第19話 衝突 

「やめればいいだろ。嫌なら」


至極どうでもよさそうにユルカはそう言った。


学校が終わった夕方。雨で部活もなくなった奏多はユルカのいる廃墟に訪れていた。


室内は相変わらずカビ臭く、雨の匂いがいっそう鼻によく通る。崩れた家具や抜けた床。あらゆるものに積もった分厚い埃。人の気配とは程遠い光景。ユルカが寝泊りしている玄関付近の一角だけは、まだ生きている机や椅子や布団が置いてあり、この家の死から少し遠い。と言っても、奏多基準ではそれらの家具もとても生活に使えるとは言えないほどズタボロなのだが。


汚れを集める想互術サージェンがあるとはいっても、奏多とユルカの間で「汚れている」の基準は全く違うらしい。奏多にとってはユルカの生活区画は廃墟の一部同然だが、ユルカには立派な住処であるらしい。そのあたりはさすがに逞しいというかなんというか、根本的な感覚が奏多とは違う。


太陽の足が早くなる季節の夕方、それも雨の日ではあったが、室内は暗くない。


ボロボロの机の上に幾何学模様が描かれた紙が置いてあり、その上に浮かぶ水の球体が月のように淡い光を発して周囲を照らしていた。ユルカの想互術サージェンだ。


「奏多は周りを気にしすぎだ」


「ユルカが気にしなさすぎなんだよ」


憮然として近場の椅子の上に腰を下ろして奏多はそう吐く。


この話をしてしまったことを後悔する。彼に人間関係の話をするのは酷だと思ってはいたが、学校のことを話す流れで思わず部活のことも話してしまったのだ。


「そんなことない。部活だかなんだか知らないけど、その組織から抜けたらもう関わりのない他人だろ。関わりのない人間にどう思われようがどうでもいいだろうが」


「関わりなくならないし。クラス同じだし。友達だし」


「一緒の場所にいるってだけだろそれ。関わらなきゃいないのと一緒だ」


誰にも関われない青年がそう言うが、その彼の言葉が無性に奏多の心を逆撫でする。


彼は他人を慮らない。でもきっと初めからそうではなかった。


奏多は、無銭飲食を咎めた時のユルカの怒りの表情を思い出す。


人の営みの輪から外れてしまっている彼が人に迷惑をかけないことは不可能だ。そんな中自分を認識すらできないに人間を気遣っても、その努力さえも誰にも認識されない一方的なもの。その虚しさに耐えきれず彼は他人を想うことを捨てたのだろう。いや、捨てざるえなかったのだろう。想像を絶する孤独から心を守るために。


だが、そうとわかっていても。彼の背景を想像しても。奏多自身のことについて同じ基準で語られるのは嫌だった。彼の境遇がそうさせただけの価値観の枠で、さも真理であるように自分の生き方を閉じられる。濡れた真綿で抑えつけられるような不快感がそこにはある。


自分を落ち着かせようと、ため息のように大きな息を吐く。


「あのねぇ。そんな簡単じゃないよ。同じ場所にいたら顔も合わせるし、気まずいでしょ。それに周りにも『あいつらなんかあったんだ』とか思われるし」


「それがなんだよ。たいした問題でもない」


「もぉー……」


平行線だ。


カタカタカタ、と断続的な音がしていることに奏多は気づかなかった。それは彼女自身が忙しなく指先で机を叩いている音だった。


「部活は辞めて、他の場所で会うときは気にしない。これが最適解だろ」


「別に私辞めたいわけじゃないから。走るのは好きだし」


「でも新しいやり方でやるほど本気になれないって言ってただろ。だから辞めちまえって話してるんだよ」


「あのねぇ……その考え方はユルカが誰にも関わらないからできるんでしょ。 私はそうじゃないしそうしたくない」


「おい、好きでこんな呪い受けたわけじゃねぇんだぞ」


 ユルカの眉が険しくなる。


「大体、あんたは周りに気遣っていろいろ悩んでるみたいだけど、そんなのあんたのエゴでしかない」


「な……」


「捨てる予定の弁当を俺に食べさせてるのもそうだ。周りに迷惑かけてないって言ってるけど、本当にそうか? 本当だったら、金払って買うはずのものをタダで手に入れてるんだから、本来店に入るはずだった売り上げがなくなってる。そういう意味では、盗んでるのとそう変わらないんじゃないのか?」


「ちょっと、私はそんなつもりじゃ……」


「でも事実そうだ。違うのはあんたの気分の問題で、盗んでいようが、廃棄を持って帰ってこようが、本質的には同じだ。だからあんたが周りを気にしてることだって……」


ついに奏多は机に手をついて立ち上がった。ユルカに視線を向ける奏多の目は冷えていた。


「じゃあ、何? ユルカは、ものを盗んでもいいって思ってるってこと?」


「それは……」


 そこで言いよどむ彼に奏多は無性に腹が立った。


「……ダメだとは、思ってるけど、仕方ないだろ。俺はそうするしかないんだから」


「そうだね。でもそれは、ユルカだけに言える話だよね」


「だからなんだよ。あんたが独りよがりで他人のこと考えてるのは――」


「もういい」


奏多はカバンを持って踵を返す。


「おい!」と止めるユルカの声を無視し、廃墟を飛び出した。ユルカの力の効果範囲外に出て、廃墟を出て少し進んだところから突然雨が降り始める。雨と苛立ちが背中を押して地を蹴る足が速くなる。


ユルカの言葉だけを考えるなら、彼は間違ってはいない。それはわかっている。廃棄弁当の件もそう。部活のことだって奏多は何かしらの決断を下す必要はある。ユルカの言っていた「部活を辞める」というのも一つの選択肢だ。だが奏多が陸上を続けたいという気持ちと辞めた場合の人間関係で悩んでいることも事実。それを、人と関われない故に人を慮ることを辞めたユルカに言われるのは無性に腹が立つのだ。


あるいは多くの人と関わってきた誰かが同じことを言ったらまた違ったのかもしれない。同じことを言っていてもその人の背景によって重さも意味も変わってくる。


ユルカの考え方は、あの避けられる能力に与えられた経験によって歪められたものだ。実際、ユルカは頭では窃盗は悪いことだと思っている。彼の歪みを哀れむことはあっても、その考え方が土足で心に踏み入ってくるのは耐えられなかった。


人間関係なんて世界みたいなものじゃないか、と奏多は思っていた。そこが崩れるだけで人生は全く変わる。人間関係が崩れるのは世界が崩れるようなものだ。ユルカはそれがわかっていない。いや、わかる気がない。

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