世界に行く」


「!」


奏多はユルカの顔を見る。そこには悲痛の色が見えていた。


「世界にも、俺を許容できる限界があるんだと思う。世界が俺を容認できなくなると、ああやって別の世界に弾くみたいだな。あれは、世界の拒絶反応そのものって感じじゃないか? ハハ……、嫌われ者は辛いぜ」


その言葉は冗談と言うにはあまりに乾いていた。


世界の拒絶反応。あんな科学の法則をいくつも無視したようなものが、この世界にも存在する。それは奏多にとって衝撃的ではあったが彼女が最も衝撃を受けた点はそこではなかった。


「ユルカ……別の世界に行っちゃうの?」


「……あいつに飲まれたら、そうなる」


そしてユルカの説明だと、その時はもう近い。


「まだしばらくは大丈夫だと思う。世界にもああいう事象を働かせやすい場所とそうじゃない場所があるみたいで、世界が干渉しやすい場所に行かなければ、あいつは出てこない。……これからそういう場所は増えてくるだろうけどな……」


さっきの交差点がその「世界が干渉しやすい場所」だったのだろう。ユルカはもうあそこには近づけないというわけだ。


「でも、俺は行かない。行きたくない」


ユルカが勢い良く立ち上がった。


「俺は、この世界にいたいんだ」


その言葉は、雨を裂く流星のように確かな光を放っていた。


「あっ、ていうか、よく考えたら、あの『お迎え』は俺だけ狙ってたんだから、奏多は逃げる必要なかったな」


「あ、確かに」


「まあ、そんなこと考える余裕なかった……って、奏多、肘怪我してないか?」


「え?」


慌てて自分の両肘を見る。ユルカの言う通り、右側の肘が怪我しているようで、服の上から血が滲んでいた。


「あー、ほんとだ! 痛くなかったから全然気づかなか……や、気付いたらなんか痛くなってきた……」


「見せな。治す」


「あ、ありがと。想互術サージェンってそんなこともできるんだ」


「いや、これは想互術サージェンじゃない」


そう言って彼がジーンズのポケットから取り出したのは不思議な文字が書かれた紙だった。先ほど『お迎え』に追いかけられていた時に渡されたものに似ている。想互術サージェンのようにも見えるが、書かれているものがいつも想互術サージェンで見る幾何学模様と違い、得体のしれない文字となっている。


魂法パオっていうまた別の世界の魔法みたいなやつだ。人間の魂に作用する。それでさっきは俺自身の魂の壁を作って、『お迎え』から自分を守ってたんだ」


「ふーん。私の時は爆発したけど……」


「多分、法語が間違ってたんだ。今度のは大丈夫なはずだ。傷口に貼って」


袖をまくって肘の傷口を露出させる。服の上からの傷なだけあって、その傷は擦り傷ではなく裂傷のようだ。倒れた際にアスファルトに強く擦ってしまったに違いない。服がなければなかなかの怪我だっただろう。ユルカに言われた通り、奏多は傷口に紙を貼った。……が、何も起こらない。


「あれ? こうじゃない?」


「いや、あってるはずだけど……。また間違ったか?」


首を傾げるユルカだったが、はたと眉を潜めて覗き込むように奏多を見つめた。


「な、何?」


「もしかして……。……奏多、ちょっと待ってて」


ユルカは砂場に足を運ぶと、何やら図形を書き始めた。円状のそれは、今度は想互術サージェンのようだが、一体何をしようとしているのか奏多には見当もつかない。数分かけて砂場に文字を書き終えた後、そのあたりの木の枝を何本か折って円の中心に置いて、彼は息をつく。


「奏多。ここの真ん中に立って」


「え、うん」


素直に円の中央に立つ。先ほど置かれた枝を踏んでいるが、それで問題ないようで、ユルカは円の外から奏多の足元にある枝に向かって別の枝を投げ入れる。


「……」


が、何も起こらない。


「ねぇ、これ何しようとしてる?」


「あんたに火をつけようとしてる」


「ちょっとー⁉︎」


慌てて円から飛び退く。急いで体を見渡すが、火はどこにも着いていない。


奏多のいなくなった円の中心にもう一度ユルカは枝を投げる。すると、その枝が中央の枝たちに触れた瞬間、小さな炎が枝の上に現れ、ほんの数秒後には消えた。


「そういうことだったのか……」


「え、何? どういうこと? なんで私燃やされそうになった?」


若干怯えめにそう言う奏多に構わず、ユルカは言葉を続けた。


「奏多の能力が何かわかった」



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