第20話 0人の人質

「ただいま」


雨に濡れた体から滴が滴り落ちる。


彼女はそのまま部屋行って着替えると、ベッドに横になった。枕を顔の上に持ってきて自分の顔に押しつける。しばらくはユルカの顔は見たくない。もともと陸上部のことでモヤモヤしてたのに、ユルカともこんなことがあったのでは、気分は最悪だ。


それに、


(またしばらくしてたらユルカの方から謝りに来るでしょ)


そうしたら幾分か気が晴れるかもしれない。


それまで会いに行ってやるもんか、と奏多は決意した。


ユルカはああ見えて意外と人がいい。なんだかんだ奏多に合わせてくれるところもあるし、彼の他人に無頓着な姿勢も奏多が咎めると多少反論するが、結局は素直にいうことをきく。


今回もきっとそうなるだろうと奏多は思った。


なかなか心が晴れずに眠ることもできないでいたが、ようやくウトウトしてきた頃、部屋にノックの音が響いた。


「メシ」


兄の声にため息をついて奏多はリビングへ向かった。


夕食はオムライス。中身のチキンライスにミックスベジタブルを混ぜるのが南家流。兄はグリーンピースが嫌いなので嫌がるが、奏多は好きな料理だったので心が少し暖かくなる。


「お前、結局部活厳しくなんの?」


「今その話嫌」


食事中そう話を振ってきた兄の言葉をつっぱねる。


「あら、難航してるの?」


が、母が頬に手を当てながら話を続けてくる。


「それもあるし、人間関係的なところでもちょっと」


その話題は嫌と言いつつ、感情を吐き出したくて奏多の口は動いていた。


「まあだろうな。ゆるくなるならともかく、厳しくなるんだもんな」


「でもほとんど決まってるようなもん。『朱音が厳しくできないなら辞める』って最終的には言うつもりらしいから」


「熱血漫画じゃん」


「熱血っていうか、朱音の場合打算だけど。そう言ったら学校も変えるしかなくなるだろうし……」


「ひえー。女こわ」


「女一括りにするのやめて。私はこのやり方好きじゃないから! 自分人質にとって言うこときかせてるみたいじゃん」


「みたいっていうか、その通りだけどな。なんていうか、ちょっと卑怯だな……おかわり」


兄が母に皿を差し出す。にこやかに母が追加の卵を焼き始めた背を見つつ、兄の言葉を思う。


そう。朱音のやり方は少し卑怯だ。相手が自分を捨てることができないとわかっている上での強行だ。


そんなことが……、


「あ……!」


電流のようにある思考が流れる。思わず奏多はスプーンを手から溢した。


「どした?」


「ううん。なんでもない……」


そう言う奏多の顔色は青い。


朱音を批判する奏多だったが、ふと思ってしまったのだ。自分はどうなのかと。


今の話、何か他のこと重なる部分があるような感覚があった。そしてそれが何かわかった。朱音が学校にやろうとしていることは、奏多がユルカにやっていることと同じではないか?


「……ごちそうさま」


考えを進めながら部屋へと戻る。


『俺にとってそれはでかいことだ』この世界のどこが好きかと問われたとき、『話相手がいること』と答えたユルカが続けた言葉だ。


ユルカには奏多しかいないのだ。


人間関係は世界のようなものだという奏多の考え方に照らすなら、ユルカの世界には奏多しかいない。比喩でもなんでもなく、ただ事実として。奏多しか彼を認識できず、話すことも近付くことも彼女しかできないのだから。


椅子に座ったまま組んでいた手が震える。今までの大きな勘違いに気付いて。


奏多はユルカと喧嘩になりそうになったり意見の食い違いがあると、これみよがしに不機嫌な様子を見せた。不機嫌そうな奏多を見るとユルカが折れてくることに気付いて以降、奏多は冗談半分でも不機嫌な態度を見せてユルカに意見を通すこともあった。


それを見て、ユルカは根は優しいんだと、本心では奏多の言っていることに同意してくれているんだと思っていた。


けれど違ったのではないか?


ユルカからすれば、奏多は自分を人質にユルカを脅していたのと同じなのではないか?


だとしたら、わざと不機嫌な態度をとって彼を折れさせたのは、すごく残酷なことなのではないか。本心とは違っても、納得できていなくても、彼は奏多の機嫌を取らないといけない。なぜなら、奏多は彼の世界の全てだから。


いてもたってもいられなくて傘も持たずに家を飛び出した。


雨脚が強くなってきており、体を濡らす雨が冷たい。体も心も冷えている。


毛嫌いしていたやり方に自分も気づかず手を染めていたと思うとゾッとする。


確かめにいかずにはいられなかった。


夜の住宅街を抜け、橋を渡り、いつもの廃墟へ向かう。三車線ある大通りの十字路に差し掛かったところで、大きな歩道橋を駆け上がる。十字路をぐるりと円を描いて繋げる歩道橋だが、わざわざこうして登らなければ向こうに渡れないことにも今は苛立つ。


ふ、と雨が止む。その突然の止み方には心当たりがあった。奏多は足を止めて荒い息を吐きながら、歩道橋上からあたりを見渡す。


「ユルカ!」


青年は十字路のちょうど真ん中にいた。誰もいない道路の真ん中で街灯と信号の光の色に照らされた姿が見える。どこかに向かう途中だったようで、歩みを止めた姿勢のまま奏多のほうへ振り向いて驚いている。


急いで奏多は歩道橋を降り、青年意外誰も通らなくなった十字路の中心へ向かう。


ユルカは相変わらず一滴も雨に濡れていない体で驚いた表情のまま奏多を迎える。


「奏多。なんでここに……」


「あぁー、えーと……ユルカに会いに……」


呼吸を整えつつ言った言葉が白々しく聞こえていないか心配になって、奏多は視線を空とユルカの間で何度も行き来させた。


「俺に?」


「う、うん。そういうユルカこそ、こんな時間にどこ行くつもりだったの? コンビニ……はこっちじゃないか」


「俺は、その……」


彼は奏多から目を逸らしながら頬を掻いた。


「あんたに……謝りにいこうかと……思って……」


「……!!」


奏多は息を呑む。その言葉を聞いた途端、奏多の心に亀裂が入り、そこから冷たい液体が漏れ出す。体に収まりきらなくなったその液体は、涙となって体から溢れた。


「! 奏多、悪かった! そんなに……」


「違う!」


頬を伝った涙が落ちて、この場にないはずの雨を降らす。


ユルカに自分に謝意を向けるだけで、心が痛かった。


自分の想像が当たっていたことに、自分の行動の残酷さに気付いてしまって……。


心が流した血は止めどなく目から溢れ出てくる。


人を慮らないユルカがどうしてわざわざ奏多の家にまで謝りに来るというのか。それもただの考え方の食い違いで。


奏多の考え方が正しいと思ったから? いや、彼の呪いが歪めてしまった性根がそんな簡単に変わるものか。


考え方は変わっていないが謝りに来たのた。奏多が彼の世界を、奏多自身を人質にとったから。


「ごめん……! ごめん……! 謝らなくきゃいけないのは私のほう! 」


奏多は自分の頭二つ分以上背の高い青年に抱きついた。


「ごめん……! そんなこと言わせてごめん!」


自分の汚さが恥ずかしくて、悔しくてたまらなかった。同じ色の汚れがあるのに朱音を批判していた。気づかずにユルカへ刃を振るっていた自分も同類であるのに。自分の浅はかさが悔しくて、『人に迷惑をかけるな』なんて善人ぶっていた過去の自分があまりにも惨めに思えた。


何が「ユルカは人がいい」だ。何が「人を慮れ」だ。


どの口がその言葉を吐いていたのだ。


雨音が何重にも響いて、いくつも地を叩く滴の中に奏多の涙も混ざっていく。


奏多の豹変に戸惑っていたユルカも、やがて彼女の心に気付き、ぎこちない動きで奏多の肩へ手を置いた。


「……別に、あんたは自分のしたいことしただけだろ。そんな泣くことないだろ」


奏多は首を振る。


「……ユルカは、私と話せなくなったら嫌なんでしょ。また誰とも関われなくなるのが」


「……まあ、そりゃあ……な」


奏多の瞬きに合わせて涙が散る。


「それなのに私、そんなユルカのこと考えもせずに行動してた……。ユルカに人のこと考えろって言っておいて、私がユルカのことを考えられてなかった」


悪意を持って接したわけじゃない。ただ考えが足りなかっただけ。自分が無意識の残酷さを振るう側だなんて、全く思っていなかった。だがそれは勘違いだった。自分は普通だと。特別に善人なわけでも特別に悪人でもないという考えが、単純に視野を狭めていただけだった。


「怒ってる相手のこと気にしてどうすんだよ」


その考え方がユルカに理解できないものであることも、また別の悲しみを誘った。


ユルカは頭を掻くと、腰を屈めて奏多と視線を合わせた。


「よくわかんねぇけど、今回はお互い様ってことにして水に流そうぜ。俺も、あんたの言ってたこと、全く間違ってるとは思ってないし。俺もちょっとは周りのこと考えるべきなんだと思う」


「……」


もう一度「ごめん」と言おうとして奏多は飲み込む。ユルカの言う通り、これ以上謝りあっても仕方がない。さりとて他の言葉も出てこずに、奏多はしばらく何も言えなかった。


雨音が大きく聞こえる。沈黙の隙間を埋めるように騒がしいその音は、二人に時間の流れだけを教えてくれる。


「あー、それとだな……」


 頬を掻きながらユルカは目を泳がせていた。


「また、弁当は持ってきてくれないか? あれがないと、腹減って仕方がないから……」


「……プッ。アハハハ」


 奏多は、思わず吹き出して笑ってしまった。


 奏多と同じように、彼もまた歩み寄ろうとしている。人らしく。


「とりあえず、ここ離れないか? ここにいたらほら、交通の邪魔ってやつだろ?」


「あ、」


そうだ。確かにここは道のど真ん中。誰もそれを認識できないとはいえ、この十字路を通れなくて困る人間は多いだろう。


ユルカからその言葉が出たことに心の暖かさを覚えつつ、奏多は涙を拭って道脇へと歩を進めようとして、


ガアアアアアン……。と重苦しい音が空間に響きわたった。

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